014 少女と野獣

「鞍馬くん、だめ!」

 玖恩さんが叫ぶのと僕の身体が動いたのは、ほぼ同時だった。

「きゃっ」

 左斜め後ろに立っていた伴動さんにほとんどタックルのような勢いで飛びつき、そのまま後ろに押し倒す形になる。

 コンクリートの地面から伴動さんを庇うように腕を回したため、衝突の際にしたたかに打ち、激痛が走る——だが痛がっている場合ではなかった。

 急いで立ち上がり振り返る。

 すぐ目の前に上井出が迫ってきていた。


 殺される。


「ぼけっとしてんな!」

 次の瞬間、上井出の身体が横に吹っ飛んだ。その後ろでカズが右足を振り抜いていた。

 助かった——が。

 立ち上がって逃げるべきなのだろうが、身体が動かない。恐怖で硬直してしまっていた。

 幸い、というのはあまりに不義理な台詞だが、上井出は照準を切り替えてカズに襲いかかった。

「ぐぅるルるうああぁ!」

 めちゃくちゃに腕を振り回している。対するカズは応戦の構えをとる。

「駄目だカズ、逃げろ!」

 僕の声が届いたのか、カズはとっさにバックステップで上井出から距離を取った。

 どういうことだ?という顔で僕を睨んでくるが、続く言葉が出てこない。僕自身、自分が叫んだ理由を理解できなかったのだ。

 上井出は『瞬間移動』の能力者だ。これは間違いない。

 それに、上井出は注射を打っていない。

 だからこの豹変が、単にキレたのか発作的なものかはわからないが、能力を使っているわけではなくただ腕を振り回しているだけで、喧嘩慣れしているカズにとっては脅威でもなんでもない——はずだ。

 なのに僕は、こう感じたのだ。

 カズが殺される、と。

 上井出が右手を前にかざし、手の平をカズに向ける。

 まずい。あれはとても、恐ろしいものだ。

 『金縛り』を上井出に……駄目だ、間に合わない。

 獣じみた上井出の殺気が膨れあがる。

 やめろ——!


「だめえっ!!」

 ぺちん。


 極限状態に不釣り合いな、間の抜けた音が響いた。

 いつの間にか上井出の前に飛び出し、カズを庇うように立ちはだかった玖恩さんが、パートナーの頬を張った音だった。

「鞍馬くん、戻ってきて! 戻ってきなさい!」

 涙ながらに絶叫しながら、ぺちんぺちんと左右交互に張り手を繰り出す。

 すると、あれほど濃密だった殺気が霧散していき——

「千里」

「戻りなさーい!」ぺちぺち

「千里、俺だ」

「私の言うことが聞けないの!?」ぺちぺち

「千里!」

「きゃあっ」

 玖恩さんの右手首を掴んだ上井出の目は、正気を取り戻していた。

「鞍馬、くん?」

「もう大丈夫だ千里。すまない」


 …………はああー。


 深いため息とともに、全身から力が抜ける。

 緊張から解かれて身体は動くようになったものの、膝が笑っていて立ち上がるのもひと苦労だった。心臓が聞いたこともないようなピッチでビートを刻んでいる。

「やれやれ、バトル展開はごめんだというのに」

 事の起こりから結びまで微塵の動揺も見せずに成り行きを見守っていた夜夢さんが、苦笑いを浮かべて言う。

「カガミン、今のはまさしく、君の能力の価値を示すべき場面だったと私は思うのだけど」

 皮肉を言われてしまった。

「悪かったよ。僕の判断ミスだ」

「ま、致し方ないだろう。異常には慣れ親しんでいる我々ではあるけど、それにしたって今のは異常が過ぎた。上井出くん、君は自分が何をしたかわかっているのかい? 玖恩さんの制止がなければきっと怪我人が出ていたよ」

「ああ……すまなかった」

 上井出は苦虫を噛み潰したような顔で謝罪した。

「突然凶行に及んだ理由を、納得のいくように説明してもらえるかな?」

 しばらく俯いて沈黙していた上井出だったが、やがて玖恩さんを見て、その瞳に浮かぶ涙を拭い、

「千里を泣かせたからだ」

 ぽつりとそう言った。

「それについては私も非を認めるところではあるが……君は玖恩さんが泣くたびにあんな風にトチ狂うっていうのかい?」

 夜夢さんが呆れたように言う。

 確かにタイミングとしては、それがきっかけだったように見えた。だがあれは、怒ったとかそういうレベルの反応ではなかった。

「まるでジキルとハイドだよ。困ったことになったね……上井出くん、先ほどの君は、相手が誰だろうと、どんな残酷な仕打ちでも平気でするように見えたよ。たとえば、女の子を焼き殺すなんてことも」

