(15)婚約破棄っ!?

 王の突然の宣言に、広間にいる人波が揺らめいている。


「陛下が婚約破棄!?」


「正気でしょうか!? この十年、あんなに熱愛されていたのに――」


「まさか、あの女がそこまで陛下のお心を奪っていたなんて」


 けれど、真っ直ぐに面を上げるアグリッナの顔は蒼白だ。


 微かに唇が震えている。そのまま、無言で王を見つめ続けた。


「……わかりました……」


 その一言が出るのに、たっぷりと一分はかかっただろう。


 頭を下げて、ゆっくりと背中を向けて行く姿に、思わず叫び出したくなる。


(あああー! アグリッナ様、信じないで! 陛下が、アグリッナ様の身に覚えがないことばかり理由にされたのは、本当はアグリッナ様との婚約を破棄する理由なんて、どこにもないという宣言なのですから!)


 けれど、突然言われたアグリッナにすれば、気が動転して当然だ。普段なら、聡明な頭で気がつくことでも、今はそこまで考えられないのだろう。


 重い仕草で一礼をすると、どこかふらついたような足取りで出口へと向かっていく。


「アグリッナ様……!」


 あまりの痛ましい後ろ姿に、思わず小声で叫んでしまった。


 けれどアグリッナが振り返ることはない。それどころか、今周りの音がきちんと聞こえているのかさえ謎だ。


 ただ、ふらふらと幽鬼のように歩いていく。普段ならば凛と背を伸ばして優雅に歩くアグリッナが、両手をただ下げたまま、俯いて退出していくのに、前にいる人達の誰もが痛ましそうに見ながら場所を開けていく。


 誰もアグリッナに近づかない。


(もう、王の婚約者ではないのに……)


 ただ違うのは、今まで嘲りだった瞳が、痛ましすぎて触れてはいけないものに変わったというだけだ。


 きっとアグリッナも、周りの視線の変化に気がついたのだろう。


 一度顔を上げると、周りを見回して、ふっと笑った。


 けれど、眺めていた顔が広間に並んだ人の一角で止まる。


 すると、白いドレスの裾がそちらへと引きずられる方向を変えた。


 そして、前に立つ人物に手を伸ばすと、救いを求めるように見上げている。


「ルディオス殿――」


 見上げるアグリッナの顔はひどく白い。けれど、前に立つルディオスは、手を伸ばされたことに驚愕しているようだ。


「申し訳ありません。よく励まして下さったのに、こんなことになってしまい――」


「あ、あ、いえ……」


「ですが、これからも相談にのってくださいますか? 王の婚約者ではなくなりましたが、ラノス公爵家のアグリッナとして、貴方の助けがほしいのです……」


 けれど、伸ばしたアグリッナの手は届く前に、ルディオスによって払われた。


「御免です。陛下のご不興を買った公爵令嬢など」


「なっ――!」


 はっきりと変化したルディオスの表情に、アグリッナの顔が青ざめた。けれど、手を払ったルディオスの表情は、今までにアグリッナが見たことがないほど酷薄なものだ。薄い笑みを佩いてはいるが、瞳はひどく冷たく嘲るようにアグリッナを見つめている。


「だって、そうでしょう? 俺はオーリオの大使の側近。王妃殿下の側近ならともかく、ただの公爵令嬢の側近では乗り換えても何の旨味もない。ましてや、世間知らずで、宮廷からも疎まれている娘など――」


「ルディオス――! 貴方という方は――」


「慰めてほしいというのならしますよ? 夜に窓さえ開けておいて下さればね。でも政治的な保護を失い、失脚した貴女にそれ以上を求めないでください」


「よくも……! そんな……」


 アグリッナの瞳が、悔しさと悲しさにひどく歪んでいく。


 ディーナが蹴り飛ばすのに駆け出そうとしたが、それより横にいた人物が走り出す方が早かった。そして次の瞬間、拳でルディオスの頬を殴りつけたのだ。


「お前などにアグリッナを貶める謂われはない!」 


 ごっと頬骨を砕く鈍い音がした。 


「陛下!?」


 けれど、叫んだアグリッナは次の瞬間太い腕に抱きしめられた。息をするのも苦しそうな強さで、アグリッナを抱きしめているのは、王だ。


「今のは全て嘘だ! 私には貴女と婚約を解消する理由などどこにもない!」


「そうです。アグリッナ様が私を怒鳴られたことなど一度もございません。ましてや悪口など――。アグリッナ様が、陛下とのことで私を嫉妬されて、そのような愚かなことをなさるはずがございませんもの」


