第1章ー12 Aincient Lost beasts (下)

 ――二十分前 霧の森・入り口――


 わたしたちが降りたのは森の入り口だった。

 入り口とは言っても、昨日のように霧が一部晴れているとかそういうわけじゃない。そびえたつ大樹たちを霧が多い、大樹の先っぽだけがかろうじて見える。昼時で、日光が差し込んでいるはずなのに、森の奥に何があるのかさえ全く見えない。


 不気味だ。そこの見えない海に浮かんで、見えない海底を覗き込んでいるような気分だ。何があるのか分からなくて、見えない場所から急に何かが出てきそうなあの感覚。


 わたしと同じものを感じているんだろうか。森の前に降り立って座り込んだヒューイたちも、《ピルルゥ……》という細い声で鳴いていた。


「ここから先はドラゴンの縄張りだから、この子たちは怖がるんだヨ」


「そうなんだ。ごめんね。そんなところに連れてきちゃって」


「ホントにごめんヨー。あとでちゃんと埋め合わせはするかラ」


 そう言って、アルマがカヌレを撫でる。少しだけ潤んだ目で、ヒューイがわたしたちを見つめる。


 ――……早く済ませてくれって、言いたいのかな。


「できるだけ早く済ませるから、少しだけ待っててね」


 ヒューイが答えるみたいに短く鳴いて、わたしたちから視線を外した。まるで溜息を吐くみたいだった。「分かればいいよ」――なぜだかそう言われたような気がした。


 一方のカヌレも、落ち着かない様子だった。だけど、ヒューイがくちばしでカヌレの顔を擦ると、安心したのかそれ以上不安そうに泣くことは無かった。目を細めて、ヒューイの羽毛に顔をうずめて羽毛を引っ張って遊んでいる。


 よし、と呟いて、アルマが地面に置いていた荷物を持ち上げる。

 わたしの方を向く。その表情は、なぜか感心したような感情を湛えていた。


「それにしても、やっぱりリーナって度胸あるんだナ」


「え? 度胸?」


 唐突にそう言われる。意図が分からなくて訊き返す。


「だって、ドラゴンの縄張りに行くなんて聞いたら普通の弟子は仮病でも使って逃げるのにさ、リーナは怖がるような素振りが全くないかラ。この前ここに薬草を取りに来た奴の弟子なんか、入る前にチビッてたんだゼ?」


「あー、そっか。確かに言われればそうね」


「相手がドラゴンだからナ。下手すると喰われるなんてこともあるし、こっちじゃ喰われる奴が悪いって考えなのも理由かモ。リーナみたいな肝っ玉が据わった子は珍しいヨ」


「別に肝が据わってるわけじゃないわ。多分、あんまりにもいろんなことがあったからマヒしてるだけ。いまだって、考えてみれば怖いもの」


 というよりも、わたしは昨日まさにそのドラゴンに殺されかけているから……。

 そのせいもあるんだろう。いまのわたしにが魔法の世界に抱いているのは、未知の恐怖よりも好奇心とか探求心だ。この先には何があるんだろう、この道具はどうやって動いているんだろう、あの生き物は一体なんだろう……知らないものを見ると、恐怖よりも先にそう思ってしまう。


 もちろん、怖いものは怖い。だけどさっき言ったように、昨日あんなことがいっぺんに起こってしまったら、並大抵のことじゃ驚けない。何だろう、辛いものを食べすぎて味が感じなくなるイメージに似ている。


 ふーん、とアルマは納得したようなしてないような返事を返して、会話が途切れる。いったい何を考えているんだろうか。アルマはぼうっと空を眺めている。


「しっかし、不思議な縁もあるもんだナ」


 呟いたそれは、独り言みたいだった。

 わたしが聞くことが前提で、だけど返しは求めていないただの感想。会話よりも、気持ちの整理を目的にした言葉だ。


「たまたま魔法に巻き込まれて、たまたま魔法の才能があって……、なにがすごいって、あいつが弟子を取ったことだよナ」


 あいつとはもちろん、この場にいないハルのこと。「ちょっと森を見てくる」と言って霧の中に消えていったわたしの相棒のことだ。


 ハルとアルマは、長い付き合いがあるというわけではないらしい。よくこの場所に入ってくるハルのことを知って、面白そうだとアルマから近づいたみたいだ。その予想通りハルは面白い人だったらしく、アルマが一方的に気に入ってちょっかいをかけているというのがいまの二人の関係だ。悪友、腐れ縁、ハルは確かそう言っていた。


 そのアルマでさえ、ハルがわたしを連れていることは異常事態だったらしい。アルマの言った言葉を整理していくと、わたしがハルに感じていた違和感の正体がなんとなくわかった気がした。


「前々から気になってたけど、ハルって人嫌いなの?」


「んー、何だろうナ。人嫌いじゃないけど、どっかに壁を作ってるんだヨ。あたしの勘だけど、秘密主義っていうか、踏み込まれることが嫌いっぽい気がすル。あたしにもそうなんだヨ。だからホントに驚いんダ。ハルが四六時中だれかと一緒にいることなんて今までなかったからナ」


「確かにそうかも。ハルって、あんまり自分のこと話さないし」


「あ、やっぱリ? じゃあ、リーナはハルのことを何も知らないわけダ」


「ええ。何者なのかってことは聞いたんだけど、それ以外のプライベートなことは全然。どうしてこの世界に来たのかってことも」


 不思議な子――いまわたしがハルに抱いているイメージはそれだ。


 わたしよりも年下で、言動はいたずら少年みたい。だけど魔法に関わることを扱う時は、十歳くらい軽く成熟したような印象をまとうことがある。

 わたしよりもずっと年上に見えて、お兄さんがいたらこんな感じなのだろうなと思わせて来る。でも次の瞬間には確かに少年に戻っていて、楽しそうに魔法のことを話している。まるで、ふたりの人間と喋っているように感じてならない。


