第1章ー4 リーナの日記『あなたに出会えてよかった』
『1910年 8月10日』
今日、ワイト島に着いた。大佐はしらばっくれていたけど、絶対これは左遷だと思う。確かにわたしが扱い辛いと言われれば否定できないけれど、これはないと思う。
そもそもな話、もう子供のことなんか見つけなくてもいいと言わんばかりの人員派遣だ。それにだって腹が立った。真面目に探したいのに、わたしひとりじゃ本当に資料の整理と監視くらいしかできない。
でも、まさか到着したその日に仕事につけるなんて思ってなかった。てっきり初日は宿を探すのに手間取るとばかり思っていたのに、そんな心配は杞憂に終わってしまった。
理由は簡単。船から降りると、わたしの家の馬車がなぜか待っていたから。以上。
そう言えば前に、義父様がこの島にも管理しているカントリー・ハウスがあるとか話していたような気がする。たしか、仲が良かった貴族の経営が傾いたから代わりに管理しているとかなんとか……全く関係ないことだったからすっかり忘れていた。
多分、大佐が連絡を入れてくれていたんだと思う。何というか、大佐の思惑が大体読めてしまったような気がする。普段針の筵だから、気分転換にでも――とか、きっとそんなところなんじゃないだろうか。あと、やっぱり警察の人たちからは嫌な目で見られた。
それから、行方不明になっていた人の人数が増えていた。
増えていたのは三人で、最初に行方不明となった少年と同じ十三歳の少年たちだ。消えたのは、事件が起こってから二日後。遊びに行くと言ったっきり、帰ってこなくなったようだ。事件が起こったのが4日だから、いなくなったのは私がここへの派遣を命じられたちょうどその日になる。
そしてもう一つ、〝迷い霧の森〟という場所が気にかかる。
このカントリー・ハウスと事件が起きたイーストツリーのちょうど中間くらいに広がっている広い森だ。町に行くときにも遠くからだがその森が目に入った。
名前の由来は、その名の通りたまにかかる深い霧からとられている。いつもは普通の森なのだが、不定期に森に謎の霧がかかるらしい。発生理由も何もかもが不明。それでも、一度霧がでると一週間から十日ほど霧は消えない。森全体というわけではないが、霧がかかる範囲だけでも相当な広さがある。
どう考えてもこの場所が怪しい。まるで遊んでくれとでも言わんばかりの森だ。子供たち(特に男の子)の好奇心がくすぐられるはずだということは私にも解った。
にもかかわらず、その森はまだ捜索がされていない。
理由は一つしかない。まだ、霧がかかっているからだ。
これは町の人たちに訊いた話だが、その森の霧は私が思っている以上に厄介なものらしい。霧がかかると、どんなに森を熟知した人たちでも迷ってしまうのだと教えてくれた。それは目印をしていても同様で、いつの間にか目印があるはずの場所に別の木があったなんて話が延々と語り継がれている。ここに住む人たちはみんな、それを子供のころから教えられてきたのだという。
だから、みんなその森には捜索に行かない。霧が晴れるのを待ってから捜索を開始しようと思っているんだ。
怪しいと解っているのに、そこを探すことができないのがもどかしい。
何とかして、迷わずに探すことができないだろうか……。
いけない。ただの愚痴になってしまってる。あとで見ても面白くないからやめないと。ごめん、未来のわたし。
嬉しかったことと言えば、わたしが案内された屋敷にアネットがいた。歳は今年で五十になったみたいで、ここの屋敷のハウスキーパーをしていると話してくれた。それに、夜にアッサムミルクティーとヴィクトリアスポンジケーキを持ってきてくれた。慣れない生活にストレスが溜まっていたあの時に、私の側付き使用人だったマーガレットと三人でお茶を飲んでいたことを覚えてくれていたらしい。とってもおいしかった。
あと、アネットがやっと話してくれた。わたしが軍に入るといった時に引き止めなかったのは、「止められなかったから」らしい。わたしの眼がだんだん死んだようになっていることに気が付いていたみたいだ。やっぱりアネットはすごい。全部お見通しだった。
