女王ティターニア

4


 水中をたゆたうような酩酊感から醒めると、吹き抜ける風が前髪をゆらめかせていた。

 そこは、広間のような場所だった。柱があるが壁はなく、隙間からは一面の青空が見て取れる。かなり高いところにいるようで、雲に手が届きそうだ。

「《成功》みたいだな」

「バラバラにならなくてよかったわね」

「そりゃあ……よかったよ。ほんとうに」

 煉斗たちが立っているのとは反対側に、花びらでできた玉座があった。そこに腰掛ける長身の女性が、ゆっくりと口を開いた。

「そなたたちが、人族の旅人ですね」

「あんたが女王ティターニアか」

 途端、エルフの少女と、女王が揃って目を丸くした。

「あんたねえ、仮にも……」

「まあ、なんて言葉遣いでしょう。いえ、野蛮なヒューマンのことですから、それも仕方ないのでしょうね」

「そういうことだ。許してくれよ」

 いまだ煉斗に嫌悪じみた眼差しを向ける女王だったが、隣の可憐なる幼女を見ると雷に撃たれたようになった。

「あなたも……《ヒューマン》なのですか?」

「え、ええ、まあ」

 煉斗は得意満面、アイリスの肩に腕を回して愉しげに笑った。

「頬ずりしたくなるだろう?」

「そんなことっ!」

「もう、煉斗。からかうのはやめてください」

「おまえを? それとも、女王サマを?」

「両方!」

 などとやっているが、女王の耳には入っていなかった。女王にとって、いや、全エルフにとって《人族》というのは《怪物》であり、《蛮族》であり、、けしてかわいらしい娘の姿をしているものではなかったのだ。

 よくよく見れば隣の男も、人を食ったような態度は気に食わないが、イメージとは違った出で立ちをしている。

「幻惑の術でも使っているのですか?」

 自分が出会ったときと全く同じ問いを発した女王に、エルフの少女は思わずにやりとした。

 唐突にな質問に、ふたりの人族はぽかんとしている。

「いえ、なんでもありません……それで、そなたらの処遇についてですが」

「ああ、そうだったそうだった。お許しを貰いに来たんだった。

  てめえらの口に入れるモンはねえってんなら、さっき倒したボガートでも食うかな。寝床もそこらの道端で構わねえんだが、それでも《ニンゲン》を招き入れるのはお嫌かい?」

「ティターニア様、あの……」

「ええ。この人族の剣士があなたの命を救ってくださったことは、すでに聞き及んでおりますよ、ライラ」

 《ライラ》というのはこの少女の名のことだろう、そういえば名前も聞いていなかった。

 女王は続けた。

「我らは大変に義理堅く、受けた恩には必ず報います。ゆえに、そなたらふたりを受け入れることは、やぶさかではないのですが……」

 そこで森妖精の女王は言葉を切った。言うべきか言わぬべきか、逡巡の表情に見える。

「何かあるのか?」

「この国は。《フェイリンドル》は…………もはや、安全な場所であるとは、言えないかもしれません」



「どういうことだ?」

「もしかして、あのボガートと関係がありますか?」

「実は……」

 女王が語ったのは、煉斗にとって大変興味深い内容だった。

「太古の獣?」

「ええ。あのボガートは、生物がもっとも多く生まれ、もっとも多く滅んでいった時代に誕生し、今まで生き続けている種です。そして、そのような生き物たちが、この森の奥深く──《森の終わり》と呼ばれている場所に、数多く生息しているのです。ベアード、ガルム、ルナウルフ……」

 博識なアイリスが驚きの声をあげる。

「それらの種は、すでに絶滅したと……」

「《森の終わり》にいるのが最後の一個体でしょう。悠久の命を持つ彼らとて、何らかの理由で絶命することはあります。そのような彼らにあって、環境の変化も、命を脅かす者もない《森の終わり》は、まさに楽園なのです」

「そりゃ結構なことだ。だが、これは俺の持論だがな……真に心安らぎし者は、なにかを奪うことも、壊すこともないんだ」

「ええ……つい最近までは、我らが互いを傷つけ合うことはありませんでした。かの者らは本来、静かな性格なのです」

「なのに、ある日突然、奴らがエルフの森に押し入ってきて……。

 女王様のお力も借りて、なんとか追い払えたけれど、それからも次々に凶暴な化け物と戦う羽目になったわ。今もね」

「ライラは強力な戦士ですが、あのような怪物たちを連日相手取れというのは、いくらなんでも荷が勝ちすぎます。当然、被害が皆無というわけにもいきませんでした」

「申し訳ありません、あたしが不甲斐ないばっかりに……」

「それを言うならわたくしのほうこそ、女王として力不足だったのです」

 ふたりの沈痛な声音を耳にしながら、アイリスと煉斗は少し疑問に思っていた。

 さきほど目にした街並みは、けして悲惨なものではなく、むしろ完成されていると言ってよかった。道に不自然な損傷はなく、壊されたような建物も見当たらなかった。

「《被害》があるようには、見えなかったけどな」

 ライラは頷いた。

「女王様には、すべての植物を操る力があるの」

「植物を操るだって? そりゃすごいな」

「《フェイリンドル》の街はその力で作られている街なの。だから、壊されても簡単に直せるけど……人々の恐怖までは取り除けない。

 今のところは軽傷者だけで済んでるけれど、なるようになるのも時間の問題よ」

 恐怖に晒されて暮らす恐怖は、計り知れないものだろう、とアイリスは考えた。

「どうして、そいつらがここを襲わなきゃならないんだ?」

「それが分かれば、幾分か対処のしようもあるってもんでしょうよ。原因を調べようにも、《森の終わり》には凶暴化したバケモノがウヨウヨいるんだから」

「それもそうか」

「そういう訳で、この国はけして安住の地とは言えないでしょう。

 それでも良ければ、相応の待遇をもって招き入れましょうが……」

 煉斗は薄く笑った。

「お前さん、ひとつ勘違いしてるぜ。

 俺は安全な寝床が欲しいんじゃない」

「?l

「言ってみれば、興味があるのさ。あんたら《エルフ》に。伝説でしか語られてこなかったモンの正体にさ。ドラゴンの巣で野宿したこともあるんだ、スリリングなねぐらなんて、問題じゃあないね。

 俺を突き動かせるのは興味だけだ。逆に、そのためなら何だってするのさ」

 それに……、と、煉斗は続けた。

「《興味》はそれだけじゃない。たった今増えた」

 初対面のふたりは意味を測りかねていたが、アイリスにはその意図するところがはっきりと分かった。自分も同じ気持ちだったし、この青年の言い回しには慣れっこなのだ。

「突然暴れ出した化石どもの調査なんて、なかなか面白そうなアトラクションだと思わないか?」

 長耳の妖精たちは煉斗の言っていることを理解して、息を吸い込んだ。

「それは……!」

「危険すぎます!」

「おいおい、俺は別にあんたらのためにやるんじゃない。俺の《興味》を妨げることは、神サマにだって不可能さ」

 アイリスは、半ば呆れたような気持ちでその言葉を聞いていた。これが、正義のヒーローの、露悪的なセリフだったら格好がつくのだが……この紫髪の青年は、本気でこの状況を愉快がろうとしているのだ。彼を縛れるのは、まさしく魅力だけなのである。

「わたしも、楽しそうなことだと思いますよ」

 煉斗は嬉しそうに指を鳴らした。

「だろ?」

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