006 嵐の前、静かなるひととき

「なんかすごい疲れたな……」

 カズを部屋の外で待っている間、地べたに座り込んだ僕とは対照的に、伴動さんはいつものように凛とした立ち姿を保っていた。

「とにかく、さっきはありがとう伴動さん。おかげで助かった」

 礼を言うと、伴動さんは短くなった黒髪をかき上げた。

「勘違いしないでよね。あなたをチョン切りたかったわけじゃないんだから」

「それは本当に勘違いであってほしい」

 伝統的なツンデレの形式を踏襲してはいても、どう転んでもデレにならない台詞だった。

「それにしても意外だったよ。君があんなに強い言い方するなんて」

「私はずっと言いなりだったから」と、彼女は小さく呟く。

「どんな命令にも従う以外の選択肢が私にはなかった。それが当たり前だった……父を病院送りにしたあの日までは」

「病院送り?」

 穏やかではない言葉が飛び出し、思わず訊き返す。

「私の能力は他人を直接傷つけるものではないけれど、あの時の私は明確に父を攻撃するために力を使った。やらなければ殺されると思った。けれどそのせいで、それまで隠してきたこの力のことがバレてしまった……でも、それで良かったと思ってるわ。ここでは無理な命令をしてくる人はいないし、素直に指示に従っていればいいから」

 命令と指示。そこにどれほどの違いがあるのか僕にはぴんと来ない。でも、彼女がどんな過去を送ってきたのか、彼女が背負っているものについて朧気ながら想像がつく独白だった。

 ……なんて。

 その想像はとっくにできていたはずだった。

 彼女が部屋で着替えていたあのシーンで、この目は確かに見ていたから。下着姿の彼女の全身に残った、目を背けたくなるほどの痣の痕を。

 僕にはデリカシーというものが欠如しているらしい。だからわからない。彼女が着替えていた理由に、僕は気が付いていた――上井出の攻撃から伴動さんを守ろうと突き倒した時に取れたのだろう、彼女の制服の前ボタンが取れ、露になった胸元からその痣が覗いていた――にもかかわらず、その傷跡を咄嗟に見て見ぬふりをしたあの時の選択は、果たして誠実といえるのかものだったのか。あるいは裏切りに等しい行為だったのか。

 こんな話を聞いてしまった今でも、まだわからない。

「あなたが私の部屋を訪ねてきた時、私は拒絶するつもりでいた。都合のいい道具にされるのはもう嫌だったから。でも、あなたは私の力が必要だと言った。そんな風に求められるのは初めてだったわ。とても不思議な感覚だったけど……あなたのお願いに従うというのは、嫌な気分じゃなかった」

 僕の自己嫌悪をよそに、伴動さんはそう言った。

「だからさっき、吾棟くんがあなたの頼みを断ったことが悔しくて、ついムキになってしまった。お友達を貶めるようなことを言ってごめんなさい」

 と、珍しく頭を下げてくる。

 とっさに「こちらこそ」と頭を下げたくなるのを必死に堪え、そしてこう答えた。

「謝るならカズに。僕はむしろカズの言い負ける姿が見れてスカッとしたからね――それから、お願いは〝従う〟ものじゃないよ」

「え?」

「引き受けるとか、受け入れるって言うんだよ。仕方ないわね、とか言いながらさ。そしたら相手がありがとうって言って、君がどういたしましてって返す。次は君が困ったときにお願いすれば、きっと助けてくれる。そういうもんだよ。簡単だろ?」

