第1章-2 左遷と親友からの贈り物
『リーナ・オルブライト 少尉殿
辞令
貴官に、本日付で『ワイト島警察捜査調査官』の任を与える。
それに伴い、三日間の休暇を与える。 陸軍副総監部』
たった一枚のこの紙きれで、
わたしは、ワイト島へと左遷された。
◇◆
—— 1910年 8月16日 オルダーショット陸軍駐屯地 ——
「そういうわけだ。オルブライト少尉」
「急ですね」
かろうじて喉の奥から絞り出した言葉が、それだった。
「ああ。事は急を要するからな」
何の冗談だろう――この紙を渡された時本気でそう思った。
いままでわたしは、仕事の上ではミスをしていなかったはずだ。養子となって飛び込んだ貴族の世界で身に着けた仮面をかぶり、当たり障りなく仕事をしてきたはずだった。確かに同僚からの受けはいいとは言えないが(というより、女のわたしがここにいることそのものに不快感をもっているのがまる分かりだった)、そもそも人とあまり関わる仕事内容でもなかったはずだ。
辞令を言い渡され、その場で固まる。それを見たくないとばかりに、上司のウォーレン・ホリングワース大佐は書類の山をわたしとの間に置く。ちょうど、わたしの顔が遮られる形だ。
「詳細な資料は、向こうの地方警察で直接貰ってくれ。そのときはこれを見せると良い。俺と上官のサインが入っている、いくら組織が違うからといっても無下にはできんさ」
反応を返さなかったのは、ささやかな抵抗のつもりだった。顔合わせをした初日にもらった「俺にかしこまる必要はない。ストレスもたまるだろう。発散するなら俺にしておけ」という厚意をいまこの場で精一杯利用させてもらうことにした。もちろん、第三者がいる場所ではそんな態度をしたことは無いけれど。
あとは、現実を受け入れたくなかったとか、そんな子供っぽい理由だ。いままでかぶってきた仮面に、音を立ててひびが入っていくのが分かった。
わたしの返事が無いことをこれ幸いと、ウォーレンは言葉を続ける。
「仕事内容は文字通り警察組織の内部調査だ。しっかり仕事をしているかを調べてくれ。期間は特にないが……。なに、心配しなくても適当に時間が経ったら呼び戻してやる。内容が内容なだけに気を抜けとは言わんが、まあ、君一人だ。ここにいるよりもゆっくりはできるだろう」
身も蓋もないことを言われる。話している本人もどうかと思っているのだろうか、書類の間からわたしを見る目は同情に満ちていた。
任務の内容だって、本当なら完全に越権行為のはずだ。警察の捜査が適正かどうかを軍が監視するなんて、嬉しい顔をされるはずがない。しかも、わたしひとりで行けと言うのだろうか。それでは、監視することも満足にできないはずだ。わたしひとりでできることといえば資料の整理くらいだ。どう考えたって普通じゃない。
普通に考えるなら左遷だ。または特殊任務か。どっちにしても、面倒くさいことに巻き込まれたのには違いないと思う。少なくとも出世コースからは外れてしまったんだろう(だけどわたしだって、元から出世できるとは思っていないけれど)。
つまりわたしは、何らかの事情があって差し出された生贄ということになるのだろうか。
「俺からの話は以上だ。行ってよし」
わたしとの壁の役割を担っていた資料はそのままに、上司は机に広がっている書類へと視線を戻しペンを走らせる。いくつかの部分にサインをし、印鑑を押す。そしてそれを右の山へと重ね新たな書類を左から引っ張り出す。その作業を延々と続ける。
その数分後、
「………………」
チラリと、ウォーレンは視線を上げた。そして顔をしかめる。なぜならきっと、先ほどまでと同じ幹部が着る軍服が見えたからだ。
だいぶ小柄で、男にしてはずいぶんと丸みがある。そして、袖から出ている手に握られた書類は、まさに先ほどウォーレンが手渡したもの。
はぁ、とため息が聞こえた。
「『行ってよし』……と言ったはずだが?」
「『行け』とは言われていませんので」
「……そうか」
わたしの態度は、他でやれば一発アウトなのは確実だ。わたしもそれは理解している。だけど、こと目の前の上司ウォーレン・ホリングワース大佐に対しては別だ。
