第1章-5 Evil acts have their retribution.(悪行には報いがある)

 小さなころから、わたしには不思議な声が聞こえていた。


 それは風のようで、はっきり言葉として聞いたことは一度もない。しかし、それが何かしらの意味を持った言語なのだろうということだけはなぜか本能的に理解できていた。


 毎日、毎日、何かに困ったときや何か良くないことが起こる前、階段を上るとき、裏通りの角に差し掛かったとき、それは高確率で聞こえてきた。そのおかげだろうか、イーストエンドという治安最悪の場所で生きてきたにも関わらず、いままでそれなりに健康な状態で過ごせた。争いごとにもめったに巻き込まれず、時には金になる拾い物をすることもあった。


 それは、時間に関係なく起こった。道を歩いているときに聞こえることもあれば、仕事をしているときに聞こえることもあった。夜、寝ているときでさえ。

 夢の中でさえ。



 クス……クスクス。

 ふふ、ふふふふ。

 おきて……、おきて。

 みて、みて、きれい。



「……ん、ふぅ……?」


 何かに呼ばれている気がする。

 そう意識したとたん、重かった瞼が一気に軽くなっていくのが解った。頭がさえる。寝起き特有のふわふわした感覚が急速に遠ざかる。


 布団を押しのけ、上半身を起こす。差し込む月光の中で、時計は午後二時を刻んでいた。ベッドに入ったのが確か十一時半ほどだったはず……いくら何でも目が覚めるには早すぎる。


 それにわたしは、元々寝起きの良い方ではない。起床してからみんなと同じ覚醒状態になるまで、平均で二十分はかかるのだ。


 それでも、たまになぜか瞬時に目がさえてしまうことがあった。決まってその時は何かが起こっていた。

 故に、


 ——……まただ。


 それがいつもの〝声〟の所為なのだと気が付くのにも、さして時間はかからなかった。


「何が、言いたいんだろう……」


 幼いころから聞こえている声。長い間聞き続けた経験から推測するに、どうやら、話しかけてくる何者かには意図があるようだ。

 例えば、先に在る水溜りや喧嘩の回避。目の届かない場所に落ちている硬貨の場所を教えること。風呂場で聞こえたら、外で子供たちが喧嘩をしていないか――など様々だ。


 それに、決してむやみやたらに聞こえるわけではないようだった。事実、聞こえた時には必ず何かしらのことが起こっている。つまり今も、話しかけてくる誰かはわたしに何かを伝えようとしているのだ。


「…………」


 ぐるりと部屋を見渡す。聞こえた声を信じ、どこかにあるはずの違和感を探す。


 しかし異常は見当たらなかった。まだ寝起きでぼやけている瞼を固く閉じてもう一度開く。

 それを、一回、二回、三回。

 すると、


「…………!」


 その異変は、すぐに見つかった。

 コート掛けにかかっているのは、明日すぐ着られるようにとハンガーに吊るした軍服の上着。


 その胸ポケットの口から


 ベッドから降り、軍服の前に立つ。ハンガーを手に取って、そのまま軍服を逆さにする。

 コトリっ、という音を立てて、中から覚えのある物が床に落下した。


 ペンダントだ。

 先日、こっちに来る前の露店で買ったアクセサリー。それが光っている。月光を反射しているとかそう言った生易しいものではない。


 明らかに、ペンダントにはめ込まれた石そのものが発光している。しかも光の指し方がまた妙だ。


 本来なら、光は全方向を均等に照らすはずだ。だというのに、このペンダントの石からは一本の光線がまっすぐに伸びている。光線の長さは、だいたいわたしの手の平の長さと同じくらい。


 恐る恐る触ってみる。光ってはいるが、ランプや電球のようにペンダントそのものが熱くなっているとかそういったわけでもないらしい。光を発している石は、石特有のひんやり冷たくてしっとり吸いついて来るような感触だ。


