004 突撃スレドモ敵影ナシ

 上井出はまだ戻っていないようで、退屈顔のカズと、困り顔の玖恩さんと、玖恩さんにちょっかいをかけて困らせている愉悦顔の夜夢さんが、扉の前で待っていた。

「やあ。調子はどうだい?」

 まるで今が平和な日常であるかのように声をかけてくる夜夢さんに「大丈夫」と返した僕は、そのまま彼女に今さらな質問をぶつけてみることにした。

「夜夢さん、君はもう何もするつもりはないのか?」

「うん? それはどういう意味かな?」

 と、首を傾げて質問を返してくる。

「あの貼り紙に書いてあったことだよ。価値を証明すれば自由を得られるとかいうあれだ。君はずいぶん気にしていたようだけど」

「ああ、あのチープな演出のことかい? そんなものもあったねえ。存在すら忘れていたよ」

 嘘をつけ、と喉まで出かかる。あの貼り紙こそが悪夢の始まりだった。あの一枚の紙切れに、僕たち九人の命が振り回されたのだ。

「勘違いしないでほしいのだけれどね、私は元より何もするつもりはなかったよ。何が始まろうと、せいぜいスリルを楽しめればいいというくらいに考えていた。だから、君の問いにはイエスと答えよう」

 先ほどの伴動さんの話を思い出す。

 伴動さんははっきりと口にはしなかったが、このタイミングでその情報を僕に伝えた理由はひとつしか考えられない。

 夜夢瑠々は以前、この施設の職員を魅了し、結果として死人が出た。そして今日、ここで彼女の『魅了』にかかったのは――華雅だ。

 華雅を従順な下僕とし、美來を殺させたという可能性。

 ……その可能性は低いと僕は思う。

 ただでさえ見目麗しい彼女がさらに『魅了』の能力を使用したら、それは強烈な影響力を生むだろう。だが、それは果たして人を殺すほどのものか? 相手に容疑が向かないように自らが罪を被って命を絶つほどのものなのか?

 それに、『魅了』の効果は一時的なものだと彼女は言っていた。もちろん僕たちを欺くための虚言だった可能性もあるが、空き部屋で夜夢さんと対峙した華雅の態度は、とても魅了されている人間のそれには見えなかった。

 もちろんこれは僕の個人的な意見にすぎない。厄介なのは、もし仮に彼女が本当に犯人であった場合に、その考えが正しいのかどうかを確かめることができないということだ。それこそ自分が『魅了』にかかりでもしない限り――

「あっ!」

 その時、扉を見張っていた玖恩さんが声を上げた。

「今、鞍馬くんが見えたような」

「えっ⁉」

 全員が扉に注目する。が、特に扉に変化は見られない。

「あれ、なんでだろう。そこに鞍馬くんがいるような気が――あ」

 玖恩さんが何かに気付いたように虚空を見つめたその瞬間。

 突然――瞬間移動なのだから突然なのは当たり前なのだが――皆の視線をすり抜けるように、扉の前に上井出が現れた。

「上井出!」「鞍馬くん!」

 駆け寄ろうとする玖恩さんとすれ違うように上井出はふらりと姿勢を崩し、壁にぶつかって力なく崩れ落ちた。

「おい上井出、どうした⁉」

 玖恩さんを押しのけるようにカズが駆け寄り、上井出の肩を掴んで揺さぶる。上井出の息は荒く、顔面蒼白で、起き上がる力もないようだった。

「……ああ、大丈夫だ。遅くなってすまない」

「起き上がれるか?」

 僕が手を差し伸べると、上井出は首を振った。

「まだ無理なようだ。心配をかけて悪いが、能力を使うと平衡感覚が狂ってな、いつもこうなるんだ。気にしないでくれ」

 言われてみれば確かに、娯楽室でも上井出は瞬間移動の後にふらついていた気がする。

「無事に帰ってこれて何よりだね。それで、施設の人間とは会えたのかな?」

 夜夢さんが期待を隠せない様子で問いかけると、上井出は再び首を振った。

「いや。それについてだが、皆に伝えなければならないことがある。俺もいまだに信じられんのだが……」

 思わず伴動さんと顔を見合わせる。ずいぶん持って回った言い回しだが、どうやらいいニュースではなさそうだ。

「なんだ、幽霊でも見たってのか?」

 からかう調子でカズが上井出の顔を覗き込む。

「いや。あれは……あの光景は、もっと、心底恐ろしい――ぐっ!」

 突然、上井出が頭を抱えてうずくまり、玖恩さんが心配そうに肩を支える。しばらく呼吸を荒くしていたが、ようやく呼吸を整えて顔を上げた時、どこか混乱しているような微妙な表情を浮かべていた。