彼は、わたしの家と関係があったためにわたしを受け入れることになったと前にぼやいていた。それに、わたしに対しての「俺にかしこまる必要はない」発言もある。よっぽどのことをしない限り、彼の立場と性格がわたしをどうかすることを許さないだろう。彼にのみ使える不服を訴える手段だ。
頭痛を覚えたのか、ウォーレンがこめかみをグリグリと押さえる。
「大佐。質問よろしいでしょうか」
「………………」
「大佐」
「解った。何だ」
向こうからしたら聞きたくないことなんだろう。だけどこんな人事を下した罪悪感があるのだろうか。疲れた声で、大佐がわたしに質問を許可した。
「これは……つまり左遷でしょうか?」
「ノーだ」
目をそらされた。
嘘つけ。その言葉を飲み込む。
「失礼しました。では、わたしは何か問題行動を起こしたのでしょうか? 反抗的な態度を取った記憶がないのですが」
「俺にはしているだろう」
「事実に基づいた意見具申です。私情を挟んだことはありません。あ、笑顔が無いとはよく言われていますので、そういうことでしたら努力いたしますが」
「…………いや、いい。君に笑顔を向けられるのは気味が悪い」
なぜか身震いをされた。失礼な。わたしだって本当はこんな性格じゃない。
人並みに笑っている自覚はあるし、年頃の趣味だってある。周りにとやかく言われるのが嫌いだからこうしているのだ。この仮面を取っても良いというのなら真っ先に叩き割っている。
「分かった。正直に話そう」
壁になっていた書類の束をどけ、大佐がわたしと対峙する。その顔は真剣だ。わたしから目を背けることもない。
「まず、初めから話すと……つい最近だが上層部のひとりに大きな事件があった。噂になっているか?」
「はい。たしか、軍上層部の息子さんがワイト島で失踪してしまったとか」
「その通りだ。今回君に参加してもらうのはその捜査だ」
「しかしなぜです? 我々よりも警察隊の方がそちら方面の能力は高いはずです。これではまるで、警察組織そのものを疑っているようなものでは……まさか」
「君の想像通りだ。上の誰かさんは警察そのものを疑っている。上の者は上の者同士で会う機会が多いからな。
もしかしたらと思っていた仮説ともいえないわたしの思い付きは、どうやら当たっていたらしい。というより、普通に考えればそれ以外には確かに考えられなかった。
まず前提として、行方不明者の捜索に軍を使うことはあり得ない。それは警察の仕事だった。もし万が一捜索に協力したとしても、近い場所に配属されている部隊を動かすのが定石だ。間違っても、たった数人だけを派遣するなんてことはあり得ない。それはもう、探すことそのものが目的じゃない。
すなわち、本気で探したいというのなら、ワイト島から遠く離れたここオルダーショット駐屯地からわたしひとりを派遣する意味なんか全くないのだ。どんな馬鹿であっても、こんな場所から人員を……ましてや一応とは言え幹部を出すなんてことはあり得ない。素面でこんなことを真面目に考える者が上層部なら、今頃この国は植民地に成り下がっていただろう。
学の無いわたしにも、流石にこの国の上層部がそこまで間抜けだとは思えなかった。だとすれば、残る可能性は一つしかない。
「……警察隊が何か真相を隠蔽している――上はそう思っているのですか?」
「そういうことだ」
こめかみをグリグリと指で指圧しながら、ウォーレン大佐は肯定した。
「まぁ流石に、上層部でその意見を声高に主張したのは当事者の一人だけで周りは考えすぎだとなだめたらしいがな。この役職も一応彼をなだめるためにと作ったにすぎん。先ほど言った通り、動くのも君だけだ」
「どうしてわたしが……いえ、やはり結構です」
「そうしてくれ。俺も言いたくはない」
言わなくても分かった。というより、それが理由に入らないなんてことはあり得ないことくらいわたしにも解っていた。ウォーレンがそのことを口にしなかったのは、わたしに気を使ってに違いない。
