第1章ー11 Ancient Lost beasts  (上)

 靄の中は、水に潜っているみたいだった。

 柔らかくて、でも確かにそこにあるねっとりとした流体が、身体にまとわりついて熱い頬を撫でつけているということだけは分かった。音も、身体の重さも感じない、上下の無い空間を歩いているような不思議な感覚だ。


 だけどそれは一瞬。もう一歩、反対の足を前に踏み出すと、身体にまとわりつく冷たいものが一気に後ろへと逃げて行った。


 身体が急に軽くなる。

 途端に感覚が戻ってくる。まず聴覚、次に触覚、嗅覚、味覚、温感と順番に戻ってくるその瞬間が鳥肌の立つくらいはっきり分かった。


 ブーツ越しに、軟草を踏む感触が伝わる。少し水気を含んだ土が、わたしの体重で音を立てる。虫が周りで鳴いている。鳥の鳴き声だろうか、遠くからは、ヒューイという澄んだ高い声が聞こえる。


 空気はさっきより少し暖かい。湿っていて、いかにも森の中の空気そのものだ。大きく息を吸う。鼻から入ってきた空気は、わたしの知っているものよりも少しだけ甘い風味がした。


「到着。目、開けて見なヨ」


 軽く背中を叩かれる。アルマの言葉で、わたしは恐る恐る目を開ける。


「わぁ……!」


 言葉が出なかった。出たのはため息。


 わたしたちがいたのは、深い縦穴の中だった。地面がくり抜かれたみたいに、岩壁はきれいな円を描いて一周している。わたしたちがいる穴の直径はたぶん数百メートル。ところどころに穴が開いていて、そこから見たことない生き物が顔を出しいたり飛び立ったりしている。


 異様に広い穴の中に、森がすっぽりと収まっているような印象だ。ずっと向こうから、気球が姿を現して昇って行った。いま立っているここより下にも、まだ穴は続いているらしい。


「不思議な場所だロ? ここは有翼種の幻獣や小型の奴らがいるところなんだ。穴のあちこちに引き出しみたいな感じで地面が突き出してるんだヨ。都合がいいからあたしたちの集落もここにあル。なんでこんな場所ができたかまでは知らないけどサ」


 ごうっ! っと、アルマの言葉を証明するかのように穴の下から巨大な影が上へとすごいスピードで上昇していった。わたしたちに当たる陽光が、その巨体で遮られてしまうくらいだ。

 ラベンダー色の体だった。コウモリのような翼をはためかせ、すごい速さで穴の外に飛びだしていった。


「おっきい」


「今のはラベンダー・グルトン。あんなナリしてるけど、肉食じゃなくて鉱物を食べて育つんダ。この穴の最下層にいるヨ」


「すごい。……こんな場所、来たことない」


「そうだロ? 気に入ってもらえたならあたしも嬉しいヨ」


「でも、どうしてだろう。どこかで見た気がする」


 妖精の国は、見たことない世界だ。あり得ないような場所に、見たことない生き物たちが棲んでいる。地面の奥深くに魔法が使える種族たちが棲んでいるなんて本気で考えている人なんかほとんどいないはずだ。わたしの、人間の想像外の世界だ。


 だけどどうしてなのか、似たような場所を知っているような気がする。地下奥深くに謎の場所があって、わたしたちが知らない生物たちが生きていて、魔法みたいなことが平然と起こる世界。


 ――ああ、そっか。〝地底旅行〟だ。


 思い出した。わたしの記憶は、「地底旅行」のものだ。あまり見たことが無い世界だったから、一体どうやって思いついたんだろうと感心しながら何度も読みこんで想像に浸っていた記憶がある。そうか、だから見覚えがあったんだ。

もしかしたら、「地底旅行」や「海底二万マイル」を書いたジュール・ガブリエル・ヴェルヌも、わたしと同じようにこの世界に迷い込んでしまったことがあるのかもしれない。


 が、そんなことより。


「あれ? そう言えばハルは?」


 やっと、ようやく、今になって。

 今までずっと一緒にいた黒髪の相棒がこの場所にいないことにわたしは気が付いた。怪訝そうに目を細め、アルマが辺りを見渡す。


「そーいえばいないナ。どこ行ったんダ」


「……ここ、だよ」


 アルマの独り言に、生気の無いかすれ切った声が頭上から降ってきた。わたしたちの立っているちょうど後ろからになる。振り向くと、後ろはちょっとした崖のようになっていた。わたしの身長の倍くらいで、何もなしに登るのははっきり言って無理な場所だ。


