第1章ー21 禁忌の契約印

 ――――ッキィィン……


 細く鋭く鼓膜を突くは、金属筒が落ちた音。

 その音で、均衡は突如崩れた。


「――――ッ!」


 先に動いたのはハルだった。

 左手はそのままに、腰に回していた右手を一気に引き抜いた。その右手に握られていたのは、〝ピストーレ・パラベラム〟と呼ばれるドイツ製のオートマチック拳銃。またの名を〝ルガー〟、尺取虫のような特殊な機構――トグルアクション――を採用する不思議な形の拳銃だ。


 銃身がまっすぐ前へと突き出される。まるで糸でもついているかのように、ハルの手に収まったルガーは滑らかに空間を滑り線を引く。ぴたりと止まった場所は、ハルの見つめる真っ直ぐ先。


 狙っている相手は、もちろん裏切り者のガードナー。


 引き金が引き絞られる。トグルが尺取虫のように折れ曲がり、薄緑色のカートリッジが弾き出された。それは種を真上に噴き出したように排出され、左スピンによってわずかに左側へと逸れて地面に落ちる。炸裂音の間を裂いて響く、ッチィィンという高い金属音。


 しかし、それを悠長に感じている余裕はガードナーにはなかった。

 肌を焦がし煤けさせるほどの熱波を持った炎の槍がまっすぐガードナーを狙っていたからだ。


『戦闘用特殊魔法弾・ファイアランス』魔法士たちに支給される、魔法を封じ込めた特殊カートリッジの一種だ。マナとの干渉を必要とせず、カートリッジ内部にてすべてが完結した特殊な魔法具。


 銃口から飛び出した魔法の〝核〟が、空気に触れることで元の魔法へと還元される。周りの空気から酸素を奪いつくし、岩をも溶かし崩すほどの高温になった青い炎が迫る。


 すぐさまガードナーは杖を振りぬいた。

 ユニコーンの杖に内蔵されたオドが共鳴する。有り余るエネルギーが大気のマナに触れて干渉を起こす。莫大な、それでいて緻密な制御で練られたマナが変質し、世界の理を組み替える。


 数メートルにまで迫った青い槍が瞬いた。


 コンマ数秒後、突如として風船のように膨らみ破裂する。圧しとどめられていた膨大なエネルギーはすべて熱波へと変わり、音を飛び越した衝撃波と共に身体を突き抜ける。


 その爆炎を突き破り、さらに炎の槍が二本、三本、四本――炎を巻き取り威力を増したソレが、ガードナーを刺殺さんと空気を焦がし迫りくる。否、ガードナーなら避けられると確信したからこそ打ち込まれているのか。


「――――ふッ、んん!」


 期待に応えるように、ガードナーは腰で溜めた杖を細剣のように突き出した。

 杖の先から打ち出されたのは高密度に圧縮されていた空気の塊。指向性を持って解放された圧縮空気が炎の槍をすべて巻き込み巨大な竜巻となる。そしてそのまま、撃ち出した張本人であるハルへと襲い掛かる。


「――ッ⁉ やっべ!」


 顔色と口元の動きから、ハルはそう言ったのだろう。引きつった顔で一瞬だけ固まったのち、すぐさま我に返って真横へと転がしながら回避した。回避したその場所は、ちょうど火の勢いが弱まっている部分。その場所を一瞬で見つけ出し身体を押し込んだのは勘が鋭い、とガードナーはこの状況で少しだけ感心した。


 炎の旋風は地面を舐めるように這ったのち、上昇気流で斜め上へと進路を変えた。召喚陣の先に積まれていた木箱や設備は焼き切れ、ガラス窓は熱波でことごとく割れ、溶け崩れていた。


 それを見た彼の顔が大きく引きつる。


「殺す気かよ!」


「自分が蒔いた種だろう?」


 叫んだハルにそう返すと、ハルは舌打ちをしながら再びルガーを構え照準をガードナーへと合わせた。引き金がひかれる。トグルが跳ね上がり薬莢が宙を舞う。


 しかし、放たれたものはガードナーの予想していたものとは違った。

 銃口から飛び出したのは発光する光の玉。しかもそれは弾速が格段に遅く、人間が投擲した石と大して速度は変わらない。


 ――なんだ、あれはなんだ。


 方や相手を殺傷することが目的の攻撃、方や意図が不明な攻撃なのかもわからないもの。ほんの数秒前の攻撃とのギャップが、ガードナーの思考を空回りさせ判断が鈍る。


 その一秒後、

 視界が緑に染まった。


 ――煙幕か!


 そう気が付いた時には、ハルは緑色をした濃霧の中に消えていた。同時に感じたのは、鼻を衝く強烈な異臭と刺激だった。


「うぅっ、うぇ、げほっ……ッ」


 とっさに左手で口を押える。しかし時すでに遅く、口から入り込んだ霧はヤスリのように喉を削る。激しくせき込む。それでも何とかオドを練り上げ、暴風を起こし空気を混ぜ合わせる。


 滞留していた倉庫の空気が、マナの干渉により激しく流れ出す。漂っていた緑色の濃霧が風に乗ってガラスの割れた窓から流れ出していく。それによって霧の濃度は薄まり始め、見えなかった周りの様子が分かってくる。


 ――どこだ。どこにいるっ。


 周りを見渡す。大気中のマナを探り、魔法使いであるハルの居場所を探る。しかしこの濃霧がただの霧ではなかったのか、感覚が阻害されうまくマナの探知ができない。

 そんな状況下、攻撃をとらえられたのはほとんど偶然に近かった。


「――――ッツ⁉」


 ゾワリと、背筋を刃物で撫でられたような錯覚。チリチリと焦げ付くような痛みが右首筋を突き刺した。

 振り返る。完全に体が向きを変えるその前に、視界の片隅に濃霧を突き抜けた魔法弾が映った。それを視認できたのも偶然だろう。そして、それを〝防御してはいけない〟と思ったことも偶然だ。


Rupftad吹き飛べ!」


 とっさに口にしたのは魔法を発動するために短縮呪文。無詠唱であっても十分使用できる能力があるはずのガードナーが唱えたのは、そうでもしなければ間に合わないと本能がそう判断したからだ。

 理を組み替え、杖内の膨大なオドでブーストさせて現れた魔法は、床さえも剥がし飛ばすような局所的な上昇気流。突如として生まれたそれに巻き込まれ、魔法弾はガードナーの頭ぎりぎりをかすめると斜め上へと進行方向を変える。そしてそのまま、白い尾を引いて倉庫の天井に向かって飛翔していく。


 パキン――魔法弾が砕ける音。

 その瞬間、天井の一部から氷柱が垂れ下がった。


『アイス・ショック』対象物を完全停止させることを目的とした魔法弾だ。人の動きを、機械の動きを、完全に一時停止させるためのもの。直接的な殺傷能力はないものの、くらえば確実に反応できなくなっていた……そのことを数舜遅れて理解したガードナーの腕に浮かんだ鳥肌は、下がった気温の所為ではないはずだ。


 そして今度は、死神の刃が身体の内側を撫でる感覚。

 冷たくて、痛くて、そこの無い不思議な恐怖。


「!」


 口から紡がれるは護りの詠唱。

 障壁を張ったのは単なる偶然……否、明確な命の危険を本能が感じ取ったからだ。


 ガードナーの発した言葉は言霊となり、マナに大きく干渉する。無詠唱のそれよりもはるかに高速で、はるかに強力なものへと組み立てられる。理が組み替えられ、相反する現象が、法則が混ざり合い、起こるはずのない奇跡が再現される。


 空気がスパークを起こし、そして空気ではない別のものへと変わっていく。薄い膜のような光が現れ、卵のように球状に広がり厚みを増していく。押せば逃げていく空気が触っても殴ってもびくともしない確かな存在へとその定義を変えられていく。