 だけど二人と言っても、別人というわけじゃない。確かにハルだ。何て表現すれば近いんだろうか。見た目年齢のハルと十年後のハルが一緒の身体に入っていて、時々入れ替わっている……その言い方が近い気がする。


 そしてハルは、自分のことについては全く何も言わない。どうしてこの世界に来たのか、どうしてこの世界に来ようと思ったのか、学校はどうしたのか、そう言った方向に話が行こうとすると、ハルは微妙に軌道修正をして話の方向をそらす。


 秘密主義、アルマが言ったそれは的を射ていると思った。


「何で弟子なんか取ろうと思ったんだろうナ。過去最大の謎だヨ」


「…………そうね」


 多分それは、ハルのこととは関係ないと思う。だけどハルとの約束だから訂正もできない。誤解を抱いたまま全力で明後日の方向に走っていくアルマに、心の中だけで謝罪する。


「これだから、あいつは観察しがいがあるナ!」


「……迷惑にならない程度にね」


 ――ごめん、ハル。とんでもないことになっちゃった。


 そしていつの間にか、知らないうちにハルにも流れ弾が当たっていた。これから事あるごとに観察されるとしたら……気の毒だ。これが冗談であることを願う。もしそうなってしまったら、わたしから何か面白い本を紹介しよう。


 と、


 ――おーい! こっちから入れる! ――


 遠くから聞こえたのは聞き慣れた相棒の声。

 タイミングよく、ハルが森の中から出てきた。それのおかげで、この話題はとりあえず終わったみたいだ。いつの間にかアルマは荷物を背負っていて、いつでも森に入る準備は万端のようだ。


「あ、忘れてた」そうアルマが呟いて、わたしの方を向いた。


「リーナはどうすル?」


「え? どうって、」


「この後どうするかってことサ。あたしはここに残ってもらうつもりでいたけど、今の話聞いてたら一緒に行った方が良い気がしてきたんダ。多分、あいつは聞かれるまでは自分のことを教えないつもりだろうから、あいつのことを知るいい機会になると思ったんだけド……」


「どうかナ?」と、わたしの顔を見つめてくる。その言葉に思い知らされる。


 わたしはまだ、彼のことを何も知らないんだということに。


 どうしてこの世界に来たのか、そもそもハルが何者なのか。それすらもわたしは知らない。分かっているのは、ハルが魔法使いと言いうことだけだ。歳相応のはずなのに、ふとした瞬間にわたしよりも年上に見える。一緒にいて分かったことはそれだけだ。


 赤の他人と呼ぶには深入りしすぎている。でも相棒と呼ぶには、わたしはあまりに彼のことを知らなさすぎる。これではまるで、殺し屋と依頼主の関係のようだ。仮初めの相棒だけど、なにも興味がないわけじゃない。まして、わたしはハルのことが好きだ。できればこの事件が終わった後も仲良くしていきたいと思えるくらい波長が合って心地いい。それなのに、わたしは彼のことを何も知らない。


 もちろん詮索する趣味はわたしにはないし、詮索そのものがわたしは嫌いだ。だって、わたしも過去をあまり知られたくはないから。隠し通せるのならこのまま墓場に持って行きたい灯っているから。だから、ハルのことだって無理に詮索しようとしたり、嫌がるような質問もしないつもりだ。


 でも、近くで見るくらいなら。ハルが許してくれるというのなら、わたしは一緒に行きたい。


 それに、もしもこの先を見ることが罪でないというのなら。

 わたしはもっとこの世界のことを知りたい。


 魔法とは一体何なのか、どんな生き物たちが棲んでいるのかを知りたい。もっと世界の奥深くに飛び込んで、新しい世界で頭をいっぱいにしたい。だって、本を読んで想像するよりも、何倍も胸がときめいているから。