「……何、どういうこと?」


 いくら考えても、どうして光っているのか全く理解できない。

ひとまず手に取り、胸の位置で床と水平に持って上下左右に揺らしてみる。しかし光の線は消えない。それどころか、まるで方位磁針のように部屋のとある場所を絶えず指し示していた。


 指し示している場所は壁だ。向こう側には廊下をはさんで使っていない部屋がある。

 もしかして、そこに何かあるのだろうか……。


「何を指してるんだろう」


 皆目見当がつかない。おおよそ信じられないような現象を前に動揺しているのか、と嫌に冷静な思考回路で思考する。しかし今はそんなことを考えていても仕方がない。頭を振ることで雑念を払い、光が指しているドアのノブをゆっくりと回した。


 ◇◆


 端的に言うと、光が指しているのは部屋ではなかった。

 ペンダントから一直線に伸びる光は、部屋になど興味が無いかのように直進し、ドアの正面にある壁にはめ込まれている窓の方を指し示している。つまり、光は「わたしが眠っていた部屋」→「廊下」→「向かいの部屋」を貫くように直進し、そのさらに先——外を指していることになる。


 指しているのは、イーストツリーの方向だ。その方角にあるものといえば……。


「あっ」


 あった。ひとつだけ、思い当たるものが。


 もしかしてと、客間の中に入りドアを閉める。廊下からさしていたわずかな光が途切れ、部屋の中は窓からさす月光のみに照らされる。段違いに暗くなった部屋ではペンダントの光がより明るく見える。


 暗い。だが歩けないほどではない。つまずくことなく、月光が射し込んでくる窓へと歩み寄る。ペンダントの光は相変わらず窓のはまっている壁を指しているが、もし、考えていることが正しいのなら……。


 ガタン、ギギギと、少しきしむ音を立てたが窓は問題なく開いた。

 夜の冷えた風が部屋の中に入り込む。しかし別に夜風を浴びたかったわけではない。落ちてしまうギリギリまで窓から身を乗り出す。そして、ペンダントを握った手を目いっぱい外へと突き出す。


「——……やっぱりそうだ」


 輝線は、まっすぐ丘の向こうを指していた。それだけで、自分が立てていた仮説がほぼほぼ立証されたことを悟った。


 この方角に線を伸ばすと、必ずその直線上にかかる場所がある。今までさんざん怪しいと睨んでいたが、結局時間が経つまで探すことができない場所。ここまで条件が揃ったら、行かずにはいられなかった。


 部屋に戻り、急いで軍服に着替える。ホルスターからウェブリー・リボルバーを抜き出し、もしものために弾薬を入れる。あと必要なのはライトだ。それを借りるために部屋から飛び出すと、


「お、お嬢様。このような時間にどうなされたのです?」


 ちょうど、見回りをしていた使用人と鉢合わせた。


「あ、えーと、これのことでちょっと、」


 光るペンダントを見せる。

 品定めをするような顔で、しげしげとペンダントを眺める。


「ほぉ、何とも可愛らしいペンダントで。同じようなものを落としましたかな? でしたら、明るくなってからの方が探しやすいと思いますが……」


「……………………」


 息が詰まった。何を言っているのか一瞬理解できなかった。

 だってそれは、わたしが思っていた返答とは全く見当はずれのものだったから。


 確かに、彼の言葉はもっともだ。こんな夜中にペンダントを探すよりも、朝になってから探した方がいいに決まっている。そこは別に間違っているとも思えない。驚いてしまった原因は、もっと根本的なことだ。発言内容以前の問題だ。


 なぜ、今この状況でその話をしたのか。


 絶えず発光しているアクセサリーなんてあるはずがない。それがこのペンダントの一番の特徴にもかかわらず、彼は全くそのことに触れてはいない。それどころか、光を直視しても目を細めるようなこともしていない。 まるで——光が見えていないかのように。


 いや、多分見えていないんだろう。見えていたなら、「明るくなってから」なんてことを言うはずもない。だって光るアクセサリーなのだ。どう考えても夜に探す方が見つかりやすいに決まっている。

 つまり、


 ——わたしにだけ……?