 その間、たったのコンマ数秒。

 それがまったく別のものに変わったのだと、耳をつんざく衝撃音が証明した。


 マナを変質させて展開した障壁は、ガードナーを覆うほどしかない。一番近いところで、鼻の頭と障壁の間は五センチもない。

 視界いっぱいに映っていたのは、留紺色の戦闘服。

 鼻先ギリギリで障壁を揺らしているのは、すべてを飲み込むような真っ黒な刃。


 渾身の力を込めゆがむ、まだ幼さの残る顔。鼻先に届いているのは、おそらく跳躍して落下の勢いを使いガードナーの頭上からカタナを振り下ろしたから。

 障壁を支点とし、身体を宙で停止させながら全体重をかけるハルの姿があった。


「――随、分と、元気良く、駆け回る!」


 ビリビリと揺れる障壁に、思わず声が詰まった。

 その言葉を反撃の動作と思ったのか、ハルは左手に握っていたルガーを障壁越しにガードナーへと合わせた。それに反応したのは、ガードナーが意地になっていたことが理由の一つ。


『引き金を引く』『障壁を内側から炸裂させる』それらはほとんど同時だった。

 ルガーの銃口から撃ち出された魔法弾が障壁へと着弾し、障壁全体が氷の層に覆われる。そのほんの一呼吸後、張られた障壁が氷もろとも内側から破裂する。


「――――っ! チッ!」


 自ら作った氷の層が、吹き飛ばされたハルの身体にほとんどゼロ距離で当たり砕ける。

 肩に、腕に、足に当たった氷は戦闘服を切り裂きわずかながらに出血させる。ルガーに直撃した氷塊が左手のグローブを破りルガーをハルの手から弾き飛ばす。至近距離、ほとんどゼロ地点からの氷の塊はとてつもない衝撃だったのだろう。ハルの表情が苦悶に染まる。


 それでも何とか受け身をとってハルは着地した。はぁ、はぁ、と荒い息をつきながらもハルは獰猛に笑って立ち上がった。

 その姿に、


 ――……なんだ。この違和感は。


 ガードナーは不気味な違和感を覚えた。

 どこがおかしいのか分からない。しかしおかしいのだということははっきりと分かる。間違い探しをしている感覚、とでも言えば近いだろうか。目の前にいる少年は何かがおかしい。しかし、その正体が分からない。


 魔法は使っていない。いや、正確に言えば杖を使っていないというべきか。使っているのは変更の利かない撃ちっぱなしの魔法だけだ。そのはずだ。そうだと確証を持てるのに、どうしてこうも彼の姿に違和感を抱くのか。


 彼の言動。彼の戦闘方法。出で立ち。枷の状態……。


 …………ああ、そうかなるほど。

 そういうことか。やっと判った。


「さっきから守ってばっかだけど、それじゃ足止めにしかならないぜ?」


「いや、それが目的なのさ。いまの君にはこの方法が一番効く。そうだろう?」


「――っ! …………。」


「正直言うと、よく気が付いたと感心している。確かに、それなら枷は起動しないし今のような動きができる。よくもまぁ、そんな抜け穴を見つけたものだ。危ない賭けだがね」


 やはりそうだ――ハルの表情を見てガードナーはそう確信する。なるほど確かに、その方法は想定していなかった。よく気が付いたものだ、そう感心する。


「活性化させたオドを、マナの干渉にではなく体内のみで循環させる。いわば自分自身に魔法をかけているのか。何十年も前に使われなくなった特殊な術……アビリティ・エンチャントといったか。危険極まりない方法だからと言って廃れたものだと思っていたが、まさかそれを使うとは。君ならその魔法のリスクはよくわかっているだろうに」


 ハルの身体からは、よく見れば不自然な湯気のようなものが立っていた。それに眼の色もわずかに違う。黒い瞳に混ざり金色の円が現れている。それらは、いまガードナーが言った術を発動している者の典型的な特徴だ。


 アビリティ・エンチャントとは、端的に言えば身体能力を限界以上に跳ね上げる魔法のことだ。筋力、動体視力、再生力、それらを人間が備えているもの以上に一時的にだが上昇させる。コンマ数秒の世界が生死を分ける戦場で重宝されたのも納得がいく理由だ。しかもほかの魔法とは異なり、対象は自身の身体。活性化させたオドそのものを消費するため、マナとの干渉を必要としない術である。


 しかしその反面、この魔法には明確なリスクが存在する。

 単純なことだ。身体が術の反動に耐え切れない。唯一にして最悪の副作用。魔法としては失格ともいえるものだ。


「君のその魔法……身体能力を異常活性させる戦い方がノーリスクなわけがない。限界以上の能力で酷使し続ければいずれ身体は悲鳴を上げる。しかも、それはそう遠くない。時間制限ありきの諸刃の剣だ。だとするなら、このまま持久戦を続けるだけでわたしの勝ちになる。違うかい?」


「……やっぱり知ってたんだな」


「当然さ。その魔法は魔法開発本部の前身組織で生まれた。所属していたわたしが知らないわけがないだろう」


「あっちゃー、ミスった。気づかないと思ったんだけどなぁ」


 苦々しげにそう口走り、ハルは首の後ろに手を回す。


「それで、まだ続けるつもりかい? このまま続けても、君の攻撃がわたしに届くことはないが」


「だけど、あんたのソレも完璧じゃない。だろ?」


「………………」


「さっきから何度か試してるけど、その障壁はやっぱりあんたが指定した方向にしか展開しない。しかも張れるのは一か所だけで全身は覆えない。張りっぱなしもできない。だとすれば、何とかして死角をとれば俺の勝ちだ。スピードは俺、ガードはあんた、結構フェアだと思うぜ?」


「それは、誘っているのかい?」


「さぁねー。ノーコメント」


 今度は、ガードナーが黙る番だった。

 ハルが指摘したことが、訂正のしようがないほど満点の回答だったからだ。

 

「……君相手では、時間稼ぎはむしろ悪手かもしれないな」


「高評価痛み入るよ」


「それじゃあ、お言葉に甘えてわたしも反撃させてもらおう。まったく、攻撃魔法なんて久しぶりだ」


 覚悟を決めなくては。

 彼は本気なのだ。本気で、こちらの計画を止めるつもりなのだ。


 残った道は、どちらが生き残るのか。

 こちらが止まらないなら、向こうも止まらない。こちらが辞める気のない以上、和解は成立しない。


 やらなくては、こちらがつぶされる。


 割り切れ。

 妻を救うために、


「ひとつだけ、忠告しておくよ。…………気を抜くと死ぬぞ」


 〝他人〟の彼を、切り捨てろ。



          ◆◇   ◆◇   ◆◇



 ガードナーが杖をふるうと、事象が改変され魔法が発動した。

 現れたのはうすぼんやりと光る空気の膜。ところどころ欠けているのは、あれがついさっき俺の攻撃を防いだ残骸だからだ。


 一瞬にして膜に亀裂が走り、ガラスのように粉砕される。とがった破片がまるで重力なんてないかのようにその場に静止、一つ一つに意思があるかのように破片の先が同じ場所を向く。


 その直線上にいるのは俺。つまり狙いは俺。


 ヒュッ! という空気の裂ける音が一足先に届く。その音そのものを弾く勢いで、俺はカタナを振りぬいた。

 ビリリと、腕がしびれた。

 真っ黒な刀身が、あの破片に当たってはじき返したのだ。


「――――クッ!」


 しびれる腕を無視し、身体をひねったカタナを腕ごと身体の前に戻す。そうせざるを得なかったのは、引き延ばされた灰色の世界でまだいくつもの破片が俺を狙っていることを認識したからだ。一つ、二つ、三つ……直撃しそうなのは七つか。


 引き延ばされた時間間隔の中では、身体を動かすという行為そのものがまるで水の中で腕を振っているように重い。だけどそれは主観的な話で、周りから見れば俺の身体はあり得ない反応速度で動いているはずだ。


