第5話 恵みの水
秒、だった。
クロハはソファに寝転がると、1秒経過したかしないかくらいの短時間で目を閉じて寝息を立て始めていた。
全く無防備な姿だった。
「お、おい、クロハ。本当に寝ちゃったのか?」
ある程度大きな声をかけてみたが、クロハは幸せそうな寝顔で、起きる気配は微塵も感じられなかった。
稽古場に着いてから事情を説明する、と言っていた割には、俺を引き連れてくるだけ連れてきて、必要な説明責任は果たさずに居眠りか。国会議員かよ。
と、呆れつつも、俺は自分の風神雷神柄スカジャンを眠っているクロハの体の上に掛けてやった。
「……あのー、どちら様でしょうか? 部長……クロハ・テルメズ部長のお知り合いの方ですか?」
「ああそうです。お知り合いです」
警戒心MAXで身構えている黒縁眼鏡の女の子に対して、俺は堂々と答えた。
嘘は言っていない。言っていないぞ。
お知り合いだ。事実だ。ただ、知り合ったのがついさっきの旭橋の上だというだけだ。あの世はノーカウントとして。
「これは失礼しました。私は、旭川西魔法学園二年、相撲部の副部長、佐藤恵水といいます。漢字で恵みの水、と書いてメグミといいます。副部長といっても、相撲部にはクロハ・テルメズ部長と副部長の私の二名しか部員はいないんですけど」
「クロハが部長で、恵水さんが副部長? ってことは、クロハはマネージャーとかじゃなくて、なんというか、力士として相撲を取るの?」
「もちろんです」
「へ、へぇぇ、そう、ですか……」
旭橋の上でクロハと会って相撲部監督になってほしいと勧誘された時点では、俺は勘違いしていた。てっきりクロハは女子マネで、土俵の上で実際に相撲を取るのは別の男子部員だとばかり思っていた。
西高、じゃない、西魔法学園の相撲部には、女子部員二名だけしか存在しないらしい。
「あ、申し遅れました。俺は、城崎赤良と申します」
俺は高校二年生女子の佐藤恵水さんに対して深々と頭を下げた。相撲部、ということは、女子部員であっても体育会系だ。なんだかんだと礼儀を重んじるであろうことは想像に難くない。最初に礼儀正しく接しておくことが肝要だろうということは俺にも予測がついた。
「クロハに、『相撲部監督になってくれ』と言われて連れて来られたんですが……どういう事情なのか……なんか、恵水さんは知らなそうですよね?」
「監督ですって! 私、そんな話は一言も聞いていません! そもそも、男性が相撲の監督だなんて……普通はあり得ないんじゃ……」
黒縁の分厚い眼鏡の奥で、佐藤恵水さんは目を細めて怪訝そうな表情をした。
まあ、確かに、佐藤恵水副部長の懸念も、分からないでもない。
相撲部監督になってよ、と言われて問答無用で連れて来られた俺だけど、相撲部の部員はてっきり男だと思っていた。女子二名だとは想定していなかった。男である俺が女子部員を指導する、というのは何かと問題があると心配になるのが人情というものだろう。
そもそもの話、俺はテレビで大相撲中継を観戦するのは好きだけど、本格的な相撲の経験は無く、もちろん指導者としての知識も何も無いんだけど。それについては、そういった事情を知ってか知らずか、強引にスカウトしたクロハ部長がどういう目処で考えているのか聞いてみたいところだが。
その肝心のクロハ・テルメズ部長。相変わらずソファーでだらりと寝転がって気持ちよさそうに寝息を立てている。まだ起きる気配は無い。
そういや、なんか、魔法を使っちゃったから疲れて寝る、的なことを言っていたような気がするのだが。魔法ってそんなに激しく消耗するものなのだろうか。だったらなんで、わざわざ無理してまで自転車二人乗り空中移動の魔法なんか使ったのだろうか。西高、じゃなくて西魔法学園までなら旭橋からでも、歩いてそこそこの時間で到着できるのに。
「そもそも、男が相撲にかかわる、なんて、おかしいでしょう。土俵は女子の聖域、男子土俵に上がるべからず、というのが古来よりの伝統なんですし」
吐き捨てるように言った黒縁眼鏡恵水さんの発言は、違和感だらけだった。
それ、逆でしょ。土俵は男子の聖域、女子土俵に上がるべからず、というのが古来よりの伝統で、フェミニストあたりが必死に叩いていることじゃないのか?
女性政治家が、大相撲の優勝力士に対して土俵上で内閣総理大臣杯や知事杯を渡したいと言い出すと、相撲協会のエラい人が女性は土俵に上がらないでください、と言って制止する。一種の様式美というかそれ自体が伝統行事というか、そんな感じになっていたはず。
北海道の福島町は、小さい町ながらも、千代の山、千代の富士という二人の横綱を輩出したということで相撲の町であり、年に一度、女相撲大会、というのが開催されているらしい。そういう地方の行事では、女性が土俵に上がることもある。ちびっこ相撲大会なんかでは、女子の参加が認められているケースもあるらしい。
だけど、俺の知る限りでは、大相撲の世界では完全に女人禁制だったはず。本場所だけでなく、地方巡業でも、女性は土俵に上がれない、んじゃなかったかなあ。
それこそ、ちびっこ相撲大会でも、両国国技館で開催される全国大会では、女子は参加できない、んじゃなかったっけ。
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