 ああ、わたしの悪い癖だ。一度動き出してしまうと止められない悪癖だ。子供のころに発散させられなかったせいだ。


「ええ。わたしも連れて行って」


「そう来なくっちゃナ!」


 ニカッと、アルマがいたずらっぽく笑った。

 遅れてハルが合流する。不思議そうな表情で、「何かあった?」と訊く。


「ハル。リーナも行くことになったかラ」


「は!? マジで?」


 寝耳に水、という言葉がこれほどぴったりな表情に、わたしはきっとこのあと数年は出会えない。目を丸くして、すごい勢いでハルがわたしの方を向く。

 精一杯の誠意のつもりで、わたしは目をそらさずに頷いた。


「もちろん、ハルが迷惑じゃなければだけど。わたしは行ってみたい」


「それは良いけど……でも、本当に大丈夫なのか? だってドラゴンだぞ? 昨日あんなことがあったのに……」


「大丈夫よ。むしろ昨日あんなことがあったんだもの。もうよっぽどのことがない限り驚かないわ。それに、『わたしは死なない・・・・・・・・』んでしょ?」


 アルマの表情を真似て、ニヤリと口角を上げてそう言った。きっとわたしは、生意気な顔に見えるだろう。

 リフトの中で、ハルが行ってくれた言葉だ。わたしを安心させてくれた言葉だ。


 虚を突かれたのか、それとも自分で言ったことを忘れていたのか、きょとん、とハルは首を傾げた。でも今度はすぐに意味を理解して、お腹を抱えて笑い出した。


「……ぷっ、はっはははは! ははははははは!」


 肺の空気を出し尽くす勢いで笑う。息が切れて、ゲホッ、とむせても笑うことは止めなかった。


「そう来たかぁ。……うん、確かにそうだ」


 ひとしきり笑って、涙をぬぐってハルがはにかんだ。


「分かった。じゃあ、しっかり付いて来て。何かあっても責任もって守るから」


「ええ。信じてるわ」


 その顔は、いつもの歳相応のソレじゃなかった。まっすぐで、でも余裕たっぷりにも見えて安心してしまう。時たま顔を出す、成熟した雰囲気の時に浮かべる表情だ。


「……なんだよ。ニヤついて」


 そして視界の隅では、アルマがニタついていた。



「プロポーズかヨ」


「「違う」」


 ムキになって返したのは、きっとわたしもそう感じてしまっていたからだ。



          ◇◆


 目の前の霧は、気体というよりも壁という方が正しいような気がする。

 風に乗せられて薄まるということは無い。まるで細かい水の粒ひとつひとつが糸でその場所につながれているみたいに、真っ白な壁を作っている。霧の向こうは何も見えない。昨日の迷い霧の森とは大違いだ。あれも大概だとは思うけれど、こっちと比べてしまうとどうしてもマシに思えてしまう。


「すごいだろ? ここの霧」


 準備を終えたハルが、わたしの横に立った。


「ええ。まるで壁みたい」


「この霧はマナが充満してるから、普通の霧と違ってこの場所に留まるんだ。おかげで視界は最悪。マナも干渉してくるから方向感覚も狂うし……正直すげーめんどくさい」


 うへぇ、と顔をしかめてハルが石を蹴っ飛ばす。転がった石は霧の中に姿を消す。


「同じところをぐるぐる回ったり、そんな感じ?」


「んー、近いんだけどそうじゃないっていうか何というか……そうだ、試しに入ってみなよ」


「わ、わたしが!?」


「そそ。なにごとも経験、経験」


「えぇ? ……でも」


 そう言って、半ば強引にわたしの背中を押し霧のすぐ前まで連れて行く。もう一歩前に踏み出せば身体が霧に入ってしまうような場所だ。目と鼻の先で霧がうごめいている。かすかに木の折れる音が聞こえる。


「…………」


 ごくりという、唾を飲み込む音が異様にはっきり聞こえた。

 霧の向こう側は全く見通せない。向こうには何があるのか、何が起こっているのかが全く分からない。もしかしたらこの先には地面なんかないのかもしれない、そんな突拍子もないことさえ考えてしまう。


 いつか、どこかの本で読んだ言葉を思い出す。人が恐怖を抱くのは、それに対して無知であるからだと。あの時はピンとこなかったけれど、今はその言葉が正しかったんだということが嫌というほど分かる。


「ほい。こいつ持ってて」


 立ち止まったわたしに、ハルが渡してきたのはカンテラだった。

 片手で持ち上げるための取っ手が付いた、全面ガラス張りのカンテラ。その中にはロウソクが入っていて、透明で青い炎が揺らめいている。不思議な炎だ。見ているだけでなぜだか心が落ち着いて行く気がする。


 ――綺麗……。


「『辿たどりカンデラ』っていうんだ。元来た場所を差してくれる。焔が揺れてる方向がこの場所だから、何かあったらそれをたどって」


「分かったわ」


「あと、入ったらびっくりするだろうけど、絶対その場を動かないこと。ちゃんと見つけるから。オーケー?」


「……お、おーけー」


「しっかり握って」


 言われて、カンテラを握りしめる。そう言えば、いつ入ればいいのかということを話していないことに気が付いた。そのことを訊くため後ろを振り返る。


 寸前、


 とんっと、背中を押された。全くの不意打ちに数歩よろける。

 途端に、視界が白一色に染まった。

 地面が消える。温かかった身体が、水をかぶせられたみたいに鳥肌が立つ。



 気が付くと、わたしは白い世界にいた・・・・・・・



 ――……?


 本気で今まで何をしていたのかを一瞬思い出せなかった。


 音が無い。

 木も、草も、何もない。感じているのは、踏みしめている地面の感触のみ。カンテラで四方を照らす。だけど、わたしの周りに広がっているのは真っ白な空間だけ。


 何も見えない。何も聞こえない。耳の中に水が入っているみたいに気持ちが悪い。

 手の平を見る。顔と手の平の間で、靄のような微粒子がゆっくりと漂っている。ああ。ここは霧の中だ。数秒遅れて、この状況にようやく理解が及ぶ。


「……ハル?」


 こんなに小さな声だっけ? 本気でそう思った。

 呼びかける。だけど返事はない。わたしの声ですら、響くことなく霧の中に文字通り霧散してしまう。手を伸ばす。それでも手には何の感触もない。まるで、物体という物体がわたし以外この世界から消えてしまったように。


 つぅーッと、冷たい汗が頬を伝う。普段は聞こえない心臓の音が、血管を伝い耳奥の鼓膜へと直に届いて、ドクッ、ドクンと脈打っているのが分かる。


 ハルの言おうとしていることが、今になってやっと分かったような気がした。いや、むしろ賛同できない。これが面倒くさい? 冗談じゃない。面倒なんてレベルじゃない。


 何か大きなものに飲み込まれた時のような、宙づりになって空だけが見えているときに感じるような、底のない恐怖心が芯を締め付ける。こんな感覚、いつぶりだろう。


 普段は聞こえない心音が、大太鼓のような声で早鐘を打つ。

 息の音がやけに大きく聞こえる。こんなに不規則な呼吸をしていたっけ。


 怖い。


 わたしという存在を守っていた何かが剥ぎ取られて、むき出しになった内側を霧がこすり取っていくような不快感が止まらない。


 怖い。怖い。


 気を抜けば、呼吸が止まっていそうで。

 次の瞬間にも、足元が抜けて奈落へ落ちていくように思えてしまって。


 怖い。怖い。怖い怖い怖い怖い怖い―――――――、


「ほい、みっけ」


 トン、

 と背中を叩かれる。


 待ち焦がれていた声が、耳元で聞こえた。


 途端に、狂っていた感覚が元に戻る。頭が雑音を〝音〟と認識して、雑音が一斉に耳に流れ込んでくる。木の折れる音、草の葉がこすれる音、木の洞で共鳴する風の音、そこかしこから聞こえてくる何かの声……この森には、こんなに音があったのかといまさらになってそんな感想を抱く。