 彼にはこの光が見えていない。この光は、わたしだけに見えているんだ。


 眠っていた時に聞こえた不思議な声。

 わたしにしか見えない光。

 その光は一直線に、ある方角を指し続けている。わたしの記憶が確かなら、方角の先にあるのは一番怪しいと思っている場所。明日朝一で行ってみようとしていた場所だ。


 それをいま、光が指し示している。


 ……行く場所は決まった。


「実は、お願いがあるの」


「はい。何でございましょう」


「馬を借して頂戴。あと懐中電灯も。今すぐ」


「は、はい!?」


「お願い! 急いで」


 突然の無理な頼み。唖然とする使用人を急かすために放置して部屋へと走る。あまり悠長なことも言ってはいられないのだ。この光がいつまで生きているか分からないから。


 根拠なんてない。ついでに言えば何もない可能性の方が高いに決まっている。

 だけど矛盾するように、なぜかこれだけは確信できた。長年の経験が言っているのだ。


 多分この光の先には、今を打開するためのヒントがあると。



 ◇◆



「これは、一体……」


 御者台(馬だけでいいといったのに、強引に馬車を用意されてしまった)から降りた使用人が、唖然とした様子でそう呟いた。それ以外に言葉を発しない。見ただけで動揺しているのが解った。


 なぜ? とは訊かなかった。だって目の前の〝これ〟は、この場所の地理に詳しくないわたしにも普通じゃ起こらないことだとすぐに解ったからだ。


 森の霧に、


 例えるなら、霧のトンネル……といったところだろか。森全体を霧が覆っていることは変わらない。だけどいま目の前には、ぽっかりとくり抜かれたような穴が森の奥に続いている。


 霧は、水分を含んだ空気が露点温度まで降下した時にできる。つまり雲と同じでつかむことも形を変えることもできない。だから、こんなにきれいな円状にくり抜くなんてことは不可能だ。しかもそのトンネルは風が吹いているにも関わらず、形を崩すことなくそのままの状態を保っている。


 異常だ。普通に考えたらあり得ないことだ。そして、ペンダントの光はこの奥を指している。

 なるほどつまり、このトンネルの奥に行け、ということだ。


「————よし」


 覚悟を決める。

 確かに、このトンネルは不気味だ。奥に行けば間違いなく何かが起こると確信できる。だけど、そうも言っていられない。第一、このトンネル自体がいつまで形を保っていられるか分からないのだ。それに、このペンダントの光だっていつまであるか分からない。朝になったら消えてしまうかもしれない。


 行くなら、今しかないのだ。


 腰に付けたホルスターを触る。かなり重い金属の塊は、士官用拳銃〝ウェブリー・リボルバー Mk.IV〟だ。大丈夫ちゃんとある。それに換えの非常用カートリッジも持ってきている。チャンバー内の六発と合わせて最大で十二発。これだけあれば何かあっても対処はできる。少なくとも、外傷では死なない。


「お嬢様、いけませんっ。危のうございます!」


「大丈夫。こう見えてもわたし、鼻が利くの。しばらくここで待ってて」


「お嬢様!」


 必死で止めようとする使用人を振り切り、霧のトンネルへと足を踏み入れた。



 ◇◆



 森の中は、見たことが無いほど静まり返っていた。


 虫の音は一切聞こえない。木々も、侵入者を嫌っているかのように生気を感じない。まるで、森全体がわたしという侵入者を拒絶せんとしているように感じて仕方がなかった。


 霧のトンネルは、ずっと森の奥へと続いている。中に入ってみて気が付いたことだが、木々がこのトンネルをアーチのように囲っている。まるで、元々この場所に生えていた木々がこのトンネルを作るために左右に動いたように錯覚する。それに、樹の種類も豊富で自然林のよう