 一つ、二つ、三つ。

 直撃打となる破片の矢を捌いていく。


 四つ、五つ、六つ。

 一つは軌道を逸らして、次は天井に打ち上げて、その次は身体ギリギリの距離でカタナの刀身上を滑らせる。それでも間に合わない七撃目が足元を狙う。


 思わず振りぬいた。再びビリリ! という衝撃が手のひらを伝って腕全体を麻痺させる。直撃しないと捌かなかった破片たちが、腕の、足の、頬の表面を撫でて後ろの壁に突き刺さる。


 止めていた息を吐くと、引き延ばされていた灰色の世界が濃縮される。薄まっていた色が戻り、空気の密度が軽くなる。鉛のようだった身体が、羽毛のように軽くなる。まるでいきなり重力を振り切ったみたいだ。


「――――カハッ! うぇ、はぁっ、はぁっ」


 コンマ数秒遅れて身体の感覚が戻る。死角と聴覚以外の情報が、押しとどめていた分も加算され一斉に脳内へと叩き込まれた。直後、心臓が破裂したような錯覚を抱く。


 熱い。


 身体が火であぶられているように痛い。肌が焼け付いて縮んでいくような錯覚にかられる。だけど、別に動揺はしない。なぜならこの副作用こそが、この魔法が正常に働いている証拠だからだ。


 視界は高熱が出た時のようにグラグラと揺れ、誰かが勝手にピントをいじくりまわしているかのようにボケては定まってを繰り返す。こんな時になって、首を絞めつける枷の冷たさがありがたく感じた。


 でもその代償と引き換えに身体は異常なほど軽い。足先に跳ね返ってくる重みは、とても全体重とは思えないほど軽く、柔らか。身体に当たっているはずの風は、まるで実体がないように身体の中をすり抜けていく。空気抵抗という概念がなくなってしまったかのようだ。


 ガードナーの言う通り、この魔法は数十年前の大戦で使われ、そして廃れたものだ。魔法薬を服用することで一時的に獣人と同等の能力を得ることができる。だけどその代わりとして、身体が使い物にならなくなるだけじゃなく廃人化のリスクもある。こんな魔法をだれが使いたがるのか。人体実験ではなくするために、薬なのに『魔法』と称するやり方にも闇を感じる。


 俺がこれを使えたのは、偶然副作用の効果を軽減させる植物を知っていたからだ。知っていたというより、もしかしてと思って試したら成功した、という方が正しいかもしれない。よくもまぁ、廃人になる可能性があるのに自分で試したと今でも思う。もう一度あの場に戻っても、自分じゃ絶対に使わない。


 ――クッソ! 足りない!


 攻撃と攻撃の境目、刹那の瞬間に思わず漏れたのは舌打ちだった。このままではジリ貧なのだと、いやというほど理解せざるを得なかったからだ。


 はっきり言おう。俺じゃこの人に勝てない。


『フェア』なんて言葉は嘘だ。ハッタリだ。正しくは、現状維持が何とかできる――にすぎない。いま俺が立っていられるのは、ガードナーが戦闘職でないからだ。こと戦闘に関する勘に俺が少しだけ敏感だからだ。こんな状況下だからこそ、俺の使える手段を全部使って、あの人の隙を突いて、やっと〝倒されない〟という状況が作れる。互角じゃない。相手を倒す隙なんて絶対にひねり出せない。


 魔法の知識は明らかに向こうが上で、その気になればこの場所ごと吹き飛ばすことだってできる。あの障壁魔法を開発したという事実こそが、俺なんかよりもよっぽど魔法に精通している証拠だ。


 だからこそ、こんな方法にすがってしまったんだ。

 魔法の限界をよく知っているからこそ、魔法に見切りをつけたんだ。


 魔法とは、言い換えれば理を組み替える行為だ。

 切り刻み、継ぎはぎして、望むものに組み替える。本来なら起こるはずのない現象を、神の奇跡を再現させる。魔法が物理や化学と根本的に違う分野とされているのはそういう理由だ。


 でもそれは、ひどく歪なものだ。考えれば簡単なことだ。元の理を切り刻んでいるのだから、元の形よりも安定したものになるはずがない。


 なら、歪な形を造り出すには? それを維持するには? 


 少し考えればわかることだ。膨大なエネルギーが必要になる。得てして魔法とはそういうものだ。

 理を解体するために、組み替えるために、維持するために、それぞれの過程ごとに膨大なエネルギーが必要になる。そのエネルギーとなっているのがマナと呼ばれるものだ。そして望む魔法が現実から離れれば離れるほど、事象改変が大きくなればなるほど、要するマナは指数関数的に膨れ上がる。 


 魔法に対して理解の無い人ならば、それでも魔法にすがっただろう。

 この人だからこそ、理解してしまったんだ。どう頑張っても、魔法で妻を救えないと確信してしまったんだ。


 病の原因も、有効な治療法すらも不明。それでも治すというのなら、身体中の細胞を入れ替えるくらいのことをしなければいけない。それを魔法で行おうとすれば、どうなるのか……。


 それを知っているからこそ、あの人は魔法を見限ったのだ。自分の求めている結果を得るには、どんな方法を使ったとしても実現できないと理解してしまったから。


 そして、悪魔の召喚あの方法に出会ってしまった。


 最悪の状況で、最悪のものに、出会ってしまった。


 いつもなら跳ね除けられるような悪魔の誘いが、心の隙を突いて入り込んでしまった。


 解ってる。あの方法が禁忌であることなんて俺にもわかってる。だから止めた。それが魔法士としての義務だからだ。あの人に道を踏み外してほしくなかったから。

 だけど、それは表向きの言葉だ。いや、本心じゃなかったと言った方が近い。


 多分、もし本当に儀式が成功するなら、俺は止めないし、目をつむっていた――その自信がある。

 だって、あの人の気持ちは痛いほど解るから。俺には、彼を蔑む資格すらないのだから。


 でも、あの方法だけはだめなんだ。


 ほかの方法は知らない。絶対に失敗するなんて俺には断言でいないから。もしかしたら、俺の知らない方法で成功することがあるのかもしれない。でもあの方法だけは断言できる。だってあの方法には、構造的な欠陥があるから。


 俺は一度、その末路を見てしまっているのだから。


 もしあの場でこのことを話せていたなら、もしかしたらこんなことしなくてよかったのかもしれない。

 でも言えなかった。口から出たのはきれいごとばかりで、本当に言いたかったことは喉元まで上がって奥に引っ込んでいった。きれいごとしか出なかったのは、きっと俺自身が直視したくなかったから。俺の本心は、口から出た言葉とは真逆だったから。


 それを話してしまえば、俺自身もあの方法に囚われてしまいそうな気がしたから。


 ――ハル、おいで。ご飯ができたわ。お父さんを呼んできて――


 礫を捌いていく中に生まれた刹那の空白で頭の中に木霊した幻聴。穏やかで、温かくて、やさしい声。忘れもしない。母さんの声。

 死んでほしくなんかなかった人。もっともっと甘えたかった人。もっと抱きしめて欲しかった人。ほめて欲しかった人。ありがとうって言いたかった人。


 俺の中で、たとえ禁忌を冒してでも取り戻したいと思える唯一の人。


 ああ、やっぱりだめだ。

 まだあの方法にしがみつこうとしてる。

 あの人に偉そうに説教できる理由も資格も、彼に勝る意志さえも、俺には何一つない。


 ――、勝てないや。


 そう思った直後、


「――うっ⁉」


 ガクンと、膝の力が抜けた。

 同時に、身体が鉛のように重くなる。大の大人に何人も飛び乗られたかのように。視界がぐらつくと、体温が急激に下がっていくように感じた。身体中から血が一気に抜けていくようだ。数拍遅れて、キーンという耳鳴りが始まり、視界に砂嵐のようなノイズが走る。


 それが何を指しているのか、俺にはよくわかった。時間切れだ。

 薬の効果が切れて、今度は先送りにしていた疲労とダメージが一気に襲ってくる。こうなったらもう戦うどころじゃない。予想よりも少し早かった。


 何とか正面の攻撃は土壇場で捌き切った。しかしその直後、別方向から撃ち込まれた風の弾丸が俺の横っ腹を下から殴りつけた。


 でも、


「………………」


 チラリと、周りを見渡す。

 今の立ち位置、状況、ガードナーの注意力。


 ――……何とかかな?


