第2話――謎の伝染病

「原因不明の病気だって!?」

「しぃーーっっ!!」


 思わず大声を出してしまったアラシロの口を、テーブルの向かいに座った飼育部医療課に所属するイマドキが慌てて塞いで黙らせる。パーク中央部の病院に勤める友人の今時知恵イマドキトモミは腰を浮かせたままキョロキョロと店内を見回し、誰にも聞かれていないことを確認して大きく息を吐く。


「……声が大きいっ。これはまだ一般には公表してないだからっ」


 イマドキが声を潜め、しかし出来る限り大きな声でアラシロを叱りつける。パーク中央区のとある喫茶店。時刻が正午ということもあり、店内は客で溢れかえっている。客層の大半は島外からの観光客だったが、中にはパーク内の施設に勤めている者もいる。お互いに非番で私服ではあったものの、どこで誰に聞かれてるか分からないこの状況なのだ。神経質になるのも無理ないのかもしれない。


「すまん。しかし、その病気って話、本当なのか?」


 アラシロが塞がれたままの口でモゴモゴと尋ねる。イマドキは頷いて手を離すと、落ち着かせるようにコップに口をつける。「話がある」とアラシロが誘って喫茶店を訪れて以来、同じ事を何度も繰り返してるおかげでコップには一滴も入ってない。


「本当よ。一ヶ月前、あるフレンズが吐き気とめまい、それから軽い下痢を訴えて病院を訪ねてきたの。診察をした医師は、それを単なる夏バテと判断し、その日は栄養剤の点滴だけして家に帰らせた。実際、血液検査でも特に問題は見つけられなかった。――ところがその十日後、担当飼育員からの通報で緊急搬送されたそのフレンズの容態は劇的に悪化してしまっていた。その時点ですでに同様の症状のフレンズが何人も報告されていて、そこで初めてただごとではないと分かったの。伝染していることは明らかにもかかわらず、病原菌が見つからない。原因不明の伝染病のようなものが蔓延し始めているということで、極秘にだけど調査委員会が設立されたのよ」

「なるほど。昨日ウチにやってきたガドウとかいうのは、その調査委員会のヤツだったんだな」


 言いながら、ガドウのあの横柄な態度を思い出して顔をしかめる。イマドキも心当たりがあるらしく、「あぁ」と曖昧に視線を逸らす。


「飼育統括長のガドウさんね。カコ博士の同期でパークが正式オープンする前からここで働いてるわ。だからああ見えて、実績はあるの」

「実績はあってもあの態度じゃあなぁ」


 アラシロが宙を見据えてため息を吐いたときだった。スッと視界の端に人影が映る。見ると、それはニホンオオカミのフレンズだった。ウェイトレスを表すエプロンに赤い蝶ネクタイを着けた彼女がテーブルの空になったコップに水を注ぐ。アラシロと目が合い、ちらりと微笑んだ。


「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

「注文? 注文、ええっと」


 すっかり話に夢中になっていたアラシロは不意打ちを食らって慌ててメニューをめくる。パラパラとページをめくり、ふと青いソースの掛かったパフェが目に留まった。


「あー、この青いパフェ一つ」


 名前を読み上げるのもまどろっこしく、アラシロはパフェの特徴だけをニホンオオカミに伝える。メニューには色とりどりのパフェが載ってるものの、青色をしてるのはそれだけだった。それだけ言えば伝わるだろうと思ったアラシロは、しかしニホンオオカミにが困ったようにメニューを見つめて固まってるのに気づいた。


「青、ですか……。それは、その……」

「ん、どうしたんだい?」

「あ、その。すいません。青色ってどれのことでしょうか……」

「えっ?」

「七番のブルーベリーパフェをお願いします。私も同じので」


 ニホンオオカミの困る理由が分からずにいると、イマドキがメニューに手を伸ばして指をさしながら名前を読み上げる。それを見て、ようやくニホンオオカミの顔に笑顔が戻る。


「あっはい! 七番のブルーベリーカフェがお二つですね! わかりました!」


 そしてアラシロに向き直り、小さく頭を下げる。


「すいません。私、みんなの言う色っていうのが、いまいちよく分からなくて……」

「ん? それはどういう……」

「人間と犬科の子は色覚が異なるの」


 見かねたイマドキがやれやれと首を振りながらアラシロからメニューを取り上げる。メニューに印刷された色を一つ一つ指差して、


「具体的に何色がどう見えるのかは元となった動物の種類によって微妙に異なるけど、フレンズに対して何かをお願いするときは曖昧にならないよう伝えないと。トラブルの原因になるわよ」

