第二章 彷徨いの朝
001 異常以上、人間未満
「どうした相棒?」
カズの声で我に返る。
「いや、なんでもない。早く皆のところに戻ろう」
軽い眩暈を起こしていた。
どうにも体調が優れない。体中がだるいし頭痛もある。廊下は真冬のような空気に満たされていて、風邪をひきかねないほど身体が冷えきっている。
「しかし、こいつはどういうことなんだ? まったくわけがわからねえ」
前をスタスタと早歩きで進むカズが、その手に持った紙を見ながら苛立たしそうに言う。
そうだな、と僕は相槌を打つが、どうにも気持ちが散漫だ。
異常事態であることは理解しているけど、それ以上に、何かとても重要なことを忘れているような。
「ふざけやがって、よっ!」
ドカンッ! と、盛大に。
カズが食堂の扉を壊すような勢いで蹴り開けたので、僕は驚く。中にいたメンバーも目を丸くしてこちらに注目した。
「おい、乱暴だなー。ものに当たるなんてダメなんだぞ」
「よく言うよ、暴力女」
ボソッと呟いた華雅の顔に、天照さんが水平チョップを浴びせる。
「いってーな!」
「誰が暴力女だ、リオンてめー」
「暴力振るってんじゃねーか!」
「よせ二人とも、今は揉めてる場合じゃない。それで吾棟と各務、どうだった?」
放っておくと取っ組み合いになりそうな二人を諫めながら、上井出が訊いてきた。
「ああ。確かに扉は二つとも施錠されてたし、貼り紙も確認した」
カズが皆に見せるように紙を掲げた後、テーブルの真ん中に滑らせた。
「つまりこれで全員が確認したということだな」
「いや、まだ全員じゃねえ……おい上井出、玖恩はどうした?」
先ほどまで上井出の隣には玖恩さんが座っていたはずだが、空席になっていた。
「千里は花摘み中だ」
カズが舌打ちをしたちょうどそのタイミングで、扉から玖恩さんが入ってきた。
「えっ。ど、どうしたの、皆……?」
不穏な空気の中、注目を浴びて怯えたように皆を見回している。
「どーしたもこーしたも」と天照さんが言うのを遮って、「玖恩」とカズが声をかける。
「座れ」
有無を言わせぬ口調に、玖恩さんはしばし目をパチパチとしていたが、「う、うん。ごめんなさい」と、小走りに上井出くんの隣に戻った。
「それで、この貼り紙はどういう意味なんだ? 誰か知らねーのかよ」
天照さんが改めて疑問を投げかけるが、答える者はいない。
最初に気付いたのが誰かはわからない。
今朝、僕は自分の部屋で目覚め、身支度をし、朝食の時間である七時ちょうどに部屋を出たところでカズとばったり会い、連れだって食堂へ入った。すると、皆が騒いでいた。
朝食が並んでいるはずのテーブルには、別の物が置かれていた。
状況が分からず戸惑っていると、「入り口を見てこい」と上井出くんに言われ、カズと一緒に確認しに行った——そして現在に至る。
この建物の出入口は二か所。中央棟への連絡通路へと繋がっている扉と、それから中庭に繋がっている通用口の扉だ。それ以外に出入り可能な場所はない。部屋の窓は嵌め殺しだし、人が通れるような通風孔の類も一切ない。言わずもがな、脱走を防ぐためだ。
その二か所を見に行った僕たちは、確かに『異常』を確認した。
まずは、扉が施錠されていたということ。
どちらの扉も、朝の七時から夕方六時の間しか通れないようになっており、それ以外の時間帯は自動ロックがかかる。それ以外の時間帯は、職員は向こう側から開けられるが、こちら側からロックを解除することは不可能で、なんなら扉に手をかけただけで警報が鳴るという念の入れようだ。
だが朝の七時はもう過ぎているため、もう施錠は解除されていなくてはおかしい。
とはいえ——
これだけでは異常事態とまでは言えないだろう。問題なのは、もうひとつの共通点の方だった。
『本日中に自分自身の価値を証明せよ。合格した者のみが自由を得られる。
なお、勝手に外に出ることは厳禁とする。』
無味乾燥な字体でそう書かれた紙が、両方の扉に貼ってあったのだ。
さらにその下に、箇条書きのリストが記載されていた。
「誰かの悪戯じゃねーだろなー?」
「いや、明らかに施設側の仕業だろう。このメッセージは俺たちに対する指令と見るのが妥当だと思うが。誰か、事前に何か聞いている者はいないのか?」
上井出の問いに、全員が首を振る。
「となると、抜き打ちの試験みたいなものか。それにしても唐突すぎるが」
「『合格』とか『自由』って、どういう意味だろうね……外に出れるってことなのかな。でも、どうしたらいいんだろう……?」
「殺し合いでもさせたいんじゃないの?」
華雅の言葉に、場の空気が凍り付く。
「おいリオン、つまらねー冗談言うんじゃ——」
「大真面目だっての。だって全員建物に閉じ込められて、朝ごはんの代わりにコレだろ? 単純に『誰