「大丈夫、鞍馬くん?」

「ああ、ただの頭痛だ」

 手で頭を抑えながら、玖恩さんに弱々しく微笑みかける。上井出をこれほど消耗させるほどの何があったというのだろう。

「……すまない。何を話していたんだったか」

「おいおい、勘弁しろよ。お前が外ですげーもん見てきたって言うから全員待ってんだろうが」

 カズが呆れて言うと、上井出は本当に忘れていたようで、「ああ、すまん」とわずかに頭を垂れた。

「結論から言おう。施設には誰もいなかった」

「誰も? 誰もって……職員一人もか?」

「ああ。あちこち探し回ったが、誰ひとり見つからなかった。もぬけの空だ。電気も点いていないし、まるで施設自体が閉鎖されたようだった」

「そんな馬鹿な。監視すらしてないっていうのか? だったらこの状況はなんなんだ?」

「俺に訊かれても困る。言っただろう、いまだに俺自身信じられないと」

 上井出の決死の特攻によりもたらされたのは、耳を疑うような奇報だった。

 施設が完全に無人になるタイミングは通常存在しない。夜間や休日はもちろん人が少なくなるが、見回りや夜を徹して研究をしている職員はいるし、そもそも今は夜でも休日でもない。

「宿舎の方には行ってみたのかい?」

 夜夢さんの言う〝宿舎〟とは、中央棟を挟んで逆側に位置する職員用の宿舎のことだ。中央棟にいない職員は宿舎にいるはずだ。

「…………」

「上井出?」

 何か腑に落ちない事でもあるのか、急に黙り込んでしまった。

「いや、なんでもない。職員用宿舎には行っていない。俺が見たのは中央棟だけだ」

「外は見たか? 車が停まってるかどうかとか」

「俺も動転していたから記憶が曖昧だが、特に異常はなかったと思う」

 ということは、たまたま全員が宿舎に集まっていたのだろうか? もしこの状況が施設の企図した実験なのだとしたら、その監視を放り出してどこかへ行ってしまったとは考えにくいのだが。

 夜夢さんの言葉が脳裏をよぎる。〝何者かの意思〟――まさか、本当に?

「確かに」と、夜夢さんが口を開いた。

「それが事実なら尋常ならざる事態ではあるけれど、それはそれとして上井出くん、君が言う〝心底怖ろしいもの〟とは何だったんだい?」

 深刻さの欠片もない、むしろわくわくしているような口調で尋ねる。

「だってそうだろう? 職員が一人も中央棟にいなかった。それは非常に奇異なことだし、我々の置かれている状況がさらに混迷を極めることになったのは確かだよ。けれどそれが〝心底怖ろしい〟というほどのことかと言われると、私はそうは思わない」

