第1章ー3 幕間:サウサンプトン港
吸い込まれるほどの黒に染まった短髪が、人ごみの中を縫って進んでいた。
ネクタイなしのシャツに、暗めのブラウンで染められた同じく型が崩れかかったジャケット。そしてところどころに汚れが付いたパンツと厚めの靴を身に着けた小柄な身体は、肩がぶつかるほどの人ごみにも関わらず、まるで人が避けていくかのように見えるほど、するすると隙間を流れていく。
ヨーロッパ中どころか、世界中の船がひっきりなしに入港して来るこの港では、その恰好と黒髪は特段珍しいものでもない。事実、その条件だけを気に留めて見渡せば、そんな人間はそこら中にいた。故に、少年のことを気に留める者はいない。もし気に留めた者がいたとしても、それは服装にではなく、年齢にしては幼い顔つきにだろう。
そんな少年の隣に、いつの間にかさらに一回り小さい童女が並走していた。手には何かの肉を焼いたものを持ち、それをかじりながらテトテトと歩いている。しっかりと頭を覆っているフードからはオレンジ色の明るい髪がはみ出し、人の行き交いが作る風でなびく。
はたから見れば、「妹と兄」そんな関係に見える。横に少女がいることを確かめ、少年はほっと息をつく。
「うまいか? それ」
「ん!」
勢いよく頭が振られ、少年にかじりかけの肉が差し出される。「サンキューな」と礼を言い、一口かじった後少年がそれを返す。
「こぼしたりぶつけたりするなよ?」
肉を凝視しながら歩く彼女の様子に一抹の不安を感じ、一応くぎを刺しておく。心外だ! とでも言わんばかりの表情が浮かび、オレンジの髪が揺れた。
「前科あるだろ? それから、フードはもっとしっかり被る。バ・レ・た・ら・すっげぇ面倒なんだからな」
そう言って、少年はフードをぐいっと目元の部分まで引っ張り下ろす。もちろんいくらかは持ち上がっていくが、さっきよりも頭部はしっかりと隠れている。その一連の行動を、童女は特に嫌がるわけでもなくされるがままに歩き続ける。
それ自体が少しばかり怪しい格好であることを除けば、気にかかる部分はどこにもない。心なしか、服の背中が膨らんでいるような気がしなくもないが、それは重ね着した服の所為なのだろう。
そのまま二人はしばらく歩き、人ごみから少し外れた場所で立ち止まる。そこで、少年はポケットを探り折れ目のついた紙を取り出す。
それは、船の乗船チケットだ。続いて取り出した懐中時計を開き、書かれている出港時間にはまだ余裕があることを確認してとりあえず一息ついた。船着き場の場所も、ここからそれほど遠くはない。乗り遅れるという心配はなさそうだった。
と、チケットと同時に紐のようなものがポケットから飛び出し、地面に落ちた。皮でできたアクセサリーの紐だ。耐久性に優れている特注品で、よほどのことが無い限り千切れることはない。
だが、
その先についていたのは、アクセサリーではなく千切れた金具だった。
本来はその先に、アクセサリーが付いていたのだ。紐ではなく、金具がねじ切れてしまったことは少年にとっても全く予想外のことだった。
「…………はぁ……」
ため息を吐く。消えてしまったアクセサリーのことを思うと憂鬱を通り越して頭痛がしていた。何せ、失くしましたじゃ洒落にならないものだからだ。バレないうちは何ともないが、もしバレてしまった日にはかなり痛いペナルティーが少年に待っているのだ。
「まだ、見つからないんですか?」
隣から、控えめで鈴を鳴らすような声がかけられた。声の主はもちろん、一緒に歩いていた幼い少女だ。
「んー。回るだけ回っては見たけどなかった。盗品市にもなかったしなぁ……」
「ハルはそういうところが不用心なんです。もう少し植物以外のこともしっかりするべきですっ」
「……はい、すいません。以後気を付けます」
少女の言葉は図星だったようだ。まともに言い返すこともせず、ハルと呼ばれた少年が頭を下げる。傍から見れば、十歳かそこらの少女にペコペコと頭を下げる少年の図だ。年上の威厳もへったくれもない。いや、少年の方も見た目が幼いから大して不審にも思われないか……。
すると近くから、汽笛の音が鼓膜を突いた。
音のする方を見ると、今まさに船が出港しようとしているところだった。タラップが外され、船の扉が閉まる。繋船柱から〝もやい綱〟が外される。
それを見ていた少女が、思い出したように口を開いた。
「――船の時間は、大丈夫ですよね?」
「ああ、それは大丈夫。さっき時間は確認したから」
「そう言ってこの前は……」
「あれは店の時計が壊れていたからだって! 俺悪くないじゃん」
「…………」
頬を膨らませ、むっとした表情が幼い顔に浮かぶ。いつもそうやって失敗をしてきたのだから! とでも言いたげな表情だ。
「分かった分かった。じゃあ行こうぜ」
前科がある以上、何を言っても説得力はイマイチだった。
ジトっとした目に耐えきれず、少年はチケットをしまう。そして小さな手を握り、再び人ごみの中へと飛び込んだ。
◇◆
――バルモラール号 デッキ――
ワイト島に行くには、いくつかの船がある。わたしが乗っているのは、サウサンプトン港から出ているレッド・ファンネル・フェリーズの船だ。本当の名前は「サウサンプトン・ワイト島及び南イングランド英国郵船株式会社」というらしく、結構長ったらしい。
今乗っているこのバラモラール号は、遊覧船として造られた、外輪の付いた外輪汽船だ。大きく回る外輪を見ているのはなかなか楽しい。それに、海風も心地いい。この船が遊覧船として人気になっている理由も解る。
港がどんどん遠くなっていく。伸ばした手の平を広げると、まるで町を掴んでいるように見える。
やっぱり、めったに見ない景色を見るのは楽しい。憂鬱だった気分も、いまそのことを考えるまですっかり忘れていた。下をのぞけば、海が船で砕かれて白い泡を立てている。
風が吹き、首にかけたペンダントが大きく揺れた。
「あっ」
落ちて行かないように、首元に手をやる。
――今は、危ないかな。
せっかく親友からもらった餞別をここで落としてしまったら、なんて言い訳したらいいか分からない。それに、ここには子供たちもたくさん乗っているのだ。わたしがいつまでもいるよりも、子供たちに譲った方がいい。
乗り出していた身体を舟の上に戻す。首からペンダントを外して、ポケットに入れる――、
刹那。
「……?」
何かが光った気がした。
デッキから下を覗いてみる。船体と海が太陽光を反射して白く光っている。だけど違う。さっきの光は白い色じゃなかった。それに、こんなに刺すような鋭い光でもなかったと思う。
もっと淡く、碧く、柔らかい光だったような……。
「気のせい、かな」
多分、目の錯覚か何かだろう。
それを証明するように、下船するまでその光を見ることは一度もなかった。
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