 そこに、ハルはいた。

 巨大な犬に咥えられて。


「うわぁ!? で、でっか!」

「あー、そいつに掴まってたのカ」


 思わず素の声が出た。対してアルマは、なぜか納得したような表情で気の毒そうに笑っていた。

 ハルを咥えているのは、黒緑の毛におおわれた犬だ。牛みたいに巨大な図体に、アンバランスな丸いしっぽが可愛らしく揺れている。ハルを口にくわえてはいるけれど、食べるというつもりではないみたいだ。くりくりとした目でわたしたちを見下ろして、時々ハルを口の中で舐め回す。いったい何を考えているんだろう。


 のそりと、唐突に巨体を揺らして犬が起き上がった。咥えられたハルが欲し肉みたいにぶらんぶらん揺れる。そのまま一、二歩前に進んで、崖を飛び降りた。


 音もなく、わたしたちの目の前に着地する。だけどそれ以上は何をするわけでもなく、ただじっとわたしたちを見つめている。鼻が少しだけ動いているから、臭いは嗅いでいるみたいだ。ちなみに、飛び降りたとき「ぐえぇ!?」という、そこそこ苦しそうなうめき声がした。

 犬が口を開く。ベチャっというヌメリ気たっぷりの音を立ててハルが地面に落下した。今度は、「おぐぅ」という汚い声が聞こえた。


 ハル――沈黙。


「災難だナ」


 しゃがみ込んで、アルマがそう話しかけた。芋虫みたいにハルが身体をくねらせて縮まる。たっぷりと服にまとわりついた粘っこいアレで、身体中がテラテラと光を反射している……触りたくない。


「それにしても、お前はどうしてでっかいのには好かれるんダ?」


「知らないよ……他にはすっげぇ嫌われてるのに」


 産まれたての小鹿みたいにおぼつかない足取りでハルが立ち上がる。膝を笑わせながらジャケットを脱いで、草の上に広げて落とす。杖を取り出して何か唱えた。すると、杖の先から風が吹き出し手草が揺れる。わたしの顔が一気に熱くなった。なるほど、魔法で熱風を出しているんだ。


 そして相変わらず、目の前の巨大犬はわたしたちのことを見つめている。

 しっぽを振るわけでもなく、威嚇するわけでもなく、特注サイズのガラス玉をはめ込んだような瞳にわたしたちを映すだけだ。見つめ合うこと、三秒、五秒、十秒……一向に何の感情も読み取れない。怒っているのだろうか。それともただ単に好奇心がうずいただけだろうか。


 と、


《…………。》


 ピクピクっと鼻が動き、


《………………バフっ》


 鳴いた。おじいさんが咳をしたみたいに。


「おっ、大丈夫みたいだナ。こいつは珍しいゾ」


 それを見て、アルマが口笛を鳴らした。


「この子は?」


「…………クー・シー、この森の番犬だよ。名前はバフ」


 わたしの質問に答えたのは、げっそりとした表情をしたハルだった。

 乾いて白くなったジャケットを腰に巻いている。下のシャツもヨレヨレだった。袖口を鼻に当てた後、うへぇ、と顔をしかめる。なぜだろう、一気に十歳くらい老けたように見える。


「えーっと、大丈夫?」


「いいよ、もう。いつものことだし……で? 直す場所はどこ」


「竜谷のもっと先。〝ミラージュ〟の縄張りだよ」


「えー……めちゃくちゃ遠くじゃん。俺ヤだよ、あんなとこまで行くの」


「歩くなんて誰も言ってないだロ。いま呼ぶからちょっと待ってテ」


 露骨に顔をしかめて泣き言をこぼすハル。それを見てあきれ顔で言い返すアルマ。首元から服の中に手を入れて、紐のついた何かを引っ張り出す。


 笛だ。風船みたいに膨らんだ、握りこぶしくらいの大きさをした不思議な形の笛。それを縁に持って行き、思いっきり息を吹き込んだ。

 ピュィィーーィイっ! と、聞いたことない澄んだ音が辺りに響いた。まるで生き物の鳴き声にも聞こえる不思議な音。穴の壁に反響して、ゥワンゥワンという揺らぎを立てる。


 すると、


 ―― ヒュゥゥーーーーィ! ――


 最初は、木霊かと思った。それくらいそっくりだった。


 だけど違う。吹かれた笛の音よりも、それはずっと長く穴の中で響いた。しかも音は刻々と大きくなっていく。ああそうか、その笛はあの動物の鳴き声を真似たものなんだ――そう気が付くのに大して時間はいらなかった。