 そんな不思議なトンネルは、分かれ道になることもなくまっすぐ一方向に伸びている。そして、左手の平にのっけたペンダントの光も、相変わらず道の向こうを示している。


 何かある——そう確信したのは、何気なく足元を見た時だった。


「轍……馬車が通った? それも新しい」


 伸びる道の真ん中――足元に視線を落とせば、そこには地面が細長く抉れたような跡が残っている。加えて、その内側に散らばる蹄の跡。数は馬一頭分。

 間違いない。これは、馬車がここを通ったということだ。


 地元の人間でも入れないような森に現れた霧のトンネル、狙ったようにそこを通った馬車の跡、その奥を指し続ける左手のペンダント……もうここまでくると怪しさしかない。


「————。」


 歩くこと数分、

 急に霧が晴れた。


 さっきまでの視界不良が嘘のように、霧がきれいさっぱり消えてしまう。まるで、たまったほこりがバケツの水で洗い流されたみたいだった。


 目に入ってきた景色は、さっきまでいた場所とは全く別物だった。


 さっきまで、わたしは暗い視界不良の森の中を歩いていた。霧がかかってはいたが確かに慣れ親しんだ木々に囲まれた空間だった。それがどういうことだろうか、いま目に映っているのは月光の指す開けた草原だ。


 明るすぎる。月光が指しているということもあるのだろうが、決してそれだけではない。足元に生える草の一本一本が、まるで蛍のように淡い光を放っているのだ。ガラスのように透き通った緑の草花が、月光を浴びて薄緑色に光っている。まるでガラス細工の花を地面に刺したような光景だ。その花弁からは、吸い取った光が蛍のように飛び立ち空へと昇っていく。


 ここが終点なのだと、ペンダントを見なくても理解してしまった。


「……きれい」


 思わずそう呟く。

 それはまるで、おとぎ話の世界に紛れ込んでしまったよう。ほんの一瞬だけど、確かに自分の目的を忘れて見入ってしまう。


 しかし、

 その雰囲気も、この場にそぐわない場違いな存在によって現実に引き戻された。


 ガラスの花たちを踏みにじって作られた轍。それは、すぐ目の前で終点を迎えていた。そこにあったのは一台の馬車。荷物が見えないように幌が張られ、中にはいくつかの檻。一頭だけで繋がれた黒い馬が、我が物顔で足元の草を食んでいる。


 見るからに怪しい。突然現れたトンネルに、この場所で繋がれている馬車。この二つの間に何の関係もないとはどうしても会燃えなかった。


 ペンダントに目を向ける。伸びる光は馬車の方を指している。さっきと違うのは、段々と小刻みに揺れ始めたということだろうか。


 ペンダントを服の内側にしまい、腰のホルスターからリボルバーを取り出す。そして、どうしたものかと考える。


 ――絶対、あの馬車には何かある。でも……御者がいない。いったいどこへ? 近づいてみるのも手だけど、もし馬が嘶いたら……。


 逡巡する。

 そのとき、


「いやぁ、大収穫だあ!」


「!?」


 突然聞こえた、間延びする男の声。

 とっさに近くの木々に身を隠す。半身になって身体を樹に押し付け、半分だけ顔を出して向こう側を覗く。聞こえたのは森の中から。ざくざくという足音と共に、話し声はどんどんと近づいてくる。続いて、ぼそぼそと話す男の声も聞こえてきた。


「あまり揺らすな。お前は肝心なところで失敗するだろう」


「大ぁーい丈夫だってぇ。自分の罠にかからなかったからってひがみすぎぃ」


「ひがんでねぇ。稼ぎ山分けだから注意してるんだろうが」


「はぁーいはい」


 現れたのは、二人組。間延びした話し方をする見た目二十代ほどと、眼鏡をかけた仏頂面の三十代ほどの男だ。どちらも両手で抱えるほどの檻を二つ重ねている。違うのは、間延びした方の檻には動物が入っていることだ。


 リスよりもふた回りくらい大きく、全身の毛が真っ白な小動物。背中に赤い線が入っていて、その部分をハリネズミのように逆立てて威嚇している。だけどかごを揺らすと、弱々しく倒れ込んだ。