「そうだったのか。すまない」


 頭を下げるアラシロに、ニホンオオカミは気にしてないといった風に笑う。


「いえいえ。そんな気にしないでください。むしろ謝るのは私のほうですよ。昔からヒトのお手伝いをしてるのに、失敗ばっかりですもん」


 トレーを抱いたまま、シュンと項垂れるようにして恥じ入るニホンオオカミ。そのどう見ても人間らしい反応から、このニホンオオカミという個体がフレンズになってからかなり長いことが見て取れた。


「謝らないといけないのは私のほうだ。本当にすまない。そうだ、お詫びに何か注文を」

「本当にいいんですって。――あ、でも、もしいいんでしたら、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」

 

 言って、ニホンオオカミが周りを憚るように視線を振ると、アラシロたちの横の空いてる席に滑り込むように座った。二人に顔を近づけ、ささやくような声で、


「……その伝染病って話、ホントなんですか?」


 爆弾のような発言に、アラシロとイマドキが顔を見合わせて凍りつく。どうして知ってる? と互いとニホンオオカミとを見比べていると、とうのニホンオオカミが困り笑いを浮かべて自身の頭を指差した。


「ええと、あの。そういえば人間ってあんまり耳が良くないんでしたっけ。さっきからずっと内緒話みたいにしゃべってましたけど、全部聞こえてました」

「あぁ……」


 ピクリと振り動くオオカミの耳に、イマドキの顔色が変わる。ため息と共に再びコップの水を飲み干し、自らの失言を悔いるように肩を落としてガックリと俯いた。ニホンオオカミが困惑したように二人を見比べてるのに、アラシロはふ、と笑う。


「いいよいいよ。気にしないでくれ」

「は、はあ」

「それより、たぶん聞こえてたと思うんだが、この話は」

「誰にもバラしちゃダメなんですよね。大丈夫です。分かってます」


 そう言ったニホンオオカミに、アラシロは頷き返す。顔を上げたイマドキも迷うようにだが頷いた。


「……ホントは、聞こえなかったフリしようかと思ったんです。ほら、人間の話にフレンズがあんまり首を突っこむのはよくないことですから」


 でも、と口ごもるニホンオオカミ。ぎゅっとエプロンの端を握ってるのを見とめて、アラシロは眼を細める。


「気になることでもあるのかい?」


 ニホンオオカミが何かを言いかけ、そして押し黙る。逡巡するようにアラシロたちを見つめ、ややあって諦めがついたように首を振った。


「……なんでもありません。気にしないでください。ごめんなさい、お邪魔しちゃって」

「何かあるなら相談にのるよ」

「本当に大丈夫なんです。大したことじゃないですから。っとと、メニュー通すの忘れてましたっ。すぐにお持ちしますねー!」


 タタッと厨房へ駆け戻っていくニホンオオカミを見送る。秘密は守ると言っていていたが、果たして。


「大丈夫なのか、あれ」

「……たぶん大丈夫だと思う。見たところ飼育員の補助なしで喫茶店で働いてるみたいだから、きっと第一等級だろうし。秘密とか約束とかの分別はある程度持ち合わせてると思っていいはずだから」

「第一……?」

「ああ、そっか。アラシロは知らないんだっけ」


 どういう意味かとアラシロが首を捻っていると、イマドキが咳払いをして。


「人間がフレンズへの行える干渉の程度は、そのフレンズの社会適応能力によって異なるの。具体的な基準や干渉の内容は説明すると長くなるけど、たとえば第四等級なら常時監視。最高の第一等級なら月一程度の訪問程度になるわ。自分の家が与えられ、仕事により金銭を得ることも、そのお金で何かを購入することもできる」