 、俺の身体は吹き飛ばされ宙を舞った。



          ◆◇   ◆◇   ◆◇



 ――頼みたいことがあるんだ――


 そう言ってくれた時が、ハルと出会ってから一番にうれしかった。

 ハルがわたしを仲間として、相棒として見てくれたということがうれしかったんだ。


 どうしてハルにここまで固執してるのかは、わたしにもはっきりとは分からない。でもきっと、ハルのまとう雰囲気が孤児院の子たちと似ていたからだ。あの場所で過ごしていたわたしを見ているみたいだったからだ。


 他人を信じることが怖くて、一人で抱え込もうとする。そのくせ行動力だけは人一倍あって、必要ならば危ないことにでも容赦なく首を突っ込む。綱渡りのようで、長く生きることを考えていない生き方。目の前のことだけを考えて、その先に起こることなんて度外視した生き方。


 見ていられなかった。これもきっと、わたしの自己満足でわがままな感情だ。

 でも、今はそんなことどうだっていい。理屈なんかどうだっていい。いま大切なことはハルを死なないようにすることだ。ハルの助けになるのなら、自己満足でもなんでも利用してやる。


『――――っ! チッ!』


 照門の向こうで、氷の礫を喰らったハルが顔をしかめさせながら吹き飛ぶ。肩に、腕に、足に氷の礫が直撃しハルの身体を削っていく。左手のルガーが手のひらから弾き飛ばされた。至近距離、ほとんどゼロ地点からの氷の塊はとてつもない衝撃だったはずだ。その証拠に、ハルの表情が苦悶に染まっている。

 それでも何とか受け身をとってハルは着地した。はぁ、はぁ、と荒い息をつきながらもハルは獰猛に笑って立ち上がった。


 止めるべきだ。


 その戦い方は人間がするような戦い方じゃない。ノーガードで殺りあうなんて、リスクも何も考えていないと言っているようなものだ。放っておけば、何かの拍子に即死することだってある。


 今すぐ加勢すべきだ。


 手遅れになる前に、後ろから一発でも

 でも、そんなことはやらない。これがわたしの役目だから。シリウス・ガードナーという男を倒すことができる一番確実性のある方法なのだから。


 殺さないでくれ――それがハルの願いだから。


 殺さず、無力化だけを行う。魔法を使えなくすればいい。

 そのための狙いは極小の点。

 チャンスは一度きり。

 失敗は許されない。失敗すれば、ハルが死ぬ。


 まったく、ずいぶんな無茶ぶりだ。どうして出会って二日のわたしのことを、こんなに信用してくれるのだろうか。いや、信用しろと言ったのはたしかにわたしだけれど。


「…………ふぅっ」


 短く息を吐き、右頬と右肩を再び愛銃の銃床ストックに押し付ける。U字型の照門越しに、魔法を放つガードナーに照準を合わせる。木製のハンドガードはずっしり重く、しっとりと手に吸い付く。弾薬を除く重量が三・九キログラムだ。土嚢の上に置いていなければ、わたしの筋力じゃ震えて正確な射撃はできない。


 右手の親指で、安全装置を前へと押し倒し解除する。

 フルメタルジャケットの.303ブリティッシュ弾が、バレルの奥底で今か今かと撃ち出される時を待つ。


 その一瞬のために、わたしは闇と同化する。

 銃の一部となり、機械となり、感情を殺す。



 その時は、すぐにやってきた。



          ◆◇   ◆◇   ◆◇



 どうやら、自分はとことん甘い男らしい――吹き飛ばされたハルの姿を見て、シリウス・ガードナーは無責任にそう思った。明確に敵と認識した今になっても、息子同然に扱ってきた親友の息子である彼を、どうしても殺しきることができなかった。


 殺すことはできた。簡単なことだ。宙を舞っている間に、大火力の炎であぶってしまえばそこまでだった。しかしガードナーの杖はハルに狙いをつけるばかりで、魔法を行使しようとはしなかった。


 どさりと、鈍い音を立ててハルが積まれた砂袋の上に落下した。音からしても受け身をとれなかったはずだ。胸が激しく上下しているから死んではいないだろうが、あれではすぐさま反撃することなんてできない。


「…………」


 杖を構えたまま、ガードナーは歩を進める。足を止めたのは、倒れこんだハルから三歩ほど離れたところだった。


「はぁ……っ、はぁ……はぁ……」


 荒い息をつくハルの姿は、ひどいものだった。

 額は切れて血が目を塗りつぶし、頬から流れ落ちている。口も切っているのか、咳き込むたびに血が口から吐き出される。戦闘服もボロボロで、武器のルガーは装填不良の状態で止まっている。頼みの綱だったカタナは、今ではガードナーの足元だ。瞳も元に戻っている。おそらく今は、薬の副作用で全身が粉々になるような痛みに襲われているだろう。


 勝ちだ。もうハルには、どう頑張ってもこの状況はひっくりかえせない。


「く……そ……」


 それでも、目の前の相手は目を開け、こちらをにらみつける。


「……よくここまで戦ったよ。魔法が使えない相手に、ここまで手間取るとは思わなかった」


 それを別れの挨拶とし、オドを練り上げる。体内で練られたオドに杖が反応し小刻みに揺れる。あとは思い描くだけで、杖からは魔法が飛び出す。

 その瞬間、脳内で様々な光景が浮かび上がった。



 ――見てくれ、シリウス! 俺の子だ! ――

 ――歩くのが早いな。この子はいい子に育つんじゃないのか? ――

 ――おじさん! みてみて、タネがめをだしたの――

 ――ねぇ、父さんの誕生日に、何を送ればいいかな? ――

 ――ガードナーさん。俺、魔法士試験を受けたいんだ――


 

 浮かんだのは、彼との思い出。


 親友の息子であるハルが生まれてから、今日までの思い出。将来確実に大きくなると確信した、息子同然の少年の過去。次の時代を背負って立つ、未来ある少年の成長記録。


 ああ。

 やはり、わたしは。


「……………………わたしは、どうしようもなく甘いらしい」


 噛み殺さんとする眼光で睨みつける少年を前に、大きなため息をついた。

 練り上げていたオドが、行使する魔法の決定によって変質していく。それに干渉され、マナも本来の形とは違うものへと変わっていく。理が組み替えられ、望んでいた事象が発現する。


 選んだのは、行動不能スタンを目的とした魔法――Callsfankカルス・ファンク。殺傷ではなく、相手の意識を刈り取り数時間昏倒させる魔法。


「殺しはしない。少しの間、眠っていてくれ」


 杖の先をハルの心臓に合わせる。いくら自身が戦闘職ではなく、鈍っているとはいえ、さすがにこれを外すほどガードナーは下手でもない。加減が必要な魔法だからといっても、てこずるようなことはない。


 だから、杖がぶれたのは別の理由だ。


 目の前の傷だらけな少年が、右手を拳銃の形にしてまっすぐ伸ばしていた。


「…………どういうつもりだい?」


「――――ヘヘ、へ」


 ガードナーの問いかけに、かすれた声でハルが笑った。

 口角が持ち上がる。それはあきらめたときに笑みではなく、まだ戦いを続けている者の目。好機を見つけた時の笑み。

 口を開く。


「そ、れを、待ってた」


「なに?」


「――――バン」


 かすれた声で、発砲の真似事。

 刹那。

 


 ガードナーの構えた杖――



 一瞬遅れて轟き鼓膜を突いたのは、ッダァ――ンッッ! という身体を揺さぶる重く圧縮され高く抜ける発砲音。痺れるような腕の痛みを知覚したのは、その直後だ。


 ああ、撃たれたのか――その音が聞こえ漸く思考がそこに至る。

 同時に、いまこの状況がどれだけ危険なのかということも認識した。


「――くっ!?」


 ゾワリと鳥肌が立つ。その場から大きく飛び退く。

 コンマ数秒の差で、ついさっきまでガードナーのいた場所が弾けた。


 ッダァ――ンッッ! ッダァ――ンッッ! ッダァ――ンッッ! ッダァ――ンッッ!