簡単な話だ。養子とはいえ、わたしの身分が一応貴族令嬢だからだ。きっと、何度この人選がやり直されてもわたしは必ず選出されるはずだ。リーナ・オルブライトという少女そのものが、軍では不良品なのだ。実践に投入することはできない――身もふたもない言い方をすれば、時限爆弾だからだ。
養子とはいえ、イギリス軍と深いかかわりを持つウォーレン家の令嬢。そんな人物を戦場に出して傷物にするわけにもいかない。身分を差し引いても、わたしの性別が女性という理由だけで実働部隊には送りづらい。
想像してみれば簡単な話だ。もしも、名家のお嬢様が前線で負傷――それも怪我ではなく心の病で、しかも犯人は同じ軍の男ども――なんとことになれば、目も当てられない。どれだけ優秀な人材だろうと、勝手に問題が起こってしまうようなら危なくて使えるはずもない。
どんなに性能がいい銃でも、必ず暴発するなら怖くて使えない。
どんなに威力がある爆弾も、いつ爆発するのかわからなければ怖くて使えはしない。
事実、少尉という階級にもかかわらずわたしが自分の部隊を持っていないのがその証拠だ。ウォーレンの秘書のような役割をしているのもそれが理由だ。おそらくわたしがここに配属された理由も、ウォーレン自身が以前にわたしと面識があったから押し付けられたんだろう。誰だって問題の種は抱えたくない。出世がかかっているならなおのことだ。目の前の上司には申し訳ないという気持ちしかない。
つまり、身も蓋もない言い方をすると、わたしは存在そのものが軍人には向いていないのだ。だからわたしに白羽の矢が立ったことだって何の不思議にも思えない。……とは言っても、わたしからしたらたまったものじゃないけれど。
「他に質問はあるか?」
「……いえ。特には。お手を煩わせてしまい申し訳ありません」
「よろしい」
軍の命令は絶対だ。拒否権はない。それにわたしが望んでここに来たのだから、本当に拒否するつもりなんてない。文句を言いながらもわたしが断ることは無いと察してくれたのか、わたしの態度についての追及はなかった。
もしかしたら、早くわたしを出て行かせたかっただけかもしれないけれど。
「それでは、改めて命令を下す。リーナ・オルブライト少尉。本日付で『ワイト島警察捜査調査官』の任を与える。三日後から捜査に励んでくれ。以上だ」
◇◆
わたしの趣味は、部屋にこもって本を読むことだ。
部屋の日当たりがいい窓のところに座って、本のページをまくるのが好きだ。そうやって午後を過ごすのが、わたしの休日の過ごし方だ。休みの前日には新しい本を見つけてきて、ページを夢中でめくってだいぶ夜更かしをすることもザラだ。
この歳になってもわたしの本の趣味は割と子供っぽい。現実世界を舞台にしたものではなく、『オズの魔法使い』や『ケンジントン公園のピーター・パン』みたいな、剣と魔法の世界。それに、『海底二万マイル』や『地底旅行』もお気に入りだ。
この本の趣味は、貴族社会に連れてこられた十二歳になってやっと文字を習い始めたころから変わっていない。多分、そのころのわたしがそういった子供向けの絵本やファンタジー小説を文字の読み書きの練習として使っていたからだと思う。
だけどきっとそれだけじゃないんだと勝手に思っている。本を読んでいるときは自分の世界にこもっていられるから、小さいころからあこがれていた「まだ自分が行ったことのない場所に行く」ことを本の中では追体験できたからという側面もあったと思う。
ともかく、わたしは軍に入ってからも、休みの日は本を探して読むことが趣味になってしまっていた。きっと今度は、堅っ苦しい軍での人間関係から逃げたいという願望がそうさせているに違いない。だって部屋にこもっている間は、素のわたしでいることができるから。物語の世界に没頭している間は、現実の嫌なことは全部忘れられる。もし一人暮らしをしていなかったら、きっとわたしの顔はすでに仮面みたいに固まっていただろう。
だけどもちろん、部屋にこもっているばっかりでもない。ちゃんと外出もする。食材や服を買い出しにもいくし、本を買うために古本市に行ったりもする。わたしは別に部屋にこもっていること自体が好きなわけではないんだ。