 そう言うと、伴動さんが噴き出した。

「なによそれ。子ども扱いして」

「まだ子どもだろ」

 伴動さんが笑い、僕も笑う。

「齢十七にもなって子どもってのは、ちょっと意識が低いんじゃねえのか?」

 突然割り込んできた声に、見ると、扉の隙間からカズが顔を半分覗かせていた。

「カズ。まさか聞いてたのか?」

「ああ。お前が鼻クソのリサイクル方法を力説してたあたりからな」

「もう少し待っててやるから耳クソの掃除をして来い」

 全部聞いてたな、こいつ。

「――で? 俺に謝ってくれるんだって?」

 と、カズは部屋から出てくるなり伴動さんに向き直り、悪い笑みを浮かべて言った。伴動さんはうぐ、と苦々しい顔をする。

「ん? どうした? 子どもだって〝ごめんなさい〟くらい言えるぜ? 素直に謝れば許してやらないこともねえけど?」

「ごめんなさい」

 これまた意外なことに、伴動さんが素直に謝った。カズも面食らったようでたじろいだ様子を見せる。

「お、おう。わかりゃいいんだ、わかりゃ」

「散々痛いところを突いてしまってごめんなさいね。もう少し手加減してあげるべきだったわ。〝元〟相棒の先輩がこんなにも繊細な心の持ち主だとは思っていなかったから」

「はっ。本当にいい性格してるよなお前。素質があるぜ。その調子で励んでくれよ、新米の後輩ちゃん」

 また始まった。いい加減面倒くさいので、放っておいて歩き出す。

「おい、待てよ想介」

「はい逃げた。私の勝ち」

「あーわかったよ! あんたの勝ちだ!」

 二人のやり取りを背中で聞きながら、ふと――この雰囲気が、遠い昔になくした大切な宝物のように思われて、僕は少しだけ唇を噛んだ。


***


「だから、星座なんてただのこじつけだろ。てんびん座を見て〝あ、天秤だ!〟って言う奴がどこにいるんだよ」

「そういう問題じゃないんだよ。昔の人が何を想ってその名を付けたのかってところに浪漫があるんじゃないか。手の届かない星々を眺めて〝この星々の連なりにはどういう物語があるのか〟と思いを馳せてしまうのは、今も昔も変わらない人間の性だよ」

「変なところでロマンチストだよなお前は。そんなことばっか考えてるから友達ができねえんだぞ」

「うるさいよ。伴動さんは理解してくれるだろ? 星座に浪漫を感じるって話を」

「金閣寺の意匠って常軌を逸してるわよね」

「いきなりなんの話!?」

「あらごめんなさい、ちゃんと聞いていなかったわ。各務くんは正座すると五感で感じる、だったかしら」

「ちゃんと聞いていた奴の間違え方だ!」

「星座も宇宙もあまり興味ないわね。ぶっちゃけたことを言ってしまうと、ほとんどの女子がそうだと思うわよ」

「嘘だろ? だって女の子って星空とか夜景を見て喜んだりするじゃないか」

「そんなの、美しいものに感動してキャピキャピする自分を演出しているだけよ。浪漫でおまんまは食べられないのだから。何の得にもならないことに妄想をたくましくするのは昔から男と相場が決まっているわよね。くだらないことを考える暇があるのならトイレ掃除のひとつでも手伝ってほしいものよ」

「なんで急に主婦目線なんだよ」

「金閣寺を見た後に銀閣寺に行った外国人って、すげえガッカリしそうだよな」

「お前は浅いことしか言わないなら話に乗るな!」

「キンカクジって何?」

 突如として割り込んできた四人目の声に三人が一斉に目を向けると、いつの間にか部屋の入り口に玖恩さんが立っていた。

「あ、ごめんね、お話し中に。ノックしても返事がなかったから」

「いや、別にいいけど。どうしたんだ?」

「うん」と頷くと、扉を静かに閉めてぴょこぴょこと入ってくる。

 ツーマンセルではなくとも常に上井出と行動を共にしている彼女が、こうして上井出と離れて一人で訪ねてくるのは珍しいことのように思える。

「あのね、夜夢さんに言われて来たの。皆に話があるから呼んで来てって」

「夜夢さんが? 上井出は?」

「一緒に食堂にいるよ」

 つまり玖恩さんは、夜夢さんのお遣いとして一人でここに来たわけか。

「ずいぶん意味深だけど、話ってなんだ? 全員を集めるほどの話なのか?」

「詳しいことは聞いてないけど、えっと、〝重大な思い違いをしていた〟って。まだ事件は終わってないって言ってた」

 思わず伴動さんを見ると、彼女も僕を見ていた。

「私は天照さんも呼んでこなきゃだから、先に食堂に行っててくれるかな?」

「ああ。天照さんならたぶん華雅の部屋だ」

「わかった、ありがと!」

 嬉しそうにお礼を言って踵を返そうとする。と、玖恩さんは一度足を止めて、

「ありがとうね、みんな」と。

「こんな時に不謹慎かもしれないけど、今日は皆のおかげで……少しでも、仲良くなれたから」

 そう言い残して部屋を出て行った。

 有難い言葉だ。そんな風に言ってもらえると、これからこの物語がどう転ぼうが、無駄な努力ではなかったと思える。

「だけど、この局面でその台詞はちょっとなあ」

「フラグが立ったわね」

 時間が余ったから三人で雑談に花を咲かせながら待ち構えていたとはいえ、いざとなるとさすがに緊張してくる。

 さて、鬼が出るか蛇が出るか。

 部屋を出ようとした時、伴動さんが床に胡坐をかいたままのカズに、「あなたは行かないの?」と尋ねた。

「行かねえよ。お前らと一緒にいると馬鹿が感染る」

「最後まで傍観するのではなかったのかしら?」

「俺はオチが読めた時点で映画館から出るタイプなんでね」

「そ。とことん合わないわね、あなたとは」

「いいよ伴動さん。行こう」

 納得のいかない様子の伴動さんの腕を引いて部屋を出る。

「心配しなくても大丈夫だよ」

 僕は思い返していた――猛り狂う炎のすぐ傍で、僕の安否を本気で心配するカズの必死の表情を。

 もしこれから予想を超えるようなことが起こって、本当にどうにもならない事態に陥ったら、きっと来てくれる。

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