 「なるほど」と改めてニホンオオカミの素振りを思い出す。仕事ぶりといい、話し方といい、相当しっかりしてるように思えた。


「あれだけちゃんとしてるなら、とりあえず安心だな」

「そうね。――そういえば、あのニホンオオカミもガドウさんの功績の一つよ」

「ニホンオオカミがだって? たしかにあのウェイトレスの制服はいい趣味してると思う」

「いやっ、そっちじゃなくて……。フレンズが一緒に働いてるってことよ」


 ズルッと椅子から落ち掛けたイマドキが訂正を入れる。


「フレンズの知能を計測して一定以上のスコアを出した子に仕事を与える。今でこそ当たり前だけど、最初にそれを発案して実施したのがガドウさんなの。ニホンオオカミはその第一号の一匹よ。まだ飼育主任だったころのね」

「へえ。人は見かけによらないって言うが、本当なんだな」


 にしても、とアラシロは改めてイマドキを見つめる。


「ほとんどヒトと変わらないとは言え、フレンズと一緒に暮らすって大変なんだな」

「そりゃあね。見た目こそヒトだけど、中身は動物に近いからね。中には知能テストには合格したものの、ヒトの生活に馴染めずに元の生活圏に戻っていったフレンズも少なくないわ」


 そう言うイマドキの目に悲しげな色が見えるのは、医師という立場の中で実際にそういう例を何度も見てきたからだろう。ヒトに馴染めなかったフレンズ。警備員であるアラシロにも覚えがあった。度々観光客とトラブルを起こすハシブトガラス。今でこそ孤独な彼女にも、かつて担当する飼育員がいたのだろうか。


 ヒトとフレンズ。共通点は多いが異なる点も多い。むしろ、人間という体を除いて全く別種の生き物と考えていいのかもしれない。

 そこまで考えて、アラシロの脳裏にふと疑問がよぎる。


「そういえば。その例の病気だけど、それだけフレンズに感染者が出てるんなら、従業員や客にもかなりの被害が出てるんじゃないのか?」


 アラシロの質問に、イマドキが首を振る。


「たしかに、似たような初期症状を訴えて来院した人はフレンズ含めて多いわ。でも、そのほとんどはただの夏バテで、その日のうちに回復して帰って行ったか、栄養剤の点滴で事足りるようなものばかりだった。重傷化するのは必ず一部のフレンズのみに限定されてるわ」

「感染源は分かってないのか?」


 感染源、と聞いたイマドキがわずかに肩を震わせる。アラシロを見る表情に辛そうな色が浮かぶ。


「……調査委員会の総意としては現状、不明ということになってるわ。蚊やダニなど媒介動物がいるにしては発症者が少ない上に生活圏がバラバラ。飲み水など園内の飲食物が原因としても、それならもっと広い範囲で大量の発症者が出るのが普通よ。発症者は散発的かつパーク中央部に限られる。なにより、病原体が発見されないという点が不可解になってるわ」

「原因不明な伝染病ってことか……」


 アラシロが息を吐いて椅子の背にもたれかかる。


「夏バテに似た症状で、数日で劇的に悪化する病気にも関わらず、フレンズにのみ感染する病気、か。でも、ならどうしてガドウは私たち警備側に出入管理ログの提出を求めたんだろう? 入場者に対する赤外線サーモセンサーは人間に罹患しないなら意味ないし、搬入される資材はぜんぶ本土で検疫してるからパークに着いた品物を調べても意味がない。いったいどうして――」

「――持ち込み品検査」

「は?」


 イマドキがアラシロの視線から逃れるように俯いた。


「ガドウさんは、お客さんの持ち込んだ食品による食物アレルギーであるという説を唱えてるわ。奇病の正体は、本土から持ち込まれた食料品をフレンズが食べたことによるアレルギーであるという説で、調査委員会に強い圧力を掛けてる。実際、ほとんどのフレンズは入院させた途端、病状の進行が抑えられたの。ガドウさんはこれを、アレルギーの原因である食品を遠ざけたからだと――」

「待って、待ってくれ。それはつもり、こういうことか? ガドウは、これは警備側が持ち込み禁止品である食料品を見落としたことにより発生した食物アレルギーだと考えてるということか?」

「……現時点ではその説を最有力候補の一つとして調査を進行させようとしてる。おそらく、出入管理のログを提出させたのもそのためだと思う」

「……言いがかりもいいとこだ」


 アラシロは首を振る。出入管理の一環として、持ち込み品の確認は確かに行われている。持ち込みが禁止されてる物品流入を未然に回避するためだ。禁止品には、食料品も含まれている。客の持ち物から見つかり次第、その場ですべて廃棄させるのが決まりである。