「ハル……」


「な? こんな感じ。すごいだろ? ここだって霧に入ってまだ五歩も歩いてないんだ」


 わたしの背中に手を添えて、黒い瞳がはにかんでいた。

 すぅっと、気持ちが落ち着いて行くのが分かった。


「驚いた?」


「うん。少しだけ」


 誰かがいる。わたしの鼓動以外の声が聞こえる。誰かと触れられる。普段の〝わたし〟をわたしたらしめているのは、こういうなんでもない情報なんだと気づかされる。当たり前のことが、砂漠の途中で見つけたオアシスみたいにありがたい。


 何だろう。たった数十秒のことなのに、長い夢を見ていたみたいに感じてしまう。だけどもう、恐怖は感じなかった。

 ハルがいる。何かあっても守ってくれる相棒がいる。少し前に交わしたあの約束が、わたしの勇気を底上げしてくれている。もう大丈夫。


「アルマは?」


「あとで行くってさ。少し回り道するらしいし、向こうで落ち合う約束をしてるから心配ないよ」


 そう言って、ハルが左手をわたしに差し出してくる。その手にカンテラを渡そうとする。だけど、ハルが首を振ってわたしを止めた。


「行こう。手、出して」


 ハルの手は、わたしよりもずっと暖かかった。



 ―― 現在 ――


 そして現在。わたしたちがたどり着いた場所は、さっきまでとは打って変わって霧が全くなかった。

 開けた広場みたいな場所、足元に生えている水晶みたいな花には強い既視感がある。忘れるはずもない。昨日、わたしが殺されかけた場所に咲いていた花たちだ。


 と、言うことはつまりそういうことなのだ。

 この森が見えた時に抱いた嫌な予感。それはどうやら当たりだったみたいだ。


《匂うぞ。あの場にいた人間の匂いだ》


 目の前には、あのときのドラゴンが横たわっていた。


 青い鱗、槍のような尾、爛々と光るエメラルド色の目。そして口には、鉄をもかみ砕いてしまいそうな鋭く赤みがかった牙。何もかも昨日の通り。声も、姿も、目の虹彩も、昨日見たドラゴンとそっくりそのまま同じもの。


 わたしはいま、せっかく逃げた元凶と向かい合っている。


《あれからどんな術でエントリどもの手を逃れたのか不可解だったが……フハハハ、そうか。お前が手引きしていたのか。なるほど、逃げ切れるわけだ。ンフフ、良いのか? 見てしまった人間を逃がすことは禁忌のはずだが》


 口角を上げただけ。だけど鋭利な牙が生え揃う真っ赤な口は、わたしには凶暴すぎる笑みだった。おちょくるような声を聞かせなければ、どんな人だって食べられてしまうのだと感じるだろう。どうしても昨日の光景がフラッシュバックしてしまう。我を忘れるとはいかないまでも、わたしに恐怖を思い出させるには十分だった。


 ハルの忠告が正しかったことが今になって良く解る。生半可な気持ちでここに来ていたら、きっとわたしは醜態をさらしていたはずだ。覚悟を決めてきたはずなのに、それでもやっぱり恐怖は際限なく湧き上がってくる。


 と、


(大丈夫。そこに居て)


 真横になっていたハルが、耳元でそう呟いた。

 すぅっと、気持ちが軽くなったのが分かった。速かった鼓動が元に戻っていき、冷たかった肌が熱を取り戻すのが自分自身でも実感できた。深く息を吸う。いままでの呼吸がとても浅いものだったんだと今になって気が付いた。


 昨日今日の関係だというのに、どうしてここまで安心できるんだろう。ハルの言葉は、今まで聞いた、どんな状況、どんな言葉、よりもはるかに説得力があった。そうか、ハルが言うなら大丈夫だ。そうとさえ思えてしまった。


「冤罪であいつらに放り出すわけにもいかないだろ? リーナはあいつらの仲間じゃないから、何もしないでくれ」


 《ぬかせ。ここまで縛っておいて何かできるはずもなかろう》


 加えて、いま目の前のドラゴンの状況もわたしを落ち着かせるのに一役買っていると思う。

 その巨体は、無数の植物で拘束されていた。


 灰色と茶色が混ざったような色の硬そうな植物。それがまるで枷のようにドラゴンの首、手足、翼を地面に縫い付けている。絡みついている植物の本体である木が四本、天に向かって真っ直ぐに伸びているそれは、まるで楔を連想させる。


 時々、ドラゴンが煩わしそうに身体をくねらせる。だけど絡みついているそれらは、ドラゴンが動くことを許さず地面に組み伏せる。苛立たしそうなうなり声が上がる。


「傷の方は大丈夫?」


《問題など無い。放っておけばじきに治る》


 突き放すような、すこし苛立ちのこもる声。


「分かった。だけど一応見させるだけ見させてくれ」


 ここで待ってて――わたしに手ぶりでそう示してから、ハルがドラゴンに近づいていく。体に刻まれている無数の傷の中でも大きなものを選別して、ひとつひとつに黄色い液体を垂らしていく。