 馬車にたどり着いた彼らは、荷台にそれを押し込み布で覆い隠した。


 こんな夜更けに、わざわざこんな場所で、こそこそと罠を張って猟をしている……十中八九、こんなことをやっている奴らがまともであるはずがない。恐らくあの動物たちは闇オークションにかけられる。ということは、目の前の奴らも闇オークションに関わっている可能性が高い。狩猟関係の法律はあまり詳しくないが、こんなことをしているのだから間違いなく密漁だろう。


 服の胸元を引っ張り、光が漏れないようペンダントを覗き見る。光線が指すのはあの馬車の方向。だとすると、あの馬車の中に何かがあるのか……いずれにせよ、捕まえてみる価値はあるかもしれない。


 ホルスターから、《ウェブリー・リボルバー Mk.IV》を引き抜く。弾丸はすでに装填済みだ。ダブルアクションであるため、少々固いが引き金を引くだけで弾が出る。おそらく、二人程度なら十分に制圧が可能なはず。


 ——でも、これ以上増えたら……。


 しかしそれを考えると、不用意に出ては行きにくい。

 もう二、三人増えても、制圧自体は可能だとは思う。だがそれは、不意打ちの先制攻撃をすること前提だ。銃で脅しながらの連行には不向きだし、何よりも、撃って制圧してしまうと森を出る前に何人か死人が出てしまう。もし彼らが無実だったときの可能性も踏まえると、それはあまりにリスキーだ。


「おぅ、ドミー、マイルズ。首尾はどうだ?」


 こういう時は、決まって悪い予感が的中する。

 案の定、もうひとりが森の中から姿を現す。その後ろに追加でもう二人。以上、占めて五人。


 出ていく機会を逃した。


「リーダーぁ、俺は二つともかかったよぉー。マイルズはハズレぇ」


「『さん』を付けろクソガキ。何でテメェはそう勘だけは良いんだ」


「そう怒ってやるな。いつものことじゃねぇか」


 新たに表れた三人の手に抱えられた檻にも、中にはまた別の小動物がかかっている。それらを荷馬車に乗せ、動かないようにロープで括り付けられている。中の動物たちはぐったりとして動かない。もしかしたら、クスリを盛られているのだろうか。


「しっかし、なんとも妙な生物だな」


 マイルズという男が気味悪そうに檻の中の小動物を眺める。


「一匹売れば俺たちが数年遊んで暮らせる額だそうだ。逃がすんじゃねぇぞ」


「時間まだあるしぃ、もうひとつ捕りに行ってもいーい? リーダーぁ」


「行ってこい」


「ひゃっほぉー!」


「……注文の品はちゃんと運んだんだろうな?」


「もちろん。数日内には角折って倉庫の中に入るはずです。暴れて大変でしたよ」


「ならいい」


 ニタニタと笑うドミーの代わりに、仏頂面でマイルズがそう答える。リーダーの許しが出ると同時に、ドミーという男は奇声を上げながら嬉々とした表情で森の奥へと戻っていく。


 一瞬だけ時が止まり、呆れたように残り全員がため息を吐く。リーダーが、荷馬車に乗っていた二人の内黒いコートを羽織っている方に「おい」と声をかけ、ドミーの走っていった方向を顎で指し示す。こくりと男が頷き、馬車から降りてドミーの跡を追いかけた。それを確認したのち、残りは作業を再開する。


 人数は、再び三人になった。


 ——……これなら何とか。


 多少乱暴ではあるが、十分制圧できる。


「————っ」


 リボルバーの撃鉄を引き上げる。

 カチリという固い音を立て、撃鉄は固定される。


 たったそれだけ。形が変わるとか、分かりやすく色を帯びるとかそう言ったことはない。撃鉄を引く――それだけで握った鋼鉄の塊は狂気をはらんだ殺人マシンへと変貌した。


 死角となる場所から飛び出し残った三人と対峙する。

 銃口はリーダーと呼ばれた男の方へ。


 向こうもこちらの存在に気が付く。だが遅い。


「全員動————、」




ここで何をしている、、、、、、、、、




「「「「—————っ」」」」


 ぞっとするほど冷たいしゃがれ声が、この場の全員を凍り付かせた。


 怒声ではない、それほど大きな声でもなかった。付け加えれば、威圧するような言葉を使ってもいなかった。ただ単純に言葉通りの問いかけ――そのはずなのに、まるで得体の知れない怪物に目を付けられてしまったような……そんな錯覚を抱いた。