「鞍馬くんがそんなことする訳ない!」

 玖恩さんが気を吐くが、夜夢さんはどこ吹く風だった。

「だから訳はあるんだよ、玖恩さん。君が彼のスイッチだというなら、共犯説がますます濃厚になったと言える。言ってしまえば君は、彼の人格と能力を自由に操れるのだからね……おっと、頼むから泣かないでくれよ」

 そこで夜夢さんは僕の顔を見た。その目が僕に訊いていた。

 『精神感応』を使わないのか?——と。


 僕は一歩前に踏み出した。

「なあ上井出。君は外に出ようとしていたんだよな」

「ああ。助けを呼んでくるつもりだった。だが……」

「行ってこいよ。玖恩さんはここで僕たちが見てるから。それでいいだろ?」

「……それは、千里を人質に取るという意味か?」

 ぎろりと睨んでくる。

「そんなんじゃない。君の言葉を信じるってだけだよ。もちろん、君が僕の言葉を信じられるなら、だけど」

 上井出は一瞬固まり、次に夜夢さんのことを睨んだ。

「信じる、か。いい言葉だな。しかし夜夢は俺を信用していないだろう。俺も信用できない。こうなっては千里を残して行くわけにはいかない」

「行って、鞍馬くん」

 上井出が驚いたように玖恩さんを振り返る。

「私なら大丈夫。これ以上何か悪いことが起こる前に、この試験を止めてきて。それができるのは鞍馬くんしかいないから」

「何故だ。さっきは俺を止めようとしていただろう」

「だって私、悔しいよ。鞍馬くんが犯人みたいに言われて、言われっぱなしで引き下がるなんて、そんなの嫌だ。鞍馬くんは、世界を救うヒーローになるんでしょう?」

「ヒーロー?」

 思わず訊き返した僕に、玖恩さんは力強く頷いてみせる。

「鞍馬くん、いつも言ってるんだ。能力を使いこなせるようになったら、世界中の困ってる人を助けに行くんだって」

「おい千里! 皆の前で何を」

 珍しく慌てた様子で上井出が止めようとするが、玖恩さんは止まらない。

「夜夢さんが言った通りだよ。私は弱いし一人じゃ何もできなくて、いつも鞍馬くんに迷惑ばかりかけてるけど……鞍馬くんが誰より優しい人だって、私が一番よく知ってるから。私のせいで鞍馬くんまで悪く思われるのは嫌だよ。だから行って。鞍馬くんは正しいことをしようとしてるんだって証明して」

 先ほど「庇護欲を誘う」と揶揄された時と同じように、彼女の声は震えていて両目は涙でうるんでいたが、しかし間違いなく懸命だった。

 もし玖恩さんの言う上井出の夢が、冗談や皮肉ではなく、彼の本当の願いなのだとして……世界を救うヒーローなんてものはフィクションの中だけの存在で、どれだけ超人的な力を持っていようと個人の力で救えるほど現実は甘くないし、世界は薄っぺらくないと僕は思う。だから上井出の夢に僕が共感することはない。

 でも、羨ましいとは思う。

 夢を抱けることが。夢を抱かせる何者かの存在が。

「まったく、お前は厳しい」

 と、上井出は長く息を吐いた。

「世界を救うなんて、自分がそんな大それた人間でないことも俺自身がよくわかってるさ」

「そんなこと——」

「お前のどこが弱いんだ、千里。見た目など関係ない。俺の前に飛び出してきたお前は、俺なんかよりよほど強い人間だ。俺にできるのはせいぜい——」

 そこで口をつぐみ、制服の内ポケットから何かを取り出す。その手に握られていたのは注射器だった。

「夜夢。お前はまだ反対するか?」

 そう問われた夜夢さんは、「なんのことだい?」と首を傾げた。

「私は最初から一度も反対なんかしていないよ」

「……天邪鬼め。だから信用できないんだ」

 呟くように言うと、上井出はなんの躊躇いもなく、注射を左腕に刺した。

 皆に背を向け、扉の前に立つ。

「各務。もし俺が戻らなかったら、千里を頼む」

「引き受けたよ。でもできれば帰ってきてほしい」

「もちろんだ」

 上井出が意識を集中するように目を瞑る。夜夢さんだけは壁に背を預けていたが、他に防御姿勢をとる者はいなかった。

「——行ってくる」

 次の瞬間、上井出鞍馬の身体が僕たちの視界から消えた。

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