 ジュウゥゥ、と煙が上がる。見た目はかなり過激だけど、垂らした場所の傷は確かに小さくなっている。それは向こうも承知なんだろう。喉の奥を低く鳴らすものの、ハルを振り落とすようなことはしようとはしなかった。


 唐突に、ドラゴンが独り言ちる。


《生きにくい時代となった。我ら竜の生きる場所はもうあそこにはない》


「自然の摂理ってやつかな……。力場の場所も減ってきてるし、あと百年もしないうちに魔法使いも廃業かもなぁ」

 どうすっかなぁ、とハルが溜息を吐く。そのことが気に入らないとばかりに、ドラゴンが短く鼻を鳴らす。


「よし。これで多分オッケー。あと、数時間したら身体を動かせるくらいに植物たちが退いてくれるから、それまでは動かないで」


《…………》


 感謝の言葉はなかった。ふてぶてし気な表情を見せて大きく息を吐いただけだった。でもその行動に負の感情を感じることは無かった。多分、あれは了解とかそんな意味だ。何となくだけど、あの態度だけでこのドラゴンの性格がつかめたような気がした。


「しっかし、派手に暴れてくれたよなぁ。ボロボロじゃん」


 登っていた木の根から飛び降りる。そして周りを見て、今度はハルが溜息を吐いた。その視線をたどる。目に飛び込んできた光景だけで、ハルの言っている意味が全てわかった。


 地面に縫い付けられたドラゴンの、尻尾方向の先――その方向の木々がなぎ倒されている。あるものは根元から。あるものは幹の真ん中から。いちばん近い二本の巨大樹は、まるでその存在自体が邪魔だったと言わんばかりに徹底的に折られ、叩き潰されている。加えて木が真っ二つに折られてできた空白地帯が、一本の道となって霧の中に続いていた。


 めちゃくちゃにされた木々に目を向けながら、ぽつりとハルが呟いた。


「…………聞いたよ。細工してあったんだって?」


《結界だ。わたしが追跡できぬよう細工をしたのだろうさ》


 低く重い声とは吐かれた息は、純度百%の怒気だった。

 瞳孔は開いていて、爪は苛立たし気に地面に突き立てられている。


「確か、〝出口隠蔽〟と〝無限回廊〟の術式だったって聞いたけど」


《おかしな話だ。あの術式を扱える者であれば、ドラゴンにその程度の術式が効果もないことなど容易に想像できただろうに》


「で、魔法陣そのものを壊すために暴れた、と」


《造作もない。岩をかみ砕くよりもたやすいことだ》


「そうするにしてももっとさあ? 何とかするこっちの身にもなってくれよ……」


《侵入者を追い詰め、排除しようとしただけのこと。いったい我に何の落ち度がある》


「そういうとこだぞ、ドラゴンが嫌われるのって。凶暴なくせにプライドが無駄に高いってさ」


《ハッ! 元より好かれる気など毛頭ない。我が眼前に立ち、己の口でそう言えぬ奴らの愚見など塵芥にも劣る。こうなった原因も、元をたどれば貴様らの監視が杜撰だった所為であろうよ。それを棚に上げるとは……ンハハハハッ、愚かな連中どもだ》


 疲れたような口ぶりでハルが嫌みを飛ばす。だけどそれは、目の前のドラゴンには全く意に介さないものらしい。謝罪の代わりに返ってきたのは懺悔でも後悔でもなく、開き直りとあざけりの混ざった嘲笑だ。本気で、このドラゴンは自身が悪いとは毛ほども思っていないのだ。


 それでも、その言葉にはハルも思うところがあるらしい。少し目を伏せて、下ろしていた左手を握りしめる。


「……ごめんな。あいつらにここを荒させて」


 悔しそうにしているのは、ハルの性格ゆえだ。

 ハルと行動していて感じていたことだけれど、ハルは責任感がとても強い部類の人だと思う。受けた恩は絶対に返すという性格だ。それは、昨日の夜で否応なしに理解できた。


 ただペンダントを持っていたということだけなのに、自分の組織からわたしを逃がし、規則違反スレスレの裏技でわたしを助けてくれて今ここにいる。自分のことなんか隅に置いてわたしを守る、ということを実践してくれている。ハルは本質的に優しい人なのだ。


 だからなんだと思う。ハルには何の落ち度もないこの状況で負い目を感じているのは、きっと、自分にできることがあったかもしれないと感じているからだ。それは確信できる。


 だって、

 もしハルが利害関係だけで動く人だというのなら、あんなに悔しそうな顔はしない。


《……はらわたが煮えくり返る。表に出ず、影に隠れた畜生だけは許せぬ。だが、》


 少しの沈黙。深く息を吐いてドラゴンが口を開き、そこでまた言葉を切る。不思議に思って、ハルがドラゴンの顔へと目を向ける。

 少しだけ顔を背けて、ドラゴンが言葉を続けた。


《まあ過ぎたことだ。管理者でもない貴様が気に病む必要もあるまい》


 雷が鳴った時のアヒル――ハルの表情はその言葉が一番似合う。

 目を丸くして、自分にかけられた言葉に少しばかりフリーズしている。でもわたしだってそうだった。だって、何を隠そうその言葉をかけたのがドラゴン本人なのだから。


 いままで嫌みと自己肯定しかしてこなかったドラゴンの口から出た言葉だ。もしわたしが後ろを向いていたら、彼の言葉だとは絶対に信じない。このドラゴンの人物像(人間にもなっていたから間違いではないともう)が、少しだけ変わった。