 不自然なほど抑揚が無い。言葉を発すれば自然に生まれるはずのイントネーションすらない。まるで人間の声ではないようだった。その事実が余計に鳥肌を立たせる。


 ギギギと、回す首は錆びたブリキ人形のようだ。

 視界が声の主を捉えた。


 いつの間にいたのだろう。ドミーが消えていった森の奥へと続く道、そこに立ちふさがるようにして男がひとり佇んでいた。だいぶ歳を召しているようだ。その腰は前へと曲がっていて、まとっているのは布切れといっても差し支えのないほどくたびれたローブだ。体の線は、細く弱々しい。風が吹けば勝手に倒れる……まるで柳の枝のようだ。


 爛々と緋色に光る眼さえなければ。


「何をしている、とわたしは訊いたのだが?」


 淡々と、ぼろきれをまとった老人は同じ質問を繰り返す。だけどわたしは、何も言うことができなかった。

 身体が冷たい。動悸が激しい。いつの間にか、銃口は地面を向いていた。もう一度構える余裕はない。いや、それは語弊だ。根っ子はもっと簡単だ。


 構えられないんじゃない。「構えたくない」と、身体が拒否してしまっているのだ。

 いま敵意を見せたら殺される——この細身の老人に対して本気でそう感じているから。


「……ジジイ。どうやってここに来た」


 沈黙を破ったのは、リーダーと呼ばれている男だった。努めて無表情に、こちらも平坦な声で老人に問いかける。馬鹿なのか相当の肝が据わっているのか——この状況でそんなことを考えてしまう。


 だけど、彼も何かを感じ取ってしまったんだろう。いつの間にか拳銃を取り出した後ろの部下に、右手で撃つなと警告している。ここから見ても呼吸が浅いのが解る。頬から、大粒の汗が流れ落ちたのが見えた。間違いない、彼は後者だ。今この時ばかりはあの男に尊敬の念すら抱いた。


 しかし、その乱暴な問いに答える声はなかった。

 老人が、チラリと視線を馬車へと向けた。荷馬車に積まれているのは、さっき捕えられ檻に入った小動物たち。


 それを見て何を感じ取ったのか、嘆くように天を仰ぎ、盛大にため息を吐いた。


「二人ほど人がいたはずだ。道は一本、会わねぇはずがねぇ。あいつらをどうした」


 苛立たしそうに続けられるその言葉にすら無反応に、


「…………臭い。欲望の臭いだ」


 吐き捨てるようにそう言葉を発した。

 それは、別に誰に向けたものでもないのだろう。言葉通りの意味しか持っておらず、わたしたちに返答なんか求めていない自己完結したものだった。


「答えろ」


「ここは我々の国だ。貴様ら人間とは不可侵の誓いを立てているはずだが」


「あ?」


 全くかみ合わない会話に男は思わずそう呟く。だけどすぐに、まるで逃げるように二、三歩後ろへと下がった。それは、老人が銃にまったく臆することなく一歩前へ歩みだしたからだ。


「貴様らは住処を荒すだけに飽き足らず、今度は我々をも狩るつもりか」


 一歩近寄る。二歩下がる。

 もう一歩踏み出す。男たちの背中が馬車にぶつかった。


「まったく、いつまでたっても愚かしい」


 老人はこちらのことなどお構いなしに言葉を続ける。抑揚のない言葉。意味の分からない言動。目だけが爛々と光っている。確かに思考力がある話し方、使っているのも同じ言語、にもかかわらず言っていることが一ミリも理解できない。そのアンバランスさが不気味さを掻き立てる。

 もう、語らなくてもこの場にいる者全員が理解していた。


 こいつは、普通じゃない。


「最後通告だ。それを置いてさっさと——、」




 パンッ!