 笛を吹いてから、約一分。


 わたしたちの頭上を、巨大な影が覆った。同時に突風が吹き、とんでもない風圧で草木を地面に押さえつける。風切り音に混ざって聞こえる羽ばたきの音。地面が揺れるほどの轟音を立てて、風が一気に止んだ。

 目を開ける。ずっと風を受けてきた目が乾いてシバシバする。瞬きをする、一回、二回、三回。



 目に入ったのは、視界いっぱいの



 それしか見えなかったのは、わたしの近くにそれがいたからじゃない。視界に収まらないくらい巨大だったからだ。妖精犬のバフなんか比ではないくらい、大きな怪鳥。羽だけで一〇メートルは軽く超える規格外の大きさだ。猛禽類特有の丸い眼、鋭いくちばし。地面は体重に耐え切れなくて爪が埋まっている。 


 そして後ろには二回りくらい小さいものがもう一羽、警戒するように隠れながらわたしたちを観察している。多分親子なんだろう。大きい方がわたしを品定めするように丸い眼を細めている。


 ああ、なるほど。蛇に睨まれた蛙はこんな気持ちだったんだ――パニックになったわたしの頭は、現実と逃避をするみたいにそんなことを考えていた。それも、何か言いたげに怪鳥がうなった時点で現実に叩き落されたけれど。


「………………!? …………っ! ……‼」


 指をさす。何か言おうとして開けたはずの口は、ぱくぱくと不格好に閉じたり開いたりするだけ。わたしにも何を言おうとしたのか覚えていない。バフを見た時はまだ余裕があった。大きいと言っても犬だったから。だけど今度は、もう声を上げることすらできなかった。


 だけどそれはわたしだけだったみたいだ。ハルとアルマは、何事もないようにその怪鳥たちに近づいていく。鳥の方も、ハルとアルマにはなぜか懐いているみたいだった。


「久しぶり。元気だったか? ヒューイ、カヌレ」


「呼び出してごめんナ、後でとびっきりの肉をやるかラ」


 近づくハルに、ヒューイと呼ばれた大きい方の怪鳥がくちばしをこすりつける。くちばしを抱えてとんとんと優しく叩いてハルがさすると気持ちよさそうにヒューイが目を細める。鼻から出た息がハルの服をはためかせる。アルマはカヌレと呼んだ小さな方を撫でながら、口を開けさせて中を覗いている。カヌレも無抵抗に、アルマに体重を預けている。


 傍から見れば、よれよれの格好で怪鳥に倒れかかる少年と、頭を喰われかけている少女、その真横でじっと二人を見つめる巨大な犬の絵。

 一言で言うならカオス。一昨日までのわたしなら、これが現実なんて絶対に信用はしない。


「こいつらはシームルグ。ペルシアのアルボルズ山脈に住んでいる幻獣だヨ。ハンターたちに駆られそうになってたのをあたしたちがこっちに連れてきたんダ」


 カヌレの口の中から顔を出して、アルマがわたしを見ながら笑ってそう言った。それに同意するみたいに、またヒューイがこっちを見て低く鳴いた。今度は威嚇じゃないと分かったけれど、身体が反射的に跳ねてしまう。


 わたしの反応を見て、ケタケタとアルマがまた笑った。


「そんなに警戒しなくてダイジョーブだっテ。こいつはあたしたちの言葉を理解できるくらい賢いシ、優しい人を見分けられるんダ。いま威嚇されてないならもう危険はないヨ。な? ヒューイ」


 くちばしに抱き着いていたハルも、同意するみたいに頷く。本当に言葉を理解しているのか、話を振られたヒューイはまた短く鳴いて、今度は頭を地面につけて腹ばいになった。羽は畳んで、そう簡単に広げられないようにしてくれている。それを見て、カヌレも真似をしてうつぶせになった。