昼過ぎに買い出しに行って、いつも決まったパブでランチを食べる。二時半から五時半まではパブが営業できないから、わたしが行くのは決まって一時半くらいだ。人が込み合っているから座れないこともたまにあるけれど、その込み具合だってわたしは好きだ。耳をすませば(マナー違反)、噂だったり耳寄りな情報が手に入ることだってある。その喧騒をBGMにして、買い物の予定を立てるのだ。
だけど、今日は別だった。
いつもなら気にしないこの込み具合も、今日ばかりはわたしにとっての試練みたいに感じてしまう。
「――――はぁ……」
例のごとく、パブは込み合っていた。当然座るところなんてなくて、壁際の端に陣取ってランチを食べる。カンターとは遠く離れたこの場所は、混んでいる中でも比較的人口密度が低い。
と、
「そんなに落ち込まないの。リーナったら」
「んー……」
一緒にランチを食べていた親友が、ため息をついて呆れるようにそう言った。そして慰めるようにわたしの腕をつつく。
さばさばとした口調で話すこの赤毛の女性はオリヴィアだ。このパブの店主の娘で、普段は裏で色々と作業を手伝っているのだが、非番な日はこうしてわたしのお昼ご飯に付き合ってくれたりする。
彼女とは、知り合ってもう一年の付き合いだ。わたしよりも少しだけ年上で、こうして悩みや愚痴を茶化しながら聞いてくれる。このパブに来ているのは半分以上この親友目当てだ。
わたしの身分を知っても物怖じしなかったし、対応も全く同じでいてくれた。わたしが詮索しないでといったことは律義に守ってくれて、それでいて踏み込むことは踏み込む。無神経というわけではなく線引きをきちっとしてくれている感じだ。
彼女と一緒にいるとき、わたしは何も考えなくていい。オルブライトではなく、リーナとして動くことができる。それがとても楽で、そんな彼女との会話は心地いい。
ぐでーと、壁沿いの突き出た部分にうつぶせになる。年頃の娘がするにはいささか……だいぶふさわしくないが、そんなことは知ったことではない。どうせここはパブなのだから、迷惑をかけないのなら別に何も言われない。それに、仕事以外であんな堅っ苦しい仮面なんかかぶりたくない。
だが、オリヴィアは「ちょっと」と言って耳元でささやいてきた。
「ていうか、そんなに疲れてるならここじゃなくて別のところ行きなよ。せめてサルーン・バーの方にさ。あんた一応軍の幹部だし、それにお嬢様なんだし」
「いやよ、わたし養子だもん。こっちの方がわたしには合ってる」
「アンタがいいなら良いんだけどさ」と言って、それ以上オリヴィアがその提案をすることはなかった。
チラリと、横目でオリヴィアの方を見る。予想に反して、オリヴィアは特に何も気にするようなことはなさそうな表情で紅茶を飲んでいた。あまり考えずに発してしまった言葉だったから、気を悪くしてしまったんじゃないかとヒヤッとした反動で、ほっと胸をなでおろす。
紅茶を置いたオリヴィアと目が合った。わたしはどんな表情をしていたのだろうか。オリヴィアの顔に苦笑が浮かんだ。
「だからそんなに気にしないの。たかが人事異動でしょ?」
「でも、これ絶対左遷じゃない……」
そうは言っても……と、リーナは再びため息をつき紅茶を口に含む。肩掛けバッグに入っている自我なき指令書が、なぜか無性に憎らしい。
なぜ自分が選ばれたのか、その理由をはっきりと自覚してはいる。自分が軍にとってどれだけ扱い辛いのかということも理解している。
軍に入る以上、ある程度のことは覚悟していた。
女であることから常に付きまとう基礎体力的なハンデ。それ以外にも、おまけのようなものとはいえ自分が上流階級であるということ。確かに軍としては実践に使いづらいとは思う。射撃訓練以外の仕事のメインが、ウォーレン大佐の秘書みたいなことなのもそのせいだと思っている。
でも、理解しているから納得できるわけでもない。感情をコントロールできるわけでもない。腹が立つことは腹が立つのだ。
「捜査をちゃんとしてるか見張るなんて、絶対いい顔されないじゃない」
「でも行くんでしょ?」
「行くわよ。早く見つけてあげたいじゃない」
「あはは、それでこそリーナね」