「優しいんだな」はにかみながらハルがそう返す。その言葉には、返答はなかった。


「やっぱり、お前はそっちで行った方が友達出来ると思うぞ?」


《くどい。いい加減口を閉じろ》


 ああ、多分これは照れ隠しだ。


「おーい。世間話もいいけド、目的を忘れて帰ったらおねーさん怒るからナ」


 突然、後ろから新しい声が入ってきた。


「やっほ、お待たセ。他にほころびが無いか調べてたら遅くなっタ」


 ポンと、わたしの肩が叩かれる。誰なのかは見なくても分かった。

 少し鼻にかかったような独特の声、楽しそうでふざけているような口調。


 振り返る。ニシシと笑う小柄な身体がそこにいた。


「あった?」


「んにゃ、無かっタ。昨日総出で塞いだから、あったらこまるんだけド」


 そこで言葉を切って、アルマは周りを見渡す。必然的に、しばりつけられたドラゴンの向こうに開いている一本道へと視線は向く。


「それにしてモ……うわぁ、結構ひどくやったナ」


 どうやら、最初に思うことはみんな同じらしい。

 我関せずと目をつむるドラゴンをしり目に、アルマがハルに近づいて隣に並ぶ。


「それで、ハルのお望みの樹は見つかったのカ?」


「まだ。結構遠くまでやられてそうだから、それなりに大きい奴だったらいいんだけど……」


「じゃあ、二手で探すって方向デ」


「ほーい」


 そしてひと言ふた言ことばを交わして、ふたりは別方向へと歩き出した。

 わたしを置き去りにして。


「あれ? ねえ、わたしは?」


「ん? ああ。そこに居てよ」


「正気………っ!?」


 とっさにハルに尋ねる。返ってきた言葉がそれだった。

 思わずそう返してしまう。


「大丈夫だって。ここにいれば変な奴らは寄ってこないから」


「いや、そうかもしれないけど!」


 違う、違う、そうじゃない。

 そんなことは心配してない。


 確かにここにいれば危険なことはないと思う。別にそのことを疑うわけじゃない。危険だからとかそういうことじゃなくて、ただこの場所に目の前のドラゴンと二人でいるのが気まずすぎる。

 わたしたちのやり取りを聞いて振り向いたアルマに視線を送る。送信する文言はもちろんS・O・Sだ。多分、今のわたしは涙目だ。


「? ……!」


 視線を送ること数秒。アルマはわたしのメッセージを受け取ってくれたみたいだ。

 神妙な顔をして頷き、右手を伸ばして胸のあたりで止める。ちょうど拳を突き出す感じだ。

 そしてにっこり笑って、


 ―― が・ん・ば・れ♪ ――


 サムズアップ。


「…………ええぇ……」


 いままで見た中で一番幸せそうな笑みだった。


「それじゃ、しばらくカンテラの見張りよろしくー」


「あっ!? ちょっと待っ、!」


 我に返った時点で時すでに遅し。

 手を振りながら、ハルは霧の中に姿を消した(ちなみに、アルマはとっくにいなくなっていた)。

 そしてこの場に、わたしとドラゴンだけが残った。


「…………」


《………………》


 とりあえず、ドラゴンの方を向く。


 ――こ、こっちを見てる……。


 エメラルドグリーンの双眼が、わたしをじっと見つめている。だけど何か言葉を発するというわけでもない。ただじっとわたしに視線を向けるだけ。


 無機質な視線だ。何を考えているのか全く読めない。わたしに理解できるのは、わたしを見つめるのは恐ろしく巨大な怪物だということ、わたしなんか簡単に捻りつぶされてしまうということ。


 ねこの前にいるネズミは、きっとわたしみたいな感情を抱くんだろう。

 唐突に、ドラゴンが言葉を発した。


《…………立ってばかりでは疲れるだろう。座ったらどうだ》


「あ、はい。じゃあ、お言葉に甘えて……」


 まさかの座れという指示。そう言ってくれたということは、わたしを食べるつもりではないんだと思う――その可能性に賭けて、ドラゴンの目の前に少し離れて腰を下ろす。ちょうど対面する形だ。


「………………」


《………………………》


 ……気まずい。


 ――な、何か話題を……っ。


「素敵な、ところですね」


 言ったそばから後悔した。


《……やけに唐突だ。なぜそう思う》


 だけど、思いのほか受けは良かった。片目を潜め、ドラゴンはそう返してくる。

 色々考えてももう遅い。そう思ってわたしも素直に答えることにした。


「声が聞こえるんです。ここは薄暗いですが、声は楽しそうなので」


 嘘偽りの無い、わたしが感じたままの感想だ。

 マナが知覚できるようになったわたしの眼は、基本的にマナ体のものなら何でも見えるみたいだ。それはつまり、身体の一部(又はほとんど)がマナで構築されている妖精たちも見えるようになったということ。この眼になってようやく、今までわたしに聞こえていた声が彼女たちのものなんだということを知った。


 彼女たち妖精の声は、音というよりも念波に近いというのがわたしの捉え方だ。風の音や人の声、その他の雑音にかき消されることがなく直接頭の中に響いてくる。しかも声にはひとつひとつ確かに個体差があって、誰がどんなことをしゃべっているのかちゃんと聞き取ることができる。