 確かに、中央棟が無人という報告の衝撃で忘れていたが、先ほどの上井出はどこか怯えた様子でそんな台詞を言っていた。

「……俺にとっては怖ろしい事態だったんだ。人が居るべき場所に誰もいないというのは、実際に味わってみると気味の悪いものだぞ」

「ふむ。まあ、それはそうかもしれないけど」

 夜夢さんは納得していない様子だったが、そこで引き下がった。本人がそう言う以上は突っ込んでも意味がない。

「鞍馬くん、これ」

 と、玖恩さんが注射器を一本、上井出に差し出した。

「鞍馬くんが持ってて。私まだ二本残ってるし、どうせ使うこともないだろうから」

「しかし……」と僕たちの顔色を窺ってくる。

「私たちなら構わないよ。薬をやり取りしてはいけないなんて決め事はしていないし、何より今となってはもう、そんなものは必要ないのだから」

 夜夢さんの言葉に、上井出は怪訝な表情を浮かべた。

「どういう意味だ? まさか、犯人がわかったのか?」


 上井出が回復するのを待って食堂へ移動し、顛末の説明をすると、上井出はしばらく絶句した後、「華雅が……まさか本当に」と絞り出すように言った。

「気持ちはわかるけれど、今はまだ悲しみに暮れる時じゃない。君の報告によって、我々がいつここから出られるのかわからなくなってしまったのだから」

 夜夢さんの言葉に、いっそう重苦しい空気が立ち込める。

「カガミン、君はどう思う?」と、いきなり僕に振ってくる。

 この支離滅裂な展開についていけていないのは僕も同じだ。が、それを見越した上で何か建設的な意見を出せということだろう。

「とりあえず、今日一日が終わるまでは待つしかないんじゃないか? もしかしたらまったく別の場所で監視しているのかもしれない。どのみち何もわからないうちは下手に動くべきじゃないと思う」

「うん、概ね私も同意見だよ。だけどカガミン、私はひとつ気になっているんだよ」

 思わせぶりに唇に人差し指を当てて、挑発的な視線を向けてくる。

「君はまだ事件が解決したと思っていないのではないのかい?」

「それは……」

 一瞬答えに詰まる。

「そんなことはないさ。結果が出ているじゃないか。華雅に殺されかけたのは僕なんだぜ」

「違うね。華雅くんの射程範囲内に入ったのは君と伴動さんだ。あの時、君はギリギリで華雅くんに『金縛り』をかけるのに成功したようだけど、同時に伴動さんも『精神感応』をかけることに成功していたのでは?」

「どうしてそう思うんだ?」

「あの時、君を追いかける伴動さんが注射を打つのを私は見た。もちろんそれだけでは言い切れないけど、〝結果が出ている〟と言いながら君は、どうも華雅くんが犯人という結論に納得していないように見える。そう思うだけの根拠があるんじゃないかと思った次第さ」

 あの状況でそこまで冷静に目を光らせていたとは、まったく目ざといことだ。

 伴動さんが「どうする?」という具合に視線を送ってくるが、ここまで見破られてしまっては隠すわけにもいかないだろう。

「わかった。君の言う通り、確かに伴動さんは『精神感応』を華雅に使ったよ。でも、言わなかったのは隠してたわけじゃない、どう説明すればいいかわからなかったからだ。伴動さん、皆に教えてあげてくれ」

 伴動さんは頷いて後を引き継いだ。

「前にも言ったけれど、『精神感応』は相手の考えてる内容が読み取れるわけではないわ。せいぜいどんな感情を抱いているかがわかる程度。私が読み取ったのは、掛け値なしに純粋な殺意だけだった。華雅梨音は私たちを殺すことしか考えていなかった」

 それを聞いた夜夢さんは満足そうに頷いた。

「それが本当なら、やはり彼が殺人犯だったという証左になるね」

「そう。だから犯人についてはもう疑う余地がないんだよ」

「では何が引っ掛かるのかな?」

 ストレートかつ執拗に切り込んでくる。

「素朴な疑問だよ。どうして華雅はそこまでの強い殺意を向けてきたのか。ホラー映画の殺人鬼じゃあるまいし、いくら癇癪を起こしたからって唐突過ぎる気がしたんだ」

「ふむ」と、夜夢さんが席を立った。

「彼の心情の変化に違和感を感じたと。だがそれは『精神感応』を使えない私たちには扱いかねる問題だね。華雅梨音という少年の未成熟な精神にとってそれが本当に不自然な反応だったのかは判断の仕様がない」

 顎に手を当ててテーブルの周りを周遊するように歩く夜夢さんは、まるで推理ドラマに出てくる探偵のようだ。

「だから言わなかったんだよ。皆に取り上げてもらうほどのことじゃない」

「なるほど」と、夜夢さんはテーブルの角のところで立ち止まり、大袈裟に手を広げて見せた。

「それじゃカガミン、ここいらでひとつ宣言してくれるかな」

「宣言?」

「正式に、非常事態が終結したことをさ」

 なんだそりゃ、と呆気にとられる。だが彼女は本気で言っているようだった。

「そういう役目だけ僕に譲るんだな」

「殊勝だろう?」

 あくまでリーダー役は僕で、自分は気ままな風来坊を気取るつもりなのか。形だけのリーダーなんて何の価値もないというのに。

「わかったよ。これで事件は終わりだ。あとは今日一日が終わるまで、各自自由にしてくれていい」

「ふふ。よくできました」

 僕の終結宣言を受けて、夜夢さんだけが笑っていた。

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