カラカラと、オリヴィアが明るく笑う。
見透かされているような気がして、なんだかおもしろくない。よっぽどしかめっ面をしていたんだろうか。突っ伏している頭をオリヴィアがやさしくなでてくれた。それだけで、気持ちが少しだけ落ち着く。
年上なのに、全く対等な目線で話してくれる。でもやっぱり言動はわたしよりも大人で、姉がいたらこんな感じなんだろうなといつも実感する。いままでは甘えることなんてできなかったから、この関係がとても居心地良い。
「いつ行くんだっけ?」
「三日後」
「ずいぶん急ね。でもまあ、内容がそれならむしろかなり温情的かも……じゃあ」
と、何か思い出したようにオリヴィアはカバンを開ける。その中に手を突っ込み、何か探すようにバッグの中をまさぐる。
出してきたのは、手のひらサイズの紙袋だ。
「ほい。手、出して」
「?」
お菓子か何かだろか、そう勝手に思って言われた通りに両手を出す。
だけど何かが出されるわけでもなく、それがそのままわたしの手に置かれた。
「これあげる」
「え? これなに?」
「開けてみて」
「うん……あっ、きれい!」
「骨董市で見つけたのよ。なんだか気になっちゃって、衝動買い」
紙袋から出てきたのは、ペンダントだった。
月と太陽をかたどった模様。羅針盤のような丸いプレートの真ん中に澄んだ青色の石が入っている。まるでそれが、ペンダントそのものを土星のように見せている。何の石なのかは分からないが、光にかざすと青以外にも赤、緑、橙、紫といろんな色が石の中で煌いている。
デザインは奇抜なものではない。言ってしまえば女物でもない。でも、わたしはこのペンダントに不思議な魅力を感じた。言葉では言い表せないけれど、不思議とこの石に吸い寄せられる気がする。
「本当にいいの?」
「もちろん。私からの餞別ってことで」
「ありがとう。わたし、頑張るわね」
「ええ。帰ってきたら、また寄ってちょうだいな」
言われなくてもそのつもりだ。
ここに来ているのは、あなたと話すためなのだから……とは、気がついていないのだろう。
◇◆ ◇◆ ◇◆
時は少しさかのぼり、リーナがウォーレンのいる部屋から退出して少ししたころ。場所はその部屋の中。
「……はぁー……、やっと行ったか」
足音が扉の向こうから聞こえなくなり、ウォーレンは大きく息をついた。ようやく出て行ってくれた、まず初めに浮かんだ感想はそれだった。
引き出しから紙巻たばこを取り出し、一本引き抜いて火をつける。葉巻ではない。五分程度という短時間で吸える紙巻の方がウォーレンにとって好みだった。しょっぱさと香ばしさが混ざったような味がざらざらと舌を撫でつけて肺に入ってゆく。
ふぅー……、と煙を吐き出す。紫色の靄がウォーレンの周りを漂いだし、シガレットの先から出ているものと混ざり合う。赤い色で煌々と燃えながら、十ミリシガレットの巻紙が灰になっていく。二、三度吹かすと、たまっていた疲れが煙と共に吐き出されていくような気分になる。
何の気なしに肩と首を回してみる。ゴキゴキ、パキキというあまりしてはいけない音で首が悲鳴を上げた。肩の力を抜く。それでも身体が強ばっているのが分かった。頭も重い。よっぽど疲れがたまっているようだ。
この症状は、彼女と――リーナ・オルブライト少尉と過ごすと特に顕著だ。おそらく、彼女のまとっている空気の所為だろう。壁があるというか、冷たいというか、仕事以外のことでは不必要にかかわってくることがなかった。貴族というだけで言い寄られることがあるウォーレンにとって、その対応は願ってもないことのはずだった。だが、あそこまで何もないと流石に調子が狂った。
機械を相手にしている、とでも言えばいいのだろうか。正しく接すれば期待通りの答えが返ってくるのだが、それ以上はない。食事に誘おうとも予定が入っていると断られ、仕事以外の話を振っても必要最小限のことしか話さない。しかもそれを懇切丁寧な態度で話されるものだから、その態度を無礼と言ってしまえば普段の自分は一発アウトだろう。とは言え、齢三十二になる男に言い寄られてもいい気はしないのかもしれないが。