 一回、二回、三回、四回。わずか四秒半ほどの間に、床が削られ破片が左空中へと吹き飛ぶ。右か! そう思いガードナーは懐に忍ばせていた予備の杖を引き抜きながら身体を右へと回転させる。


 はるか先――天井付近の暗闇からガードナーを狙っていたのは、鈍く黒く光る武骨な鉄の塊だった。銃口をガードナーに向け、白い月光を煤けた狂気の色に染めている。銃身バレルのほとんどを覆う、木製のハンドガード。あの独特の形は、ガードナーもよく見るものだった。


 イギリス軍正式採用小銃〝ショート・マガジン リー・エンフィールドMk.Ⅲ〟早撃ちのしやすいコックオン・クロージング方式に、十発装填が可能で脱着式のダブルカラムマガジンを採用する珍しいボルトアクション・ライフル。


 そしてそれと一体化するように、整った顔に収まっているガラスのような青い瞳が、獲物を狩る眼でこちらを見つめていた。


 彼女には覚えがある。

 月光を反射するひと房の金糸のような髪。少しだけ幼さが残るその少女は、ガードナーがつい数時間前にハルと共に拘束した少女、リーナ・オルブライト。


 ――リーナ……そうか、そういうことか。


 ガードナーの中で、すべてがつながった。

 なぜ勝てないとわかりながらも、ハルが無謀ともいえる戦い方をしたのか。この場にハルしかいなかったこと。気づいていないふりをしていればよかったのに、わざわざガードナーの弱点をこれ見よがしに口にしたこと。


 もとから、ハルは自分で倒すつもりなどなかったのだ。倒せるなんて本人も考えていなかった、だからこそ囮に徹した。この状況を創り出すために、最大の障壁である杖を破壊し、パワーバランスをひっくり返すために。


 ――まずい!


 再び鳥肌が立った。

 リー・エンフィールドの装弾数は十発。ほかの国が採用する小銃の五発の倍だ。ついさっきの発砲を入れても残りはまだ五発ある、つまり再装填する必要がない。


 早く障壁を張らなくては。今の状態は、兎撃ちの兎と何ら変わらない。


「――くっ、Jectelute!!」


 懐から杖を引き抜く。身体が振り向くよりも早く左から右へと横一文字に振りぬき、守りの障壁を展開する。視線すら向けられない。そんな余裕はなかった。


 握っている杖は、普段から使っていたガードナー専用の杖。にも拘らず、魔法を行使するという短いプロセスの一挙手一投足に、ガードナーにはまるで水の中を走るような違和感が付きまとった。使いにくい。まさか無詠唱すらできないとは――それは当たり前のことのはずなのだが、皮肉にも、こんな時になってようやくユニコーンの杖と他の杖との性能差を実感した。


 体感では永遠に思えるほどの時間を経て、ようやく魔法が発動する。空気が圧縮され、理が改変され、空気はたしかな硬度を持った別の物質へと変換される。


 特有の薄い黄色い膜がはっきりと現れ、ガードナーとリーナの間に確固とした拒絶の壁を築く。

 間に合った――そう確信したガードナーの視線がリーナと交錯する。


 そして、再び困惑した。


 彼女が、一発も撃たなかったから。


 なぜ? 刹那の間にその問いがガードナーの脳裏を駆ける。間に合わなかったのならまだわかる。外れるというのも理解できる。だが『撃たなかった』は理解できなかった。この一瞬のためにハルは身を削ったはずなのだ。それなのにどうして、千載一遇のチャンスドブに捨てるようなことを行うのか……。


 しかしその三秒後、ガードナーはその答えを半強制的に理解させられた。


 だんっ、と思いっきり地面を踏み込んだ音。

 それが入ってきたのは、ガードナーの左耳から。つまり音がしたのは、さっきまでガードナーが向いていた方向。


 ハルが倒れているはずの方向。


「っらぁぁぁぁぁああッ!!」


 まず知覚したのは、首が外れたのかと思うほどのアゴへの衝撃。下から上に、頭が打ち上げられた。とたんに視界が揺さぶられ、思考能力の大半が停止する。


 続いて状況判断すらできなくなった視界に飛び込んできたのは、再び折られた二本目の杖の残骸。降り抜かれた黒色のカタナ。深い青色の服。黒い髪。鬼気迫る表情。


 迫る拳。


「がぁぁどなぁぁぁああ!!」


 ――力ずくで止めるため。あと、一発ぶん殴る――


 そう言い放ったハルの宣言通り、

 渾身の右ストレートを顔面に喰らい、ガードナーは宙を舞う。



 硬い石の地面に叩きつけられ、ついに意識を手放した。


          ◆◇   ◆◇   ◆◇


 ダメだ、もう動きたくない――身体中がそう悲鳴を上げている。


 魔法薬の効果は既に切れ、頭が割れるような痛みと全身が鉛になったような倦怠感が襲っている。どくん、どくん、とこめかみの血管が拍動し、鼓膜の奥に心臓の鼓動が直接響いている。あれだけ早鐘を打っていた鼓動は、まるで止まってしまいそうなほど遅く時たまリズムが狂う。リズムが乱れるたびに、心臓を突かれたような痛みが走った。


 キーンという耳鳴りも止まらない。眼の血管が切れたのか、視界の縁がわずかに赤い。肺もそうだ。自発的に肺を膨らませなければ、呼吸そのものが止まってしまう確信があった。意識だって、少しでも気を抜けば持っていかれる。暗く深い場所から無数の腕が伸びて、俺の意識を引きずり込もうと躍起になっている。


 だけどこれでも、副作用としては精いっぱい軽減させた方なのだ。自我はあるし、肺も心臓もつぶれていないのがその証拠だ。まったく、これで症状が軽い方とはどれだけふざけた魔法なのかがよくわかる。


 もうちょっと。もうちょっとだから。

 そう言い聞かせ、仰向けになっていた身体を無理やり起こした。全身に鈍痛が走り、「うぅっ」という堪えきれなかったうめきが漏れる。そばに落ちていたカタナをつかみ、杖のように突き立てて何とか立ち上がる。


「ううぅ、あったま痛っ」


 立ち上がったところで、目をつむり大きく深呼吸する。一度、二度、三度。少しだけ平衡感覚と身体の力が戻るのが分かった。

 カタナに込めていた力を抜いてみる。ふらつくけれど、倒れこむほどじゃない。


 荒い息を突きながら、


「はぁ……はぁ……さんきゅー、リーナ」


 一番の功労者に、感謝の意味を込めて腕を伸ばし親指を突き立てた。

 あの一瞬、あのチャンスを創るために協力してくれた相棒。あの一瞬を創り出すことができたのは、たった数センチの棒きれに銃弾を当てることができる腕のおかげだ。


 リーナがいなければ、この作戦はできなかった。ガードナーを俺の手で止めることはできなかった。散々なやられ様の俺よりも、よっぽどカッコいい。


「ナイスショット、……助か、った」


 ジャッコンッ――――ッキィン……カララ


 息も絶え絶えな俺の言葉に応えるたのは、排莢と再装填、そして空薬莢が落ちて転がる音。月光に照らされたリーナが立ち上がる素振りはない。どうやらまだ引き続いて、俺の援護をしてくれるらしい。


 頼もしい弟子兼相棒の厚意に追加で感謝をしながら、俺はふらつく足取りでガードナーに近づく。途中で折れた二本目の杖を踏み、二度と拾えないように足で遠くに蹴っ飛ばす。かなり大きな音がしたがガードナーに反応はない。脳震盪と、渾身の顔面右ストレートのダブルパンチで気を失っているようだ。