 いまここで話しているのは、たぶん十二人。まだ感覚の制御ができないわたしには、彼女たち全員の声が聞こえている。

 その全員が、楽しそうに笑っているのだ。


 とても気持ちよさそうに木々の間を飛び回っている。霧の向こうにいるから姿は分からないけれど、彼女たちの感情はわたしにも伝わってくる。

 わたしがそう話すと、ドラゴンは少しだけ意外そうに目を開いていた。


《この一帯は命が特別満ち満ちている。精霊や妖精がわたし同様住処に選ぶのは自明ともいえよう》


 言葉を切った。目を向けると、ドラゴンは遠くを見つめるように斜め上を向いていた。

 少しだけ目を細めて、何かを思い出すように。


《しかし狭くなった。我ら竜族が王だった時代は、どこもかしこも過ごしやすく、自由に空を飛んだものだ……》


 回想していたのは、遥か昔、彼らが空を支配していた時代の風景。

 彼は、いったいどんな風景を見ているんだろう。


 そう思った時、森の中だというのに一陣の風が吹き抜けた。


 目を開けると、わたしは空を飛んでいた。


 視界の両端には黒を少し混ぜた暗い青の翼。ドラゴンの翼だ。目を前に向ければ、真っ青な世界が広がっていた。

 いまよりももっと澄んだ空気で空は青く、雲は真っ白。透き通るような空気を翼が裂いて、巨体が縦横無尽に空を飛びまわる。


 山を越えて、海に出て、足でしぶきを作るくらいの低空飛行。しぶきは白い泡になって、空よりも濃い海の青に雲より白い線を一筋描く。水面の向こうではイルカたちが泳いで、まるで彼らの仲間になったように錯覚してしまう。


 水平線を越えて、島の影が見えなくなったところで引き返す。島に近づくにつれてマナの濃度が濃くなって、翼が受ける揚力が増していく。水平線の向こうから山が姿を現す。大地は今よりももっと緑に満ち満ちていて、そこかしこで生命の源が凝縮した妖精たちが踊っている。


 ああ、なんてきれいな世界なんだろう。

 こんなにきれいな世界が、昔はずっと向こうまで広がっていたなんて。


 前方に雲。だけどそんなものはドラゴンにとって関係ない。減速なんかせずに真っ白な世界に突入する。蒸気の風が目に叩きつけられ、思わず視界を閉じる――、


「…………っ。…………?」


 瞬き一回。


 たったそれだけで、次に映ったのは元の森の中だ。


 ――今の景色って……。


 わたしの、ただの想像だろうか。それとも、目の前の彼の記憶なのだろうか。

 もし後者だとしたら……、


「あ、あの……人間のわたしが言っても腹が立つだけかもしれませんが、」


《…………。》


「すみません。あなた達の住む場所を奪ってしまって」


 口を開いた理由は、強迫観念に近い。


 した方が良いとか、そんな計画じみたものじゃない。

 するべきだと思った。しなくちゃいけないと思った。今ここにいるわたしが言わなくちゃと下から何かにつつかれた。


 だって、

 もしいま見た世界が彼の記憶なら、あのきれいな世界を壊してしまったのは他でもない、わたしたち人間なのだから。


《……………………》


 すこし、目を丸くしたのが分かった。

 同時に、クツクツと低い声で唸るように笑われた。

 堪えるような笑い声が、木々を揺さぶるほどの大笑いになるまで大して時間はかからなかった。


《ハッ、フハハハッ、お前が謝るか。人間というだけで何の責任も無いに等しいお前が! ンフフフ、面白い娘だ。分を弁えている。だが勘違いをするでない。ヒトの娘よ》


 ひとしきり笑った後、彼はわたしに語り掛けてきた。さっきまでとはずいぶん違う口調――傍若無人な話し方ではなく、大人が子供を諭すような低くて、でも穏やかなもの。


《わたしは何も、いまの人間に憤っているわけではない。自然の摂理でヒトが選ばれた、生存競争に我々は負けた、ただそれだけのこと。あ奴らが隔離されたこの場所へと強引に扉を繋ぎ、踏み荒らしたことに思うところがあるだけだ》


 拘束が緩んできた首が、見渡すようにゆっくりと左右に振られる。最終的に首が向いたのは、不自然に渦を巻いている霧の方向だ。


《この場所は昔から境界が緩くてな。しばしば人間の世界とつながってしまう。無論、こちらの世界同士をつなぐこともある。此度はそれを利用されたのだろうよ》


「さっきの話、ですよね。魔術師ですか?」


 もちろん、わたしと同じ立場にいる魔術師たちのことじゃない。彼らの組織から外れ、独自の徒党を組んでいる者たちのことだ。水面下深くに潜り込んで、今は禁じられている黒魔術や悪魔の召喚儀式についての研究を重ねている者たちのことだ。もちろん、人の法も、魔術師たちの定めた法も守っていない。〝はぐれ魔術師〟もしくは〝咎人〟の意を込めて〝クリミナル〟と呼ばれている。

 彼らを見分けるのはそう難しくないらしい。ハルが言うには、悪魔の力を憑依させるために身体には複雑怪奇な刺青が刻まれているとのこと。


 だけど、彼はわたしの言葉を首を振ることで否定した。


《あ奴らではない。この地の魔術師たちが基礎もなしにあのような術式を組めるはずもない。本当の計画者はおそらくもっと近くの者だ》


「じゃあ……内通者が……」


《あくまで可能性の話だ。だが、魔法使いどもも一枚岩というわけではない。あながち的外れというわけでもないだろうよ。魔法を使えぬ魔術師たちが、自力で侵入するとも考えにくい……どちらにしても、こちらの世界に生きるお前には関係の無いことだがね。故に気に留める必要はない》


 この話はここでおしまい。そう言わんばかりに、彼は目を閉じて頭を地面につけた。わたしにとってはこれでお終いという話でもないけれど、きっとこれ以上わたしが訊いても彼は答えてくれない。


《ああ、そう言えば》


 と唐突に呟き、ドラゴンが薄眼を開けた。


《わたしもひとつ気になっていたことがある。お前のことだ。アレのことをどう思っている?》


「『アレ』? ……ハルのことですか?」


《無論。他に誰がいる》


「どう思っている……ですか……」


《アレはつい一年前に現れた。歳は十四になると言っていたか。だが、小童こわっぱ にしては魔法の扱いが長けていた。気にはなったが、本質的なところはいつもはぐらかす》


「確かに、そうかもしれません。わたしもハルのことを何も知らないので」


 やっぱり、わたしの抱いていた違和感は当たっていた。

 ハルは、自分のことを頑なにしゃべらない。普通に話していたら喋ってしまうようなわたし生活のちょっとしたことだって喋らない。まるで、話したくないと言外に伝えられているみたいだった。


 避けている、そのことに気が付いてはいたからわたしもできるだけハル個人の話題に行かないようには気を付けていた。そう感じていたわたしの勘は間違ってはいなかったみたいだ。


 自分のことを話すのが恥ずかしいとか、そう言った感情ではないような気がする。恥ずかしいというよりも、話すことを恐れているようなそんな気がする。


「でも、意外です。あなたがハルに興味を持っているなんて」


《興味などない。ただ、昔見た人間の姿が重なっただけだ》


「昔見た人……」


 不思議な男だったよ、とドラゴンが息を吐く。


《アレよりもよぽど年上だった。だが、まとう雰囲気はそっくりだ。何かとてつもないことを企んでいるような……何とも行け好かぬ雰囲気だった》


「その人とは、仲が良かったんですか?」


《良くはない。だが、悪くはなかった。機を見ては、わたしの元に現れて酒を飲む男だった。結局、決心がついたと言って二度と現れなくなったが……もう五百年も前の話だ》


 言葉では否定している。でも言葉以上に、その人と彼は仲が良かったみたいだ。

 昔話をするその口は、わずかに口角が持ち上がっている。目を薄く開いて、穏やかな口ぶりで話す。そして、現れなくなったという部分で少しだけ声のトーンが下がる。きっと、さみしかったはずだ。


「ぷ、ふふ」


 堪えきれずに笑いが漏れる。彼は怪訝な顔をしてわたしに突っかかってきた。

 でも、わたしには笑わずにはいられなかった。面白いとか滑稽とかそういう意味じゃなく、とても微笑ましかったから。


 確信した。このドラゴンは横暴でも傍若無人でもない。それが分かってしまったら、彼言動ひとつひとつが微笑ましくてならなかった。


《……なぜ笑う》


「いえ。あなたはやっぱり、優しい方だと思います」


 だって、そうでもなければそんなに優しそうに語るはずがないのだもの。


《……………………》


 何百歳も年上のはずなのに、今だけは彼の感情が手に取るように分かった。

 お互いに名前も名乗っていない、そんな稀薄以上の関係なのに。どうしてだろう、いまこの瞬間だけは、信頼する気心の知れた友人と話しているようなそんな錯覚を抱いてしまった。


 その証拠に、次の言葉はきっとひねくれた言葉だ。


《竜は気まぐれだ。次にその言葉を吐いたら命の保証はできぬ》


「はい。気を付けます」


 その時、


「――――?」


 座り込んでいるわたしの服の裾を、何かが引っ張ったような気がした。

 右の袖口だ。その方向に視線を向ける。


《―――――。……!》


 そこには、キノコがいた。


 緑色に光る水玉キノコ。わたしの手くらいの大きさで、短い腕と足が生えたキノコ――それがわたしの服を掴んで、わたしの顔を見上げていた。

 口はない。くりくりとしたガラスみたいな小さな瞳が、わたしに何かを訴えかけている。


《ほう、これは珍しい》


 それに気が付いたドラゴンが、少し上ずったような口ぶりでそう呟く。キノコがドラゴンの方を向き、器用に体を折り曲げ深々とお辞儀をした。そしてわたしを一瞥すると、今度は唐突に走り出す。


「あっ……えぇ?」


 何一つ、あのキノコの意図が理解できなくて困惑する。

 不意に、小さな足で精一杯走っていたキノコが立ち止まる。そしてわたしたちの方を向き、短い手を突き出して何度か上に曲げる。手のひら(に見える場所)を上にして手首を上に曲げていると言うことはつまり、こっちに来い、ということだろうか。


「そっちに何かあるの?」


 コクンと、キノコが頷く。こんどはわたしのことを待たずに、霧の向こうへと姿をくらませる。


「消えた……」


《あれはこの森の見張り番だ。あの向こうに何かあるのだろう。行ってやるといい》


「でも、……ぅわぷっ!?」


 フシューッ! っと、ミラージュ・ドラゴンが荒い鼻息をわたしにぶつけた。


《これでお前の位置は分かる。さあ行け。あれの行動にはすべて意味がある。妖精は厚意を無下にすると怒るぞ》


 もう一度キノコが走って行った方向に目を向ける。すると、律義に立ち止まってわたしを待っていた。


「ついて行けばいいの?」


 コクリ、キノコがまた頷く。そしてその場所に座り込む。わたしが行くまで動かないつもりだろうか。

 目をつむって、五秒だけ考える。この場合、どうするのが正解なのか。


 一、動かないでハルたちを待つ。

 二、ドラゴンの言葉を信じて、キノコの妖精について行く。


 ………。

 ……………………、

 ………………。

 ………………………………。


「――――分かった、もう少しだけ待って。ついて行くから」


 正解はきっと前者だ。

 でも、行けばきっと何かがあるような気がする。


「わたし、行ってみます」


《そうするがいい。ドラゴンは嘘をつかぬ》


「色々話してくれてありがとうございました――……えっと、」


《ウィグール》


「……!」


《わたしの名だ。お前なら知っていても悪さはせんだろう。片隅にでも覚えておくといい》


 少しつまらなそうな声色で名前が明かされる。

 だけどわたしを見る目は出会った時より少し優しかった。


 ちなみに、わたしも名乗ろうとして拒否されたのはまた別の話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る