『魔女ノ旅行記 ーPlatinum Artsー』旧題:魔法使いと植物図鑑 ーThe Mage and Magic arts Tree bookー

海崎 翔太 / 紅(クレナイ)

第一部 魔法冒険譚イギリス

第1章 Departure for the Fantastic World

第1章ー1 プロローグ

 (1) —— 1910年 8月1日 午前2時20分 ロンドン イースト・エンド ――


「これは、ひどい……」


 思わず発したその言葉は、決して不相応なものではなかったはずだ。

 せり上がってくる吐き気に、手で口を覆い隠すことで堪える。いままでこんな場面に出くわしたことが無かったからだろう。やらなくてはいけないこと叩き込まれたことはすべて白紙となり、どれだけ立っていてもその気持ち悪さは引くことが無かった。


 頭がクラクラする。脳から血が引いていくのがはっきりと分かった。未だに口を押さえている手は小刻みに震えているし、四肢の先は異常に冷たい。この震えは、絶対に目の前の『コレ』の所為だ。


 見たのは初めてだった。


 このままではいけない――そう思っているに身体が動かない。

 動かなくては――そんな簡単なことにさえ思考が行かない。


「――――……。」


 まるでにでもかかったように、呆然とソレを見下ろし続ける。


「おい。何してる」


「――っ!!」


 我に返ったのは、肩を叩かれた時だった。


 背中の向こう側にいたのは、見知った上司の顔だ。どうしてここに居るのか……そうだった、今日は一緒の仕事場だったのだ。というより、一緒に巡回をしていたのだからその言い方もおかしいか。


 ついさっきまで、自分の仕事は道で眠った浮浪者たちを蹴り飛ばすことだった。それなのに、手分けをしていた上司がコレを見つけてしまったため、半ば強引に引きずられてここに来たのだ。なんと運の悪いことか……。


 数秒遅れて、いまに至るまでのことをようやく思い出す。やはり、頭の回転が鈍い。


「……お前、見るのは初めてだったか」


 よっほど青い顔をしていたのだろう。

 先ほどの声に込められていた怒気はなりを潜め、代わりに浮かんでいたのは同情に似た感情だった。肩に置かれた手も、先ほどのように力がこもっていない。


「はい……座学では教わっていたのですが……」


「まあ、実物は比べ物にならんわな」


 息子の頭でも扱うかのように、優しく二、三度叩かれる。

 こくりと頷く。その言葉には、大いに賛成だ。目の前にあるこれは、警察学校で習った物とは雰囲気、凄惨さ共にまるで違う。


 目の前に転がっていたのは、死体だった。ただの死体ならこんな醜態はさらさなかった。こうなってしまったのは、この死体が異常だからだ。


 例えるならそれは、マリオネットの残骸だ。


 全身がバラバラに引き裂かれ、本来の場所に本来の部位が付いていない。足が手に、腰が腹に……見ているだけで吐き気がこみ上げてくる。子供だってもう少しマシなものを作るだろう。


 と、不意に。


「ほら。見てみろ」


 ぐいっと、上司が死体の襟をまくり上げた。

 首のあたりが露出する。そこにあったのは、明らかに規則性を持った何かの刺青だ。丸を描いたその中に、読めない文字と複雑な線が引かれている。丸の中だけではなく、首のあたりを起点として、恐らくその下につながっている。


「…………決定だな。十中八九、仲間割れでもして殺られたんだろう」


「どうして……こんなことを」


「俺に訊くな。悪魔の儀式だかしらねぇが、まともじゃねぇ奴らの思考なんか解るかよ――ったく、内輪揉めで余計な仕事増やしやがって。死体処理くらいてめぇらでやれってんだよ」


 死体の身元の所為だろう。上司の声色からは同情やいたわりといった感情は無くなっていた。仰々しくなされた嘆息は、これから待ち受ける面倒くさい仕事を思い出してだろうか。しかし面倒くさいと言っても、これは貴重な被検体だ。勝手に捨てて見なかったことにもできない。