 ガードナーのもとにたどり着き、しゃがみこんで彼の懐に手を突っ込む。探しているものはひとつ。彼の性格なら、他の人に持たせるようなことはさせないはずだ。必ず、すぐに手が届く場所にしまっているはず……。


「……あった」


 ジャラリ、という金属束がこすれる音と硬い感触。それは内側の胸ポケットにあった。

 引き抜き、姿を現したのは、丸い金属棒に数本鍵がぶら下がった鍵束。それは俺たちが入っていた檻の鍵とは違い、錆ひとつない。この世界ではなく俺が来た世界で製造された、魔法具を開けるための専用鍵だ。


 鍵束から無作為に鍵を選び出し、首の枷に突っ込む。四本目の角ばった鍵がするりと入り、奥に当たったのが分かった。


 左に回す。

 カチリ――中でロックが外れた音がした。


 枷は力を失ったようにパカリと真っ二つに開き、噛みついていた俺の首から抜け落ちる。すっかりぬるくなった金属の感触が離れる。

 数時間ぶりに首に触れた空気は、まるでそこだけが氷を当てたように冷たい。最後のあがきとばかりに、けたたましい金属音が倉庫内に木霊した。


「…………んっ、うう……ぅあぁぁ……」


 すると、鼓膜を突く固い音に刺激されたのか、仰向けで気を失っていたガードナーがうめき声をあげた。


 右腕が、左腕が、芋虫が這うような速度で床をこする。何かを探していたのだろうか。ガードナーは十秒ほど両手を地面に這わせていた。その後、力尽きた様子で両腕がまた地べたに横たわる。


 それでも何とか動こうとしたのか、今度はうめき声をあげながら身体を横向きに起こし右腕を地面に突き立てた。左手で頭を押さえているけれどその眼は虚ろ。突き立てた右手は重さに耐えきれないように小刻みに震えている。


 満身創痍――今のガードナーの姿を現すにはその言葉以外思いつかなかった。


 何とか上半身だけを起こしたガードナーがうわ言の様に「つえ、つえ」と呟いた。やっぱり頭が混乱しているらしい。とりあえずそれ以上言葉をかけることはやめにして、俺は腰の薬品ポーチから一本の薬瓶を取り出し栓を開けた。


 オレンジとペパーミントの混ざったような独特の薬品臭が鼻を衝く。オレンジ色の中身を一気に飲み込むと、まず感じたのは苦みと舌にこびり付くような粘つく甘味、そして喉を焼くようなカァッ、という熱さに似た錯覚だ。何度飲んでも不味い味に思わず顔をしかめる。


 同時に、身体が少しずつ楽になっていくのが分かった。俺が今飲んだのは、体内のオドを調整する魔法薬だ。身体に吸収されていけば、通常の何百倍もの速さで傷や不調を直してくれる。いまの倦怠感が取れるのに、十分もかからないだろう。

 とはいうものの、根本的な副作用を治すにはもう数日かかるはずけど。


「まっずいなぁ、やっぱ。調合ミスったかな」


 自分で調合したのだからそんなはずはないとわかっているけれど、やっぱりこのあまりのまずさについ悪態が口からこぼれ出た。

 深く息を吐き、身体を落ち着けること数分。


「……く、そ」


「ん?」


 上半身を起こしたまま動かなかったガードナーの口から、ようやくまともな言葉が紡がれた。


「下手に動かない方がいいよ。次、頭を打ったら多分ヤバいから」


 それでも、放っておくと勝手に自滅しそうなので、俺はとりあえずそう声をかける。

 ここで気を失ってもらっちゃ意味がない。どちらかといえば、俺の仕事はここからだから。


「それと、魔法もノー。杖は折ったし、俺の相棒も向こうから見張ってる。さっきの見たろ?俺をどうにかする前にあんたが死「どう、して……どうしてこんな時に邪魔をするんだ!」


 悲痛な叫び声が、俺の言葉を上書きした。

 その頬を伝って大粒の涙が走り、次々と地面にこぼれ落ちていた。

 残った窓ガラスが揺れたかと思うくらいの、叫びにも似た声。しかしそこに闘気はなく、あったのは俺に対する怒りと焦りの感情だった。


「君に不利益はなかったはずだ! 君は止めようとしたが失敗し拘束された、そう言えば何の懲罰もないだろうっ。だというのに、どう、して、どうして邪魔をするんだ! 法か!? 倫理か!? そんなもので妻は救えない! 悪魔たちとのパスを繋ぐことになる? それは可能性の話でしかないっ! 妻は死ぬんだ、確実に! そんな不確かな可能性でここまで用意した機を逃してたまるか! 約束する。贄に子供は使わない! わたしの財産ならすべて譲る! わたしがすべて罪をかぶる! 君に不利益な情報は一切漏らさないと誓おう! だから、だから……っ!」


 矢次に飛び出したのは、俺が止めた理由と恨み。だけどそれも最初だけだった。後半には怒気といった感情は消え失せ、ただひたすらに俺へと懇願していた。


 悲痛な声で、すがるような目で、プライドなんか殴り捨てて、三十以上年の離れたクソガキに向かって頼み込んでいた。しかも自分の計画をご破算にした張本人にだ。


「――――頼む、ハル。お願いだ…………サラを救わせてくれ」


「――――っ」


 思わず顔をそむけた。見ていられなかったから。


 彼が間違えたのは方法だけなのだ。その奥底の感情は、恥も外聞も捨ててでも愛する人を助けたいと思う気持ちは間違っていないはずなのだ。

 だから直視できなかった。なぜと訊かれたら答えられないけれど、ただこの人のこんな顔を見たくなかった……いや、理由なんて解ってる。


 聞けば聞くほど、この後の結末が彼にとって地獄になるということを痛感してしまうからだ。

 だって今から俺がすることは、彼の最愛の人の死刑宣告をするに等しいのだから。


「だから、無駄なんだよ。この方法じゃ絶対成功なんか、」


「そんな、そんなはずはない……っ! 召喚陣は完璧だ。確実に呼び出せるはずだ! 悪魔の能力を考えたとしても、わたしの願いは決して無謀なものじゃないはずだ! 現にわたしは見ている! この目でその奇跡を見た! 失敗する理由すらないんだ!」


「あるよ。もっと根本的な欠陥が」


「何を根拠に――っ」


 ガードナーの悲痛な声を断ち切るように立ち上がる。そしてそのまま、痺れる足を引きずりながら歩きだす。

 向かう場所は、もちろん『魔法円』。その円の中心だ。


「いま見せてやるよ。悪魔と取引するってのがどういうことなのか。どうして成功しないのか」


 杖を取り出し、手首のスナップで二回振る。すると奥に積まれていた荷物の一部が浮き上がり、磁石に引き連れられる鉄くずのように俺へと飛んできた。


 飛んできた塊は二つ。杖を口にくわえて両手を自由にし、開いた両手で一つずつつかむ。飛んできた塊は、布に包まれた半球状のものだ。そのままかかっている布を落とす。布がずれ落ち、武骨な骨組みが露わになる。


 これは鳥かごだ。文字通り、鳥を閉じ込めるための〝かご〟。

 そしてその中には、一羽ずつ小鳥が入っていた。種類はカナリヤ。その内一羽は突然の移動に警戒してせわしなく動く。対してもう一羽はぐったりとして動かない。


「――! まさか、君はっ」


 二羽のカナリヤを見ただけで、ガードナーは何をするつもりなのか察したようだ。さすが開発職についていただけある。

 二つのかごを、刻まれた三角形の陣内に置く。そして陣の中に、高純度の〝世界樹の涙〟という触媒を撒く。撒いた量は小瓶一本分ほどだ。金額にすれば、これだけで俺の給料二年分になる。