 だがしかし、絶対に見落としがないかと問われれば、業務上まっすぐ首を縦に振ることはできない。

 このジャパリパークには、一日に何千もの人間が訪れる。その一人一人に検査は実施しているが、どの検査も基本的には問診票と口頭での確認をし、その他エックス線検査で荷物の確認を行う。そのどちらかに引っ掛かるものがあって初めて、鞄やトランク等の蓋を開けてアラシロたち警備員によるの目視点検が行われる。すべての荷物を徹底的に調べてるわけではないのだ。


 そもそも偶然ならともかく、悪意をもってして持ち込まれた場合、発見は容易ではではないだろう。

 つまり、検査のミスを疑われたら最後、それを完全に否定することはできないのだ。

 そのことをアラシロが説明すると、イマドキもとりあえず頷いてくれた。


「調査委員会側も外部からの流入説には否定的よ。中央港の検査で弾かれてるという意味もあるけど、そもそも食物アレルギーであるという証拠が見つかってないの。罹患者に対して行われた血液検査によると、それらのアレルギー症状を起こした際に顕著である好酸球の増加は見られなかった。症状の緩和したフレンズに対して行われた問診や、直近に摂取したであろう食物の経口負担試験でもすべて陰性。つまり、アレルギーの証拠は得られなかったの」

「なら、ひとまず安心ってことか」

「……そうでも、ないかもしれない」


「それはどういう意味だ」問い直そうとしたアラシロの前に、イマドキがハンドバッグから折りたたんだ紙を二枚取り出し、広げて差し出した。


「これは?」

「検査結果よ。片方は一度目の。もう片方はをした最新のもの」

「再検査……?」


 アラシロが用紙をのぞき込んで目を瞬かせる。パサパサとした感触の印刷用紙一面に薄い文字で様々な数値などが入力されていたが、それが何を意味しているのかよく分からなかった。


 用紙とイマドキとを見比べるアラシロに何かを察したようで、イマドキが軽く咳払いをして一度目の方を指でなぞる。


「これが一度目、つまり委員会から最初に通達を受けて私たちが行った、罹患したフレンズに対する血液検査の結果よ。リンパ球数などいつくか気になる部分があること以外、どの数値もおおむね正常値の範囲に収まってる。当然アレルギーの兆候もないわ。ところが――」


 トン、と少し乱暴気味に二度目の検査結果の用紙を指先で叩く。


「結果を送付して数日後、ガドウさんがやってきたわ。一度目の検査に不備があったため、委員会から再検査の要請があったって言ってね。もう私たちの行う検査は信用できないと、ガドウさんが懇意にしてる別の医療施設で検査が行われたわ。そしたらこの結果を出してきたの」


 いつになくトゲを含んだ言いようが、いかにイマドキが苛立っているかを現している。


「ガドウさん側による再検査の結果は、私たちの検査結果とは似ても似つかないものだった。ヒスタミン遊離試験によるアレルギー検査により、好酸球の異常な増加を検出していたわ。原因は不明、しかし何らかのアレルギーであることは間違いない。そういう結果を出してきたの。あの男は……!」

「待って、待ってくれ」


 アラシロは熱を持ち始めたイマドキの言葉を制する。


「つまり、イマドキたちが行った血液検査の結果には出ていなかったアレルギーの証拠が、ガドウの行った血液検査の結果には出ていたということだよな? さすがにおかしすぎるだろ。誰も疑問の声は上げなかったのか」

「上げなかったわけないじゃない……!」


 イマドキが大仰に息を吐く。


「検査結果を見て、私たちは呆れたわ。あんな全くのデタラメを提出する気かってね。幸い、こちらには罹患者の血液検査の記録があった。検体も保管してあったから、いつでも証拠を提出することができた。調査委員会へ直訴するため、再びデータを取りまとめたわ。でもダメだった。――提出直前に火事が起こったの」


 アラシロは目を見開いた。火事。昨日、隊員がそんなことを言っていた。病院で火事があった。燃えたのは検体保管室だと、そう言ってなかっただろうか。

 イマドキが心許なげに胸の前で手を合わせる。組み合わされた指が震えてるのは、途方もない怒りからだろう。


「昨日の早朝、病院で不審火があったの。検体保管室が全焼し、フレンズから採取した検体も、出力した紙データもパソコンに保存されてたデータもすべて失われてしまった。火事の直後、ガドウさんがやって来たわ。こんな危険な場所にフレンズを預けらるわけにはいかないと、入院していたフレンズは全員別の施設へ移されてしまった。その上、今後私たちは伝染病調査から外すと、そう言われたわ」