ただただ話し方に冷気を帯びているというか、無機質だ。仕事以外のことはしない、スペック以上のことはできない、機械を人間にしたらこんな感じなのだろうというのが彼女だ。
だから、今回の移動の件も黙って了承するものと思っていた。しかしここに来て初の反抗。それも初期のころにウォーレン自身が言った台詞を盾に使ってだ。正直、いつ爆発するのか日ごろから心配になっていたのだ。彼女から漏れ出てくる感情に気が付いてしまうと、無下にもできなかった。ありがたいことに結局杞憂に終わったが。
それにしても、考えれば考えるほど彼女のことが解らなくなる。なぜ彼女がここにいるのか。彼女がウォーレンのところに配属されて(半ば押し付けられて)来てから暫くだが、どれだけ経っても理由が判らない。
リーナ・オルブライトという少女は、聞けば聞くほど不思議な経歴を持っている。
生まれは、スラム街と言ってもいいロンドンのイーストエンド。周りと何ら異なることもなく、彼女の家も決して裕福とは言えない家柄だったはずだ。父親はいないと聞いている。病弱な母が死んだあとは幼少期を孤児院で過ごしている。
そして何があったのか、十二で上流階級であるオルブライト家に養子として引き取られている。その後これまた何が起こったのか、十七で王立陸軍大学に入学。裏で何が起こったのかは知らないが一年弱でとりあえずは卒業(そもそも本当に籍があったのかは疑問だ)。そして一応少尉という階級に昇進して今に至る。
見れば見るほどに不思議な経歴で、未だになぜ軍に入ったのかが分からない。どうせなるなら警官の方がなりやすかったはずだ。最近、女性警官を入れてはどうかという話がされていると噂で聞く。
ましてリーナという少女は、ひいき見ずとも容姿端麗なのだ。整った顔立ち、金糸のように細く艶やかな長髪、澄んだガラス細工のような碧眼。婿相手には困らないような容姿だ、実働部隊として動かすよりも広報として使った方が良い。だとすれば、やはり女を受け付けていない軍よりも、警官になった方が待遇は良かったはずだ。
――本当に、なぜここに来たんだ……。
答える者はいない。その疑問をぶつけるのに最もふさわしい相手は、今しがた追い出した。残り三分の一になったシガレットを灰皿にこすりつけて火をもみ消し、二本目に火をつける。煙を吐きながら、何の気なしに上司とのやり取りの場面を思い出していた。
正直に言えば、この話が来た時ウォーレンは断ることができた。この人事を持ってきた上司は、制服組の中でも話の分かる者だった。自分には現場のことが解らないからと、白羽の矢が立ったリーナの直属の上司というだけで、ウォーレンに話を聞きに来たのだ。あのとき何か適当な理由を付けていれば、リーナから矛先を移すこともできた可能性は高い。
だが、ウォーレンはあえてそれをしなかった。それは、ウォーレンなりにもリーナという少女とその環境に思うところがあったからだ。
一向に相談してはこないが、彼女の置かれている環境は決して居心地の良いものではないはずだ。今はまだそのことをおくびにも出さないが、あのままではいつかきっと限界が来てしまうことは彼女以上に想像ができた。女であるというだけでも異物として見られる上に、軍の、それも制服組候補生同士の嫌がらせはなかなか応えるものだ。
今回の転属は、いい休みとなるだろう。申し訳ないが、彼女が向こうに着くころには子供は死んでいるだろう。この少女のことだ、やらなくてもいいほどのめり込みはするだろうが、それでも同僚からの嫌がらせからは解放される。だがそれだけでも、心の安寧を取り戻すことくらいはできるはずだ。期間は、ちょっとしたバカンス程度で戻すことを考えておく。
これは、単に厄介払いがしたかったためだろうか。それとも、軍に入る前からの知り合いであったリーナという少女に対しての情だろうか。
彼女の家が管理しているカントリーハウスがワイト島にあったことを思い出しながら、ウォーレンはしばらく煙に囲まれ自問自答していた。
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