「大丈夫だって。誰も見てなければ、一回くらいやったって《俺は》バレないんだ」


「それはどういう――!?」


 ガードナーが絶句する。

 それは、俺の左腕を見たから。


 戦闘服の上を脱ぎ捨てる。タンクトップのような格好になり、左腕の特殊布を引き裂く。


 俺の左腕に刻まれているのは、禍々しい痣だ。


 腕から肩まで這う禍々しい青い痣。炎で焼かれたようにも、皮膚を無数のフォークで突き刺し裂いたようにも見える傷。

 これは魔創じゃない。悪魔をその身に宿したものに刻まれる痣だ。一生消えない咎人の証。忌み嫌われ、蔑まれる人生を送ることを宣告する無慈悲で残酷な印。


 別名、〝魔女の契約印〟


「その印……まさか君は……」


「ちょっとは信じる気になっただろ? まあ見てなって。嫌でもすぐに分かるからさ」


 ガードナーに向かってニヒルに笑い、俺は魔法円の中心に立った。

 目をつむる。視覚を、聴覚を、嗅覚を意識的に排除していく。ガードナーの相手は完全にリーナ任せだ。そうでもしないと、成功しない。


 なんだ。できる限り、あの時と同じ状態にしたい


「――――すぅぅ……ふっ」


 大きく息を吸い、深呼吸を二、三度。魔法薬のおかげで、体内のオドはそれなりに整っていた。


 ――大丈夫、いける。


 そう自分に言い聞かせ、


「霊よ! われは偉大なる力の以下の名において前に命ずる。速やかに現れよ」


 召喚の呪文を紡いでいく。


「アドナイの名において、エロイム、アリエル、ジェホヴァム、アクラ、タグラ、マトン、オアリオス、アルモアジン、アリオス、メムブロト、ヴァリオス、ピトナ、マジョドス、サルフェ、ガボツ、サラマンドレ、タボツ、ギングア、ジャンナ、エティツナムス、ザリアトナトミクスの名において、いま扉は開かれた」


 この意味不明な呪文は、悪魔を向こうの世界から無理やり引きずり出すためのものだ。エネルギーを、マナが高濃度に濃縮された霊水という触媒でブーストさせ、もっとたくさんある手順をすっ飛ばすという乱暴な儀式。

 それはつまり、俺自身にかかるセーフティーを必要最小限まで取り払ったということだ。

 いうまでもなく、召喚方法の中でも最も危険な部類に入る。


 だけどこの方法なら、確実に悪魔を引きずり出せる。


「汝が本物なのだというのなら、その力を示せ!」


 詠唱が終わる。

 術が俺の制御下から離れ、半ば自動的に動き始める。


 まるで水を打ったかのように、ほんの一瞬、静寂があたりを支配した。

 刹那、




 真っ黒な煙玉が、三角形召喚陣の中から天井に向かって打ちあがった。




 まるでそれは、水の中にインクを垂らしたように、黒い靄の軌跡を大気中に残す。カナリヤの一羽がけたたましい声で鳴き、撒かれた霊水が音を立てて燃え上がる。


 同時に、

 



 ケヒヒヒヒヒヒィィ――――ィィイ!

 


 金属を金属で掻きむしったような、そんな耳障りな〝声〟が脳内を直接揺さぶった。

 発生源はもちろん目の前のこの黒い煙だ。いや、正確に言えばこれは煙なんかじゃない。だ。この世に存在できない悪魔を繋ぎとめるための霊水、そして存在可能な空間となる三角召喚陣――この二つがそろってようやく悪魔はこの世界にとどまることができる。


 不完全な形で、三角召喚陣の中のみで、という条件付きだけれど。

 そう。これだけ手順を踏んでも、完全な状態での召喚は不可能だ。正確なグリモワールはすでに消失していて、見つかっていない。ほとんどが複写を何十回も複写していったものだ。そもそも、完全に呼び出す方法を魔術師や魔法使いが他人に解るように書き残すわけがない。


 それでも、いまこの状況に限って言うなら、この状態でも十分に可能だ。


《…………………》


 煙の中から三つの目が現れる。見るものを吸い込んでしまいそうな真っ赤な目。


「――――うっ…………痛っ」


 左腕の傷が痛んだ。まるで焼けた鉄を押し付けられているかのように、左腕が熱い。だけどこれは代償なんかじゃない。この程度で済んでいるのは、俺が一度悪魔とパスをつないでいるからだ。


 流れ込んでくる狂気に本能が訴える。

 身体に支障を生じさせてまで、本能がコレを拒絶する。


 目の前のこれは、俺たちが対峙してはいけない〝何か〟なのだ。つながりを切れ。拒絶しろ。追い払え。命を食い尽くされるよりも前に。

 だけどその生理的嫌悪感を押し殺して、俺は悪魔を睨みつける。


 今ここでパスを切れば、この儀式は失敗する。

 もう儀式自体は、俺の制御下にはない。命令する内容は、叶えるべき願いは術式の中にもう組み込んである。いま俺にできることは、あの悪魔とのパスをつなぎ続けることなのだ。皮肉にも、あの悪魔が不自由なく力を行使できるように。


《…………、……。……。……、……、……。》


 どれだけ睨み合っていただろうか。

 唐突に、煙が苛立たし気に三つ目を細めた。不自由そうに身体をくねり、周りを飛び回ろうとする。だけどそれはできない。それをさせないための陣でもあるのが、その三角召喚陣なのだ。自身が拘束され自由には動けない――そう解ると、悪魔は段々と高度を下げ、地面へと近づいてくる。


 そこにおいてあるのは、二つの鳥かご。一方は死にかけで、もう一方は健康体のカナリヤ。


 やることは解っている。悪魔にはちゃんと伝わっているはずだ。

 今から行うことは、言ってみればガードナーが組み立てた儀式のリハーサルだ。触媒が霊水、サラさん役が死にかけのカナリヤ、元気な方が子供役となり、儀式の肩代わりをしてくれる。


 これから起こることは、ガードナーが引き起こすかもしれなかった未来だ。

 もしガードナーが強行していたらどうなったのか、その結末だ。


《………………ケケ》


 馬鹿にするように、煙が嗤う。

 二筋の煙が腕のように伸び、曲がり、二つの鳥かごに近づいていき――、

 ちょんと、二つのかごを軽くつついた。


 途端に、一羽が凍り付いた。

 いまのいままで元気に跳ねていたカナリヤが、まるで剥製にでもなったかのように硬直した。踏ん張っていた足が外れ、止まり木からかご底へと落下する。


 落下したその音は、今さっきまで生きていたとは思えないほど硬いものだった。

 すると、


 ――……ぴ、ぴぴぴ、ピュ、ピュィ、ピュルルルルィ――


 あり得ないことが起きた。

 ピクリと、もう一方のカナリヤの羽が動いた。今さっきまで眠っていたかのように頭をもたげ、何事もなかったかのようにその体を起こし鳴き始めた。


 それはあり得ないことだ。あってはいけないことだった。

 何があり得ないのか――なぜならその個体は、今さっきまで死ぬ直前まで衰弱死していたはずだからだ。


 そんな個体が、何事もなかったかのように起き上がれるはずがない。そして今さっきまで元気に鳴いていた個体が、まるで初めから生きてなんかいなかったように横たわっているはずがない。


 元気な個体が死に、瀕死の個体が生き返った。

 それはまごうことなき、命の交換だった。


 科学の力では、魔法の力では、人の力では決して起こりえない奇跡が再現された。


「……ふ……くく……ははは、ははははははは!」


 割れんばかりの声で笑いだしたのはガードナーだった。


「やったぞ! やはり正しかった。召喚術は成功した!」


 震える足で立ち上がり、満面の笑みを浮かべる。

 その顔は技術者のそれだ。真理を追究する魔法使いの浮かべる顔。だけど、俺が見てきた中で一番危うくて不安定でぎらついた顔だ。こいつはどこかおかしい――ひと目見てそうわかってしまうほど何かが欠如している。