 ふ、と力なく笑い、イマドキは記録用紙を見やる。


「一夜にして私たちはすべてを失ってしまった。残ったのはこれだけ。誰かが規定を忘れてシュレッダーに掛けずにいたこの検査結果用紙一枚だけ」

「でも、調査委員会にはこの一度目の検査結果は提出したんだろ? それなら、ガドウの二度目の検査結果が明らかに数値が違ってることはわかってもらえるんじゃないのか? 私は門外漢だからよくわからんけど、明らかに違うデータが二つあれば、普通どっちが正しいのかを調べるため三回目の検査をするんじゃないのか?」


 アラシロの言葉に、しかしイマドキは首を振った。


「私たちもそれに賭けたわ。調査委員会に提出した検査結果二つを示し合わせて、不審点を説明し、更なる再検査を依頼しようとしたわ。でも、できなかった」

「どうして」

「調査委員会には、二度目の検査結果しか提出されてなかったの」


 一瞬、それがどういう意味なのか理解に苦しんだ。二度目とは、ガドウの用意した検査結果のことだ。それしかなかったとは、一体。


「調査委員会が持っていたのはガドウさんの検査結果だけだった。それ以外にどの検査結果も提出してもらってないと、そう言ってきたの」

「でも、渡したんだろ?」

「渡したわ。紙媒体とデータと両方でね。誰に渡したかも覚えてるわ」

「ならそいつを殴ってでも問い詰めれば――」

「貰ってないって言われたわ。そんなもの、受け取った覚えすらないって」

「なっ……」


 アラシロは絶句した。背筋に凍てつく刃を押し付けられたような、そんな気がした。思わず喫茶店内を見渡す。旅行客やパーク関係者でごったがえす店内。こちらを見ている視線は見当たらなかった。いつもの光景に見えるだけに、なおさら不審感を覚えずにはいられない。


「……それを使って不正があったことを公表することはできないのか?」


 言って、アラシロはテーブルの上の検査用紙を指差した。名前を口に出すのは、なぜだか恐ろしくてできなかった。


「調査委員会全員が敵ではないはずよ。それに、ガドウさんよりもっと上の立場に直談判を掛ければもしかしたら注意を引くことくらいはできるかもしれない。でも――」

「検査結果を改ざんし、そのために病院に火をつけるような連中が果たしてそれを許すだろうか、か」


 アラシロの言葉に、イマシロは肯定を含ませて視線を落とす。


「医療課はこの件から手を引くことに決定したわ。これ以上この件に介入すれば、何をされるかわからないって」

「……そうか」

「外部に報告することも考えたけど、パーク内の出来事に対しては行政はあてにならない」


 それに関してはアラシロも頷かざるを得なかった。行政はジャパリパーク内に出来事に関わることを嫌う。実際、病院での火事の一件も、イマドキの話してくれた通りの内容なら明らかに事件性のあるものだったが、事情聴取にやってきた刑事たちは当たり障りのない聞き取りだけしてすぐに引き揚げてしまっていた。彼らは放火の証拠を発見できなかったのだ。否――そもそも発見する気がないのだ。


 立場上、ジャパリパークは一動物園を標榜してはいるが、その内実は世界で唯一のサンドスター観測地であり、絶滅動物の復元を可能にする、言わば奇跡の島だった。運営母体による関連技術の研究も盛んに行われており、各国からも資金が潤沢に提供されている。政治的にも重要なポストに位置していることもあり、国からは半ば治外法権のような扱いをされていた。特にパーク運営に関することは口出しできない。まるで腫れ物に触れるような扱いぶりだ――。


 カラン――。視野の端から響いた乾いた音にアラシロは我に返る。コップの中の氷が溶けて崩れたのだ。流れ出した水の上に、流氷のように浮かぶ小さな氷の切片せっぺん


 小笠原諸島の端に位置する総合巨大動物園ジャパリパーク。氷は、大海に隔絶された此の地のようであり――。



 ――此の地の中で、孤立した自身のようだった。




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