 にっこりとドレスの裾を摘んで笑うと、周りの貴族達が更にざわめいている。


(あ、ごめんなさい。なんか陛下にダメージを与えたみたい)


 だけど、周りの貴族達は頷きあっている。


「そうだよなあ。アグリッナ様が陛下のことで嫉妬心を抱かれるというのが、そもそもおかしいと思ったんだ」


「そうだな。そもそもそんなことになったら、陛下は嬉々としてアグリッナ様の怒りを全身で受けられると思うし……」


(すごい説得力)


 今の貴族の意見に回り中の者が、うんうんと頷いている。


(さすが十年は伊達ではない)


 普段の王と公爵令嬢の関係は、長すぎる婚約期間の間に、すっかり周りに知れ渡っていたらしい。


「ですが、陛下さっきのは……」


 まだアグリッナは信じられないというように、抱きしめられた王の胸から顔を上げている。


「今のは茶番だ! この男を信じている貴女に、ルディオスの本性を見せるための!」


「陛下! 私は、このルディオスという男が、牢の中でドレスレッド侯爵と組んで、陛下に毒をもったと聞きました!」


「なっ!」


 突然のディーナの証言に、ルディオスが青くなっている。


「そんなのはその女のでまかせです! 第一、俺がなんでドレスレッド侯爵と! 何の接点があるというのです」


「それは、これから証言させる」


 王の目配せに、今まで大広間の隅に控えていた政務官のディオニクがすっと頭を下げた。そして、側の衛兵に手を挙げて指示をする。


「連れて来い」


 ディオニクの言葉で、後ろの扉が開くと、両脇を衛兵に囲まれたリオス王子が入ってくる。昨日から部屋に監禁されていた王子は、少し憔悴しているようだが、頬がこけるほどではない。


 けれど、入って来た弟に向かって王は言葉を投げた。


「リオス。少しは頭が冷えたか」


「兄上――」


「このままでは、お前は私を暗殺しようとした罪で、死罪だ。けれど、ディーナが真犯人はこのルディオスとドレスレッド侯爵だと言う。お前なら、この男とドレスレッド侯爵との接点を知っているだろう。もし証言するのなら、釈放してやるぞ?」


 僅かに微笑みながら言う王の顔は、駄々をこねる弟を諭すものだ。


 優しい兄の声に、リオス王子は両腕を衛兵に持たれたまま、顔だけを上にあげた。


「俺は、アグリッナを殺そうとなんかしていない……。ましてや、兄上を死なせるかもしれない状況にするなんて論外だ」


 そして、手の先だけをばっとあげた。


「こいつは、ドレスレッド侯爵が目障りなディーナ抹殺のために引き入れた男だ! 兄上に近づく悪い女を追い払うだけならともかく、兄上の毒殺を企むなど言語道断! こいつとドレスレッド侯爵との関係ならいくらでも証言してやる!」


「なっ……!」


「宮殿中の女を誑かしていたことも知っているぞ! 王室省に手を回して、メイドを一人里に帰らせろと言ったのは、兄上暗殺事件の実行犯のことか!」


 ばっとドレスレッド侯爵が広間から逃げ出そうとした。


 けれど、それよりも早くに衛兵が周りを囲むと、老いた体を取り囲んでいる。


「離せ!」


 叫んでいるが、入り口からなだれ込んできた衛兵に勝てるものではない。


「俺は巻き込まれただけだ! 王を殺す気なんてなかった!」


 叫ぶルディオスも、数日前のディーナと同じように縄で何重にも体を拘束されると、そのまま引き立てていかれる。


 これからルディオスの前に待っているのは、きっと昨日までディーナがいた牢獄だろう。


 きっとルディオスには、ディーナとイルディは経験しなかったような過酷な取り調べが待っているはずだ。アグリッナを守りたい王の意向によって――――。


 広間から連れていかれる二人を見つめ、ディーナはやっと一つ息をつくことができた。


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