 人としての何かが、決定的に欠落した、禁忌を犯した者の顔。


「はははは、何が失敗するだ何が望みはかなわないだ! 完全な儀式でそんなこと起こるはずがない!」


 嘲笑の混ざった高笑いをしながら、わが子を迎えるように、ガードナーはふらつく足取りで魔法円に近づく。その時、ガードナーと俺の視線が交錯した。


 その顔はやっぱり、俺が知ってるあの人のものじゃなかった。まるで悪魔に憑かれたみたいにギラついた目と口だ。薬を求める中毒者のよう。この十数分で、別人のように印象が変わった。


 余計に見ていられなかった。そこまで渇望したものが目の前にあって、それに手を伸ばそうとする彼が不憫でならなかった。

 俺は知っている。


 もう少しで、あのカナリヤは……。


「これで、これでサラも――」


 瞬間、




 パシャリ。

 水音を立てて、鳴いていたカナリヤが




 …………。

 ……。

 …………………………凍り付いたような表情、目の前で彼の浮かべる表情以上にその言い回しにふさわしい顔は、きっと今後何十年たっても現れない。


「――…………は?」


 掠れて裏返った、声とも呼吸音ともいえる微か音。

 靴音にさえかき消されるほどの声量が、不自然によく響いた。


 ガードナーの顔は、凍り付いている。笑顔のまま。突如起こった想定外の事態に対応できなくて、思考以外の行為を破棄したんだ。その証拠に、目の奥ではいくつもの感情が渦巻いているのが俺からでも分かった。


 ぞっとするほど静まり返った倉庫。


 数秒後、



 イヒ、イヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ!



 耳障りな不快音が鼓膜の奥を引っ掻き回す。

 それはまるで壊れたブザーのように、加減なんて知らず笑い続ける。いまの俺たちを見て楽しんでいるように、嘲るように、嗤い続ける。


 ひとしきり嗤い。

 満足した様子で、その煙は一気に爆散し空気へと溶けていった。


「……………」


「…………………」


「……。……、……っ、…………っ。」


 誰も、何も言わない。俺も、ガードナーも、リーナでさえも。


 三者三様。俺はあの人を見ていられなくて。リーナを見れば、彼女は唇をかんで顔を背けていて。そしてガードナーは、パクパクと壊れたように口を開け閉めしていて。


 今この空間には、何という題名がふさわしいだろか。絶望と、希望の残骸と、濃すぎる悪意の残り香――個人的にはムンクの『叫び』以上に画にふさわしい空間だと思う。

 などと、俺が現実逃避していると。


「……なぜだ」


 うわ言の様に、かすれた声でガードナーが独り言ちた。


「儀式は……完璧だった……その、はずだ。どこにも、欠損は、なかった。そうだ。そうだったそのはずだぁっ! あれだけ時間をかけたんだ! どの文献にも矛盾なく合致した! 現にあいつの儀式は問題なく成功した! なぜだ、なぜわたしの儀式は成功しなかった!」


 ギロリと、射殺すような血走った目が俺をとらえる。

 足を引きずりながら俺へと近づく。口から泡を飛ばしながら、俺に食って掛かる。


「言え、言え! 何を知っている! どうして失敗した! 何が足りない!?」


「完璧だよ。どこも足りないところなんかなかった」


「嘘だ!」


「ホントだよ。……だから成功なんかしないんだ」


「――! ……――?」


 ガードナーの狂気に、困惑が混じる。

 息を落ち着かせ、一度大きく吸ったあと、俺は話す覚悟を決めた。


「ごめん。母さんが死んだって話、あれ嘘ついてたんだ」


 チクリと、心臓が刺されるように痛んだ。

 話すな。そう心が言っている。だけどそれをねじ伏せて、俺はその先を初めて人に話した。


「あんたには、悪魔を召喚したって話したけど、嘘なんだ。ホントは、……。母さんの病気が魔法じゃ治らないって言われて、それでも死んでほしくなくてすがったんだ。一年かけてさ、父さんの禁書庫から本を盗み出して。うん、あんたと同じだよ。それで結果は知ってるだろ? 母さんは死んだ。俺が最初に見たのは、血まみれになって倒れた母さんの姿だ」


「………………」


「それで気づいたんだ。この方法そのものに欠陥があるって」


「それは……」


「簡単だよ。この方法でできるのは『悪魔を呼び出すこと』と『自分が襲われないこと』。ここまで言えばわかるだろう? んだよ。あいつらに契約を守らせるなんてことできないんだ」


 そう。それこそがこの儀式の欠陥だ。

 この術でできることは呼び出すことまで。強制力がない。あいつらに俺たちの言うことをきかせる方法そのものが、そもそも最初から存在しないんだ。


「……! だが、それでも、他の術者は、」


「財宝をくれ。知識をくれ。だろ? そういったやつらだって油断して悪魔に魂を取られてるんだ。目の前に生きた魂がいるのに、どうしてあんたの願いなんてわざわざ聞くんだよ。そもそも、無理やり呼び出されて願い通りのことするなんて奴らが悪魔にいるわけない」


「……だが。それなら拘束すればいい。言うことを聞かなければ苦痛を与えると、そうすれば……」


 ああ、やっぱりそっちに行く。

 そうやって踏み込んでいって、魂を取られるんだ。

 

 だから、


「だから無理なんだよッ!」


「!?」


 俺はあの人に、どうしようもない事実を突きつける。


「拘束したって何したって、あいつにサラさんを任せるんだから意味ないんだよ! 言うこときかせたって、その瞬間になったら立場は逆転するんだ! どんなに縛ったって意味なんてないんだよ! いい加減気づけよ! そんなに……」





「そんなに奥さん殺したいのかよ!」




 思いっきりそう叫んで顔を上げたとき、彼は顔をくしゃくしゃにしていた。

 血が出るほど唇をかみしめて、そして泣いていた。皮膚が裂けるくらい硬く拳を握りしめて、膝をつき、嗚咽を漏らしながら。


「……途中から、気が付いていたさ。この儀式が、悪魔の善意を前提にしていることは」


 消え入るような声で、ガードナーが吐き捨てた。


「それでも、これしかなかったんだ。サラを救えるかもしれないのは、これしかなかった……ッ」


 そうだ。俺が言ってることなんて解ってるに決まっているんだ。俺よりもずっと年上で、魔法の知識も豊富で、俺の持っている能力以外すべて勝ってる人がそれを理解してないはずないんだ。


 気が付かないんじゃない。理解していないんじゃない。。本当は解ってるくせに。解決できない欠陥を見ないふりして進むんだ。


 だって、それさえ無視すればすべてうまくいくから。

 解決できないそれをどうにかできるって考えて、後戻りができないところまで進んでいくんだ。


「…………ガードナーさん」


 彼の前に跪く。

 いま、この瞬間だけだ。彼を引っ張り戻せるのは今しかない。


「ミシェルが、言ってたんだ。パパは何でも知ってる。いつも正しくて偉くて、自慢のお父さんなんだって。今度、あなたとサラさんと一緒にケーキを作るんだって」


「………………」


「だから……お願いしますっ、これ以上ミシェルを泣かせないでください。あの子とサラさんの残り時間を、こんなことですりつぶさないでください……っ」


「――――」


「最後まで、自慢の夫と父親でいてください……っ!」


 いつの間にか、俺まで嗚咽を漏らしていた。

 涙が、止めようとしても言うことを聞いてくれなかった。


 だって、こんなのあんまりだ。最愛の人を誰よりも助けたいと思ってやっていたことが、実は彼女を殺すための儀式だったなんてあんまりだ。それに囚われるなんてあんまりだ。


 彼の想いは間違いなんかじゃないのに、その先にあるのが破滅だなんてあり得ない。解っていても止まれないなんて、そんなの嘘だ、理不尽すぎる。


「………ううっ。ひっく………、うう……」


「……」


 どれくらい、俺は泣いていただろう。


「ああ、そうだった」





 ケーキは来週だったな――そう呟いたガードナーさんが、そう言って優しく俺の頭を撫でた。

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