もちろん、わたしには釣り合わない生活だとか、そんなひねくれた意味なんかじゃない。毎日が退屈だったという意味でもない。
オルブライト家では、わたしは人間ではなかった。
この家に拾われて、上流階級としてのふるまいも教わった。わたしが育ってきた環境を加味してなんだろう、まず真っ先に叩き込まれたのは人としてのモラルだった。避けるべきこと、やってはいけないこと、法と道徳と倫理――それを破ればどうなるのかを徹底的に教えられた。
わたしにとって、それは呪詛だった。
悪気はなかったのだと知っている。そんなつもりで言っているのではないということも解っていた。だけど、どうしてもそうはとらえられなかった。
お前のやったことは許されることではない。
それは禁忌だ。
人がやることじゃない。
お前は、人間じゃない。
そう言われ続けているように感じてしかたなかった。
かびたパンを食べて、お風呂に入れない日なんかざらにあって、何かしらの罪を犯さないと生きていけない……そんなヒトたちは、上流階級の中で人間とは思われていなかった。
だから、必死で仮面をかぶった。「わたし」を押し殺し、「オルブライト家の令嬢」としてふるまった。だってそうしないと、わたしは人として見てもらえないから。こんなに幸せになったのに、次の瞬間には人以下に叩き落されるのが怖くてたまらなかったから。
一度気にしてしまったら、もう駄目だった。
授業を受けていても、食事をしていても、誰かと話していても、椅子に座っているときも、寝ているときでさえも考えてしまう。
この人たちは、わたしのことを人間とは思っていないかもしれない。
真実は解らない。
もしかしたら違うかもしれないし、違っていてほしいと心から願っている。だけど、口でいくら否定されようと「言葉」を信じることができなくなっていた。
心が強かったらどれだけよかっただろう。他人の思っていることなんかどうでもいいと、この暮らしができるだけでもありがたいと割り切れたらどれだけよかっただろう。
でもわたしは、そこまで強くはなかったから。
存在を全否定されているかもって考えながら平然と気にしないでいられるほど、わたしは図太くはなれなかったから。
わたしの考えは、身勝手で恩知らずだ。以前の私の生活を続けている人たちがこの想いを聞けば、顔に唾を吐きかけるだろう。助けてもらえたくせに、その身分だって自分の物じゃないくせに、捨てるならくれ、そう言われると思う。わたしだって絶対にそう言う。
身勝手だ。傲慢だ。恥知らずで恩知らずだった。だけど譲れなかった。このままいけばどうなってしまうのか、本能が悟ってしまっていたから。よりにもよって軍隊に志願したのは、心の自己防衛機能が働いたんだと思う。
このままここにいたら、わたしはわたしじゃなくなる。
なにより、どんなことより、それが一番怖かった。
この家にいること自体が苦痛で、わたしの過去を知られて失望されるのが怖くて、わたしが拾われた世界にはわたしの居場所が無いんだって落ち込んでいたことも、アネットにはお見通しみたいだった。
――それが、リーナ様のお望みなら――
その時言われた言葉だ。
アネットは、まるでわたしがそう言うのを解っていたかのようにそう言ってくれた。
それでどれだけ心が軽くなったことか。
義父様、義母様に相談するための勇気がもらえたことか。
やっぱり、アネットはすごい人だ。
わたしよりも物知りで、思慮深くて、人の細かな変化に気が付ける。その人の気持ちを察してあげられる。
それでいて、使用人のトップとして恥ずかしくないようにふるまう。他に厳しい以上に、自分を律して使用人としての役割を果たしてくれている。彼女が冷静さを欠いた場面を、わたしは一度も見たことが無い。
だから、あれは気のせいなんだと思う。
「あなたに出会えてよかった」
あの時言えなかったお礼をやっと言えた時、
彼女の目が潤んで見えたのはきっと気のせいだ。
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