 ほら、安心して。わたしたちは何もしないから――そう言っている気がした。


「リーナもこっちに来なよ。ヒューイが触らせてくれるってさ」


 ハルが手招きをする。一歩、二歩、恐る恐るだがヒューイに近づく。

 近づくと、やっぱりヒューイは巨大だ。ワシをベースにして他の鳥類をいくつか混ぜたような体は、色んな鳥の特徴を持っている。特に羽毛が顕著だ。ワシ特有の固いそれじゃなくて、フクロウや他の鳥みたいに真っ白で柔らかそうに見える。


「ほら、ここ。胸のあたりが一番柔らかいんだ」


 そう言って、ハルはうつぶせになって見えているヒューイの胸の羽毛を触る。

 ハルの言った通り、わたしが感じた通り、ヒューイは何もしなかった。ただわたしを一瞥して、ゆっくりと目を閉じただけ。身じろぎも、鳴きもしない。アルマがヒューイに登って何かを始めても、全く反応はしなかった。されるがままに、身体に回るロープを受け入れている。


 わたしも手を伸ばす。やっぱり、ヒューイは何もしない。

 羽毛に手をうずめる。


「……わぁ」


 思わずため息が漏れた。それくらい心地よかった。

 羽毛は綿より柔らかくて、わたしの手を優しく包み込んでくれる。たっぷり熱が溜められていて、羽毛の中は暖炉の前みたいに熱いくらいあったかい。暖炉の前で毛布にくるまっているような気持になる。呼吸に呼応してゆっくり膨らんだり縮んだりを繰り返す羽毛の動きが、言い様のない安心感を与えてくれる。


 顔までうずめたい。この中に飛び込みたい。何時間でもこの中にいたい……。


 気が付くと、ヒューイたちに抱いていた恐怖心はすっかりなくなっていた。


「これに乗っていくの?」


「うん、乗るならこいつがいちばんいいんダ。速いし、頭もいいシ」


「ふーん……っわ! わわ!?」


 突然、ヒューイが頭をもたげる。そしてわたしにくちばしを押し付けて、お腹の下に潜り込ませる。ちょうど、くちばしの上にわたしが乗せられてる状態だ。


 そのまま、ヒューイは頭を持ち上げた。くちばしに乗せられているわたしだって、必然的に持ち上がる。グンっと、一気に視界が十数メートル持ち上がった。地面が遠い。「わわっ!?」という声が出てしまった。高いところがダメというわけじゃないけれど、やっぱりいきなりこうなるとかなり驚いてしまう。


 落ちないようにくちばしに掴まっていると、ヒューイが頭を回して首の後ろにくちばしを持って行った。そこでわたしを落とす。首から大きな背中に向かって滑り台の要領でわたしは落ちて行った。ちょうど羽の付け根辺りで止まった。この間、わたしの意志は一切無視。


 ――もう、どうにでもなれ……。


 仰向けになりながら、投げやりに心の中でそうつぶやいた。


「ナ? 結構乗り心地良いだロ?」


「……うん」


 覗き込むようにして、いつの間にかアルマがヒューイの上に乗っていた。足元を見ると、ヒューイの背中には鞍のようなものが付いていた。なるほど、さっきカヌレとヒューイによじ登っていたのはそういうことだったのか。


「それじゃあここに座っテ。紐で身体を縛れば落ちないかラ」


 アルマが据わった後ろに、わたしがしがみつくように座る。ちょうど、わたしの中にアルマがすっぽりと収まってしまうような座り位置だ。アルマの柔らかくて小さい体の感触がダイレクトに伝わる。真っ赤な髪からは、嗅いだことのないハーブのような香りがした。