 乾いた銃声が響いた。


「あっ」


 思わず声を上げた時にはすべてが手遅れ。

 ぐらりと、老人の身体が後ろに傾く。左肩から赤黒い血しぶきが吹き出す。弾丸の勢いによって二、三歩よろよろと後退し、そのまま仰向けに倒れ込む。


 動かなくなった。


「馬鹿野郎! ここで撃つなと言ったろ!」


「すいませんっ、つい」


 リーダーが初めて怒鳴り声を上げる。撃った本人も本当にとっさだったようで、しばらく自分が撃ったということに気が付いていなかった。


「クソッ、ずらかるぞ!」


 しかし腐っても族のリーダーなのか、すぐに我に返って馬車に乗りこみ、檻を固定する作業も放り出して逃げる準備を始める。

 だがそのとき、



「……ここまで」



 聞こえるはずのない、聞こえてはいけない声が、耳に届いた。


「ここまで愚かとは」


 それは、倒れた老人の声。撃たれた人間が開口一番に言うはずのない言葉。まるで何も起こってはいないのだと錯覚してしまうほど変わりなく滑らかに紡がれた。


 違ったのは、声が震えていること。だけどそれは痛みからじゃないということはすぐに解った。

 声が震えるという状況はいくつかある。ひとつは痛みに耐えるとき、ひとつは悲しい時、驚いた時、


 もうひとつは——言葉を失うほど怒り狂っているとき。


 体は倒れたまま。にもかかわらず、爛々と光る眼だけがこっちをにらみつけている。

 答え合わせなんか要らなかった。 


『やはり、ニンゲンは何も学ばん』


 ドクン——倒れ込む体が、突然風船のように膨らんだ。


『誓いを破るだけでなく、たかが数百年でこのわたしを倒せると思いあがるとは』


 ドクン——体はしぼむことはなく、あっという間に元の数倍へと膨れ上がる。来ていた衣服を吹き飛ばす。


《忠告はしたぞニンゲンよ》


 身にまとう布を裂き現れた肌は、赤黒い鱗に覆われている。

 手足は人間のものでなく、鋭い爪が地面に付き刺さる。

 背中から広がった二対の皮膚は、コウモリを感じさせる巨大な翼。

 腰あたりの皮膚を突き破り、とげのある尾が飛び出し鞭のようにしなる。


《己の力量を図ることができぬ劣等種よ》


 ミシミシと音を立て、顔が骨格を変える。それは例えるならトカゲ。

 爛々と燃える緋色の瞳は健在。


 ——ああ、そっか。


 今になって、あの眼に感じた違和感の正体にやっと気が付いた。単純な話だ。あれは、人が持っているはずのない目だったのだ。


 だってあの目は、捕食する獣が持つものだから。


《忘れたのなら、もう一度刻み込んでくれよう》


 いつしかそれは、見上げるほどの大きさになっていた。怒りに燃える眼で人間たちをにらみつけている。ああそうかと、自分たちが何をしてしまったのかをいまさらながらに理解した。意味不明だったさっきまでの言葉が全てつながった。


 思い違いをしていた。彼が人間だと固定概念を持っていたから理解できなかったんだ。彼は人間じゃない。その前提条件を入れさえすれば、応えは自ずと導き出せた。


 ここは、彼らの縄張りなのだ。人間の世界と隔離し、互いに不可侵を貫いていたのだ。しかし今日、わたしたち人間はその誓いを破った。そしてこの森の生き物を狩り、あろうことかこの地の主に喧嘩を売ってしまったのだ。


 ここは、人間の住む世界じゃない。

 アレは、人間が歯向かっていい存在ではない。

 そんな子供でも解る簡単なことを、わたしは今ようやく理解した。


 わたしたちが喧嘩を売ったのは——、


《わたしを……竜を敵に回すとどうなるかをッ》



 幻獣の長、〝ドラゴン〟だった。

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