第3話 皇女の懇願と説得
ガー皇国。皇宮、東の塔の最上階は、筒状の壁に囲まれており、厚いガラスの窓がドーム型の天井と壁に一つずつ嵌められ、二筋の光を注ぐ場所だった。
だが、それ以上に彼の目を引くモノ。壁一面に並べられたおびただしい量の本だ。本棚から、床から、ベッドから。足踏みのしようがないほどに本が散乱している。
天を仰ぐクローヴィスの黒い瞳には、金色の砂がふわ、ふわ、と浮いているのが映った。クローヴィスの巨体が尻餅をついた際に舞った埃が光に照らされてできた光景だった。
あー、これはどういうことだろう。
クローヴィスは自問した。
クローヴィス・ラトキンは基本、短慮な人間である。物事を深く考えることを苦手とし、その手が得意な人間が周囲にいれば丸投げしてしまう。不可解な出来事に直面した拍子に本の山につまずき尻餅をついた今も、自分で推量するよりも先に誰かが明快な答えを告げてくれるのを期待した。
「……」
しかし、物音一つないまま、時が過ぎる。
目玉だけ動かしてみれば、リュドミラ皇女殿下はクローヴィスの右側に座り込んでいた。
大人しそうな少女だった。首も腰も腕も折れそうなほどに細い。
三つ編みにした銀髪が、太陽の光で絹のような輝きを纏い、琥珀色の瞳は涙の膜が張っている。クローヴィスは宝石細工を思い出した。エゴールが興奮気味に語った気持ちが少しはわかる気がする。
「よし、わかった」
彼は体に落ちてきた本をひょいひょいとどけて、上半身を起こした。それだけで小柄な皇女は彼の視線より低くなる。
「まずは自己紹介をする。ハッセル王国出身、クローヴィス・ラトキンだ。年は二十七歳。趣味はうまい飯を食べることと、鍛えることだ。一応、身分は王子になっているが、見ての通り、堅苦しいことが苦手で、堅苦しい口調も続かない性格だ。よろしく」
挨拶代わりに右手を差し出した。だが、皇女は首を振ると、クローヴィスの腰を指した。腰の大剣が気になるらしい。
「人と仲良くなりたいのなら、武器を見せつけながらするべきではないわ。脅しているみたいになるから」
「……しゃべった」
リュドミラ皇女は整いすぎた人形のような容姿でありながら、意外にも少し掠れたハスキーな声質をしていた。これだけで印象はかなり異なって見える。
クローヴィスが相棒の大剣を腰から外して放り投げた。すると、皇女もわずかにほっとした様子を見せる。大剣を帯びているのが怖かったらしい。
それからすぐに少女は手で床をつきながら青年との距離を詰めた。
「口を利けるのは秘密にしているの。時間がない。手短に言うからよく聞いて」
少女はまたも急いだ様子で囁いた。
「わたしは父上が好きなのよ。だから父上に害を為す者を許せない。お願い、大蔵卿のザーリーの陰謀を一緒に食い止めてほしい」
「は?」
突然の願いにクローヴィスは戸惑うも、リュドミラの勢いはなかなか止まらず、彼が事情を理解していないことを知るや、彼の着こんでいた新品の騎士服の襟元を片手で掴んで、ぐっと顔を近づけた。
目の前に美少女の大パノラマが広がる。睫毛までが銀色なのだ。
「詳細は省くわ。でも、信じて。大蔵卿ザーリーは父上を殺し、皇位を簒奪しようとしている。それを止めたいの。けれど、わたしはこんな体で動けない。代わりとなる手駒が必要。それがあなたよ、クロ」
「クロ?」
クローヴィスが自分を指さした。
リュドミラが頷いた。その声音は彼女の真剣さと意志の強さを感じさせるものだ。
「これは賭けよ。各国から集められた王子たちのことはほとんど知らなかったから、勘で選んだ。わたしはクロがどんな人でどんなことを望んでいるのかはわからない。けれど、あなたはわたしに忠誠を誓わなければならない。少なくともザーリーの野望を打ち砕くまでは」
「……おう」
クローヴィスは理解を棚に上げた。まずは聞こう。
「その代わりにわたしもできる限りのことはする。返せるものは少ないけれど、望むならこの体を抱くことを許すわ。どう?」
「どう、と聞かれてもなあ」
リュドミラを見ても、何ら性的にそそられなかった。全体的に、肉付きがいろいろと足りてない。
自分の発言にいまさら恥じらいを覚えたのか、リュドミラは前に垂れた銀の髪を耳に掻きあげ、白い面をカーッ、と桃色に染めている。
「なあ」
「な、なに……?」
「ごはんを腹いっぱい食べろよ。食は生きることの源だ。好き嫌いしていたらダメだ」
「え? え、どうして急に……」
ぽかんとした表情はやはりまだ少女と言える。もちろん、クローヴィスは少女に興奮は覚えない。
やがて、皇女は自分を取り戻し、重ねて言い募る。
「いえ、それはいいの。ねえ、約束して。あなたはわたしの宝玉騎士になったの。だからわたしに忠誠を誓わなければならない、そしてわたしの願いを叶えなければならない。あなたの人生をめちゃくちゃにしてしまったのなら謝るわ。でもそれ以上に、この国の平和を願う気持ちがあるの。これはあなたの故郷、ハッセルにとっても悪い話ではないと思うの。だから了承して、今すぐ! あっ……」
皇女はクローヴィスから顔を離し、片手で自ら口を塞いだ。
トン、トン、トン……。
螺旋階段をひたひたと上る足音がクローヴィスの耳にも届いたのはその時だ。
クロ、とさらに声量を押し殺した皇女は告げる。
「あなたはわたしとは何の言葉も交わせなかったの。いいわね?」
「わかった」
「それと……彼女から出されるモノには気をつけて」
それっきり、リュドミラはすべての表情をかき消し、手元の本を手繰り寄せ、静かに本を読み始めた。
仕方がないのでクローヴィスも本を読むふりをした。文字はガー皇国の古い文字。読めない。
ふと、気が付いた。
ふつうに皇女と言葉を交わしていたが、
ハッセル王国は大陸の小国であるはずなのに、リュドミラ皇女は、平然と彼と同じ、母語者の少ない言語を操ってみせたのだ。
背筋がぶるりぶるりと震える思いだ。それは恐怖ではなく、歓喜だ。
――これは、かなり面白いことになったんじゃないか?
確信を得た時、ノックもなしで扉が開いた。
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