「………………っ」


 気づくと、拳を固く握りしめていた。それは多分、目の前の死体が一般人だったらと考えてしまったからだ。


 今日はまだ、運がよかった。死んだのは、奴らの中の誰かに過ぎない。所詮は内輪もめで、一般人が犠牲になることはなかった。だがいつもそうだとは限らない。


 つい先日も、罪のない一般人が犠牲になっていた。ある日突然、何の前触れもなくやられるのだ。実験体という、納得しようのない理由で。


 しかしこの事件は、公にはされていない。毒牙にかかっているのが全て労働階級の低所得者だからか、それとも上層部が何か弱みを握られているのか。


 といっても、そんなことを考えてたところでできることは何もない。下っ端にできることと言えば、現場を駆け回ることだけだ。


 だから、


「よく見とけ。こんなことをする人種はアイツらしかいねぇ」


「はい……」


 一刻も早く、我々が止めなくてはならない。

 悪魔の所業を行う、極悪非道の犯罪者たちを。


「これが、魔術師だ」


 魔術師と呼ばれる、人の皮をかぶった悪魔たちを。



          ◆◇



 1910年――科学は魔法を駆逐しつくした。

 神秘は解明を恐れ、人の世界から姿を消した。


 しかし、その神秘を視ることのできる者もいた。そして、神秘を人から隠す者もいた。


 前者は地球に生まれ、正体を隠して生きる。通り名は〝魔術師〟。

 後者は別の世界から現れ、人間たちに紛れて神秘の世界に生きる者たち。



 彼らは、魔法使いと名乗った。


     

 (2) ――Departure for the Fantastic World――


 定期的な揺れに混ざった、お尻から突き上げるような不意打ちの振動で我に返る。


 揺れに頭を掻きまわされて、何を考えていたのか一瞬だけ分からなくなる。でもそのあとすぐに、そもそもわたしは特に何も考えていなかったということを思い出す。


 窓の外に見えるのは、相変わらず代わり映えのしない青々とした田園の風景。夏も過ぎた九月のこの時期、都市から都市を渡る間は決まってこの風景なのがイギリスの特徴だ。


 今は何時だろうかと懐中時計を見る。時計の針が指す時刻は午後一時。だとすれば、ロンドンまではあと二時間くらいだろうか。


 何の気なしに、列車内を見渡す。


 ロンドン〝ウォータールー・メインライン駅〟行きの蒸気機関車、その二等客車――人でごった返す三等客車とは打って変わり、落ち着いた内装と余裕のある席が目に入る。一車両向こうとこの客車を見比べると、なんだか申し訳なく思えてしまう。


 視線を前へと移す。

 向かい合った前の席には、小柄で黒髪の少年があどけない表情で寝息を立てている。


 そしてその横で、せっせとオレンジを剥いているもっと小柄な少女。ハンチング帽からはみ出た髪の色は、剥いているオレンジと瓜二つ。


 ふと、彼女と目が合う。少しだけ不思議そうに小首をかしげた後、何か思いついたように明るい笑みを浮かべる。


「リーナさんもどうぞ」


 ほんの少しだけ舌足らずで、鈴を鳴らすような心地良く透明な声。

 目の前に、剥きたてのオレンジが差し出された。

 どうやらわたしの目は、相当彼女の剥いたオレンジを食べたがっていたらしい。


「いいの?」


「はい。もともとふたりで食べるつもりでしたから」


「ありがとう、ソフィちゃん。いただくわね」


 わたしの言葉に、彼女はくすぐったそうにはにかむ。少し前まで声をかけただけで怯えられていたあの頃に比べれば、これは大きな進歩のはずだ。それを肯定するように、彼女がくれたオレンジは飛び切り甘い。


 そして、彼女が言った〝ふたり〟とは、もちろんわたしのことじゃない。

 目の前で熟睡している、彼女の相棒でもあるこの少年のことだ。


 少しだけ寒そうだったから、彼の膝上に丸めてあったジャケットを首元までかぶせてあげる。それでも身じろぎひとつなし。まるで、寝ることに全力をささげているかのようだ。


「……本当にぐっすりね」


「このところ夜更かし続きでしたから」


「あれだけ暴れればそうよね。…………わたしを頼ってって言ったのに」


「自分で選んだことだから、自分ひとりでやりたかったらしいんです。私にだって書類一枚も手伝わせてくれませんでしたから」


「そうなのね。……じゃあ起こさないようにしなくっちゃ」


「はい」


「あ、ソフィちゃん、〝耳が出てる〟」


 彼女が被るハンチング帽が、不自然に持ち上がっている。脱げにくいという売り文句のはずのその帽子、その隙間から姿をのぞかせるのは、人間にはあるはずのないオレンジ色の三角耳。


 頭の上から生えている、


「え? ……あっ」


 触って気が付いたのか、彼女は慌てて帽子を押さえる。取り乱したのだろうか、服の背中が不自然に盛り上がってうねっている。きっと、動いてしまってるんだろう。


 告白しよう。彼女の名前はソフィ、狐憑きだ。

 そして、目の前で熟睡する少年はハル。職業――魔法使い。


 いや、この書き方は些かインパクトに欠ける。

 もし小説を書くとしたら、どんな語りだしがいいだろうか。


〝わたしは、魔法にかけられた〟

 それはいつから? どこで? どうして?


 きっとあの時だ。


 だから、書き始めはこの言葉にするのが一番しっくりくるのだろう。



『1910年 8月11日

 わたしは、ドラゴンに出会った』



 これは、わたしが魔法に出会い、魔法が解けるまでの物語だ。


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