「あ、そう言えばハルは?」


「ハルはあっチ。カヌレのとこロ」


 下を覗き込む。カヌレだって、小さいと言ってもひと一人くらいは軽く乗せられるくらい巨大だ。その鞍を付けていない広い背中にハルが乗っていた。


 ハルと目が合う。大丈夫だと言わんばかりに、わたしに向かって親指を立てた。なんだか目がキラキラしている。

 わたしの心臓も、ばくばくと弾けんばかりになっていた。これは恐怖じゃない。ドラゴンと会ったあの夜に感じた感情と同じ。新しい本を読み始めたあの時と同じ気持ち。


 駆けだしたいくらいの高揚感と、未知の世界への興味と、抑えがたい興奮だ。


「こいつをかぶってゴーグル付けて、結構風が強いかラ。それじゃあ飛ぶよー、捕まっテ」


 言うが否や、


 ぐんっ、と視界が持ち上がる。ヒューイが立ち上がったんだ、そう気が付いた時には金の混ざった白銀の翼が左右いっぱいに開いていた。


《ヒュゥゥゥ――――ィッ!》


 透き通る笛の音のような鳴き声が、空気をビリビリトとどこまでも揺さぶった。

 もう一度、身体が持ち上がる感覚。一瞬だけ体重が倍になったような負荷が身体にかかる。だけどそれもほんの一呼吸の間だった。とっさにつむってしまっていた目を開けると、ちょうどヒューイが穴から抜け出し、陽光が直接わたしへと照り付けた。


 ぐんぐんと高度が上がる。すごい勢いで風が前から後ろに流れている。とんでもない速さで進んでいるんだということくらいは視界の隅に入る木々の様子ですぐに分かった。それなのに、わたしたちを乗せて飛ぶヒューイの体は全くと言っていいほど揺れない。骨と筋肉が動いていることだけが触れている足から直接伝わる。


 穴の外はどこまでも続く森だった。雲の近くまで登ったヒューイの背中からは、地平線の上に乗っかる山脈が見える。ぐるりと森を囲むみたいに円を描いてどの方向にも山があった。不思議な場所だ。いったいここはイギリスのどこなんだろう。


「少しくらいは気分も晴れターっ?」


 風切り音に混ざって、アルマがわたしにそう言ったのが聞こえた。


「? それって、どういう」


「見ててすぐわかったヨ。結構思いつめたような顔してたかラ」


「……そっか。お見通しだったんだ」


「まあね、あたしだってダテに人を見ては無いかラ。その人の中身くらいはすぐ分かるヨ」


 ニカッと、ゴーグルをつけたアルマが笑う。

 思いつめていたという内容は分かる……というより一つしかない。さっき薬屋で会ったサラさんのことだ。体が動かなくなっていくという、わたしにはどうしようもできない病気。


 命のリミットが確かにあって、それ以上生きることはできないというあんまりにも理不尽で悲しい運命が、わたしの心の中でぐるぐると渦を巻いていたのだ。考えないようにしていたのに、やっぱり心のどこかで考えてしまっていたらしい。他人のはずのアルマですら読み取れるということはきっとそういうことなのだ。


「実は、」


 このまま心の奥底にしまっていても良いことは何も無いような気がする。そう思って、わたしは悪間に話すことにした。彼女の病気のこと、幼い娘がいること、生きられるリミットのこと。


 わたしにはどうすることもできないんだろうか。こっちの世界の医学でもどうにもできないんだろうか。残された二人は、特にミシェルは大丈夫なんだろうか。ミシェルよりも残していく彼女の方が辛いかもしれないのに、どうしてあんなに朗らかに笑えるんだろう。それに、あの人がわたしに託したかったことは一体何なのだろう……。


 こんな話方をするのは久しぶりだった。いつもは結論から話してその後に理由を説明するものだから、こんなに要領の無い話方をするのは本当に何年ぶりなのだろう。思いついたことから話して、その事々にわたしの主観と感想が混ざっていて、話し方としてはゼロ点落第レベルのもの。


 アルマは、黙って前を向きながらも時折頷いてくれた。一度も口をはさむことなく、こんな拙いわたしの話を真剣に聞いてくれた。


「なるほどねぇ、不治の病カ」


 アルマが口を開いたのは、わたしが話し終えてしばらくたってからだった。


「どうすればいいのか分からなくて」


「やっぱり、リーナはやさしいヨ。あたしが思ってた通りだダ」


「そんなことない。わたしは結構冷たい方だと思うけど」


「そんなはずなイ。自分のことしか考えないなら、初対面の人のこと考えて悩んだりなんかしなヨ。リーナみたいな女の子、あたしは好きだナ」


 否定したというわたしを、そう言ってアルマが否定し返した。そして、その話のことだけド、と言葉を続ける。


「ハッキリ言っておくけど、不治の病が完治することはまずなイ。少なくとも今の魔法の力じゃ無理ダ。だから、どうしたら治るかなんてことは考えない方がいいヨ。どうせ何もできないんだから考えるだけ無駄だシ。だったら、どうやったら〝治せるか〟じゃなくテ、どうやったら〝喜んで〟もらえるかってことを考える方が良いとあたしは思ウ」


「喜んで、もらう……」


「あたしたちエルフは人間と価値観が違うから、もしかしたらあたしの言ってることは的外れかもしれなイ。だけど、あたしだったらそうしてくれた方が嬉しいナ。だって、思いっきり笑ってる間はそのことを考えないで済むかラ」


 振り返ったゴーグル越しでも、わたしに向ける目がさっきと同じ柔らかいものだと分かった。その表情を見ると、やっぱりわたしよりもずっと年上に見えてしまう。


 思い返せば、会ってから今まで、一度だって負の感情を見たことが無い。ハルと絡んでいる時だって英語で話していた。別にハルの世界の言葉でもよかったはずだ。それでもこっちの言葉を使っていたのは、きっとわたしのことを気にかけてくれていたからなんだと思う。二人の掛け合いでわたしがアルマに敵意を抱かないようにしてくれていたのかもしれない。いや、きっとそうだ。


 抱き着いている腰はこんなに細くて、身体はとても華奢なのに、中身はわたしよりもずっと成熟している。


「わたしダメだなぁ、やっぱりまだまだだ。アルマちゃんの方がお姉さんみたい」


 わたしがしっかりしなくちゃとか、そんな気持ちはもうわたしの中にはなかった。わたしの中ではもうアルマがわたしの上にいたから。守ってあげる年下じゃなくて、こうなりたい理想になりつつあった。


「そんなことないヨ。あたしが見てきた中じゃ、リーナはとびっきり大人だゼ? こんな出来た娘なら、妹としていつでも歓迎ダ。それに、その直感は当たらずも遠からズ」


「?」


 少しだけ頬を赤くしながら、アルマがイタズラっ子のような笑みを浮かべる。わたしはわたしで、言葉の真意が分からなくて戸惑う。


「あたし、おねーさんの三倍は長生きだぜ♪」


 …………。

 ……、

 …………………。

 ………………………?


「え……?」


 聞き違いだろうか。

 語尾が頭の中で木霊する。


「ハハハハハっ、エルフだって言ったロ? やっぱり知らなかったんだナー」


 アルマが腹を抱えてわたしを指さしていた。


 衝撃の新事実。

 聞き違いでも勘違いでもなかった。本当にその通りの意味だった。


 確かに、エルフは人間よりもかなり長寿で美しいと言われているけれど、それは時間の流れか違うからとかそういう理由だとずっと思っていた。だからこれは予想外だった。本気で週百年生きる種族だったとは。


 ということはつまり、わたしはわたしの親以上の歳の人を子供のように扱っていたということになる。そう言えばハルも笑いをこらえているような表情をしていた。というより、あんまり話しかけてこなかったのはボロを出さないためだったのだろうか。そうすると、ふたりしてわたしをからかっていたことになって、わたしはひとり踊らされていたということに……。


 ――~~~~~っ‼


 身体の温度が一気に上がる。顔が真っ赤になったのが自分でも解った。

 妖精にからかわれるという言葉の意味を痛感した。


「じゃあ、アルマ……〝さん〟?」


「やめてくれよ、いまさらそんな呼びかたされてもくすぐったいシ。それに、君にはアルマって呼ばれる方が好きダ」


「でも――、」


「いいノ。こっちじゃ年上を敬うより役職で敬うんダ。それに、あたしはリーナとは友達でいたいから、出来るだけ対等に接してほしいナ。――おっと、そんなことより下見てどーゾ」 


「? ……あっ」


 強引に話を切り替えて、アルマが下を指さす。言われるがままに下を覗き込む。いつの間にかわたしたちは、森の中に丸く広がる草原の上を飛んでいた。


 そして草原には、わたしが見たことのない生き物たちがいた。

 沼地みたいになっている場所では、ビーバーのような姿をした巨大なネズミが群れている。湖には魚とカエルの混ざった生き物が飛び跳ねている。もしかしてあれはウォーター・リーパーだろうか。だとすると、水辺にいる馬はケルピーと特徴が似ている。


 湿地帯を抜けると、白い馬が数頭草原を駆けていた。頭には角が付いていて、白い毛はここから見ても分かるくらい白銀に輝いている。あの幻獣はわたしも知っている。小さい頃に読んだ絵本の中で出てきてからずっといつか会いたいと思っていた生き物だ。


「ユニコーンっ」


「大正解。あの子たちは走るのが大好きだから、ここを使って運動させてるんダ。そんでもって周りで走ってるのがケンタウロス。あの子たちの番を手伝ってくれてル」


 アルマの言う通り、周りでは褐色の馬がユニコーンたちを囲っている。馬の胴体からは人間の上半身が生えていて槍を持っているのがわたしの視力で見ることができた。


 槍と言っても、使うつもりはないようだ。ユニコーンの方も彼らに気を使っているみたいで、彼らより向こうには行こうとしない。時々小さなユニコーンが森の中に行きかけて別のユニコーンに止められている。親子みたいだ。しばらく走り回ったら、満足したのか止まって草を食べ始めた。


「下で木がたくさん動いているだロ? あいつらがグリーン・マンっていって、この森で他の場所に入ろうとする子たちを押し返してル。そんで、いま見えてる五頭は後ろからタルト、ムース、スフレ、エクレア、ババロア……あれ? シフォンがいない。また脱走したのかナ」


「ふふ、お菓子の名前ばっかり」


「あー……ハハハ」


 わたしがそう言うと、アルマは気まずそうに乾いた笑いを上げる。


 ……もしかして。

 ジト目を向ける。


「あ、あたしだって本意じゃないヨ!」


 あっさりと、華奢で年上な友人は白状した。


「仕方なかったんダ! あたしの名前は全部却下されるかラ」


「ちなみに、なんて付けようとしたの?」


「スーパーブラックサンダー」


「そりゃ却下されるわよ」


 というよりも、どうして白馬なのに〝ブラック〟にしようと思ったんだろう。それにお菓子の名前が品切れになったらどうするつもりなのか……今度はお酒の名前とか? 流石にそれはないと思いたい。


 草原を抜け、再びわたしたちは森の上を飛ぶ。その間にも、アルマとわたしは色んなことを話して、色んなことを知った。


 魔法の世界にあるチェスのこと、こっちの世界でトランプにあたるカードゲームのこと。アルマの家族や妖精の国について。わたしからは、最近食べたお菓子や本の内容。特に、わたしはファンタジー系の話を多く読むからそれが正しいのか訊いてみた(たいていがデタラメらしい。だけど、地底旅行は全部が嘘というわけでもないとのこと)。


 どれくらい話し込んだだろう。


《ピルルルゥ……》


 不意に、少し後ろから怯えたような鳴き声が風を裂いて聞こえる。カヌレの鳴き声だ。初めて会った時の鳴き方と違って、声が少し震えている。振り返ってみると、いつの間にかわたしたちにぶつかりそうなくらい近くを飛んでいた。


 乗っているハルが首辺りを撫でながら落ち着かせている。だけどそれでは安心できないみたいで、しきりに母のヒューイに向かって鳴いている。ヒューイもカヌレの方に首を向けて、落ち着かせるように鳴く。いったいどうしたんだろう。


「竜谷に近づいてるからだヨ。あの尖った山が竜谷、そこから向こうがドラゴンたちの縄張りなんダ。ヒューイ、もうちょっと高く飛んでー、そうそれくらイ」


 アルマの言葉に、ヒューイが待ってましたとばかりに高く鳴く。そのまま一気に高度を上げて、雲に届くくらいで上昇を止める。

 カヌレはほっとしたような目をしている。竜谷から距離を取れて安心したみたいだ。首を曲げてわたしたちの方を向いたヒューイは、少しだけ不満そうだ。もしかして、速く上がりたかったけどアルマの命令を待っていたんだろうか。


 ごめん、ごめんと、アルマが首を撫でた。ぐもった声を喉の奥で鳴らして、ヒューイは前を向き直す。多分、まだ根に持っている。


「……帰ったらカヌレに特大の肉を上げなきゃナ」


 ポツリと、そうアルマが独り言ちた。

 森を抜け、荒涼とした山が下に広がった。草木は一本もない。さっきと全く違う環境だ。さっきまで青々と生命に満ちていた大地は、全てが奪いつくされたような風化地帯に変わった。


 ところどころに、黒い鱗に覆われた生き物が見える。ヒューイよりはだいぶ小さい。だけど、トカゲのような顔に並んだ鋭い牙、握った岩を砕く爪、鋼鉄のように鈍く光る体は完全に捕食者のそれ。大きさなんか関係ないと、彼らが無言でわたしに咆えつけてくる。

あの夜の光景がフラッシュバックする。


 もしかしたら、あのドラゴンもここに……。いや、だけどあのドラゴンは森の中にいたはずだ。だとしたらここにはいない可能性も高い。わたしたちが向かう場所とは別の場所にいるはずだ。


 無性に寒気がした。いつの間にか鳥肌が立っている。やっぱり、いくらあこがれた幻獣だったといっても、食べられかけて好きでいられるというわけではないらしい。

 もう一度下を見る。数頭のドラゴンがわたしたちに気づいたみたいで、真っ赤な目でこっちを凝視している。


「これくらいだったら大丈夫そうだナ」


 すこしだけ安心したように、アルマが息をついた。同時に、わたしが抱き着いている身体が弛緩する。身体が強ばるくらい緊張していたのか。


「さっき高度を上げただロ? 大抵のドラゴンは気性が荒いから降りると襲って来るんだヨ。まあ、話が分からないって程じゃないから上を飛ぶってことは了承してくれたんだけど……明確にどこまでって基準がないから、特にワイバーンの縄張りは毎回肝を冷やすんダ。ドラゴンは八割方凶暴だからほとんどが中世の時代に討伐されたんだけど、一応話ができる部類で同意した奴らがここに住んでル」


「じゃあ、今から会いに行くのも――、」


「そそ、ドラゴン。だけど大丈夫、今から会う奴はその中でも特におとなしいかラ。ミラージュ・ドラゴンって呼ばれてて、姿を隠していたから全く人間には見つからなかった珍しい種なんダ。まあ、昨日は珍しく暴れて手が付けられなかったんだけド……」


 おかげで徹夜なんだヨー、っとアルマが嘆く。確かに改めて見てみると、アルマの顔色は少しだけ悪い。それに、目の下に何か塗ってあるような跡がある。クマを隠しているんだろうか。


「見えたヨ。あそこがミラージュ・ドラゴンの縄張りダ」


 そう言って、アルマはヒューイが飛ぶ先を指さした。

 いつの間にか、わたしたちは荒涼とした渓谷を抜け、再び森の上を飛んでいた。アルマが指さす先には、ひときわ大きな樹が生える森があった。普通の木の二、三倍はありそうな高さだ。さしずめ巨大樹と言ったところだろうか。

 だけど、それよりも気になることが一つ。


「…………」


 ゾクっと、身体が跳ねる。



 巨大な木々が生える森には、



「ドラゴンっていっても、みんながあんな荒れた土地に住むってわけでもなんダ。森に棲むドラゴンだっているんだヨ」


 アルマがそう言っているが、わたしにはそれどころじゃない。


 ――あの時と同じだ。


 霧、森……なぜだろう、昨日の夜を思い出す。思い返せば、あの森も似たようなにおいがしていた。匂いというより、マナの質と言った方が近いかもしれない。覚醒したわたしには、あの森が初めて行く場所にはどうしても思えなかった。


 ざわざわと、胸の奥がざわめく。わたしの中で何かが警鐘を鳴らしている。もう一度同じことが起こるぞと、そう言われているみたいだ。

 もしかして、今から会うドラゴンは。

 あの森にあった霧は、もしかしたらこの場所の霧が……。


《ヒュゥゥ――――イ》


 ヒューイが一度高らかに鳴き、カヌレも真似をするように鳴いた。それで我に返る。


 いや、まさかそんなことはない。


 ――気のせい……だよね。


 高度を下げていくヒューイの上で、わたしは微かな不安を否定した。


           ◇◆


 だけど、悪い予感はなぜだか当たる。

 青い鱗、槍のような尾、爛々と光るエメラルド色の目。


《匂うぞ。あの場にいた人間の匂いだ》


 森に入って、目的地にいたのは、

 横たわっていたのは、あの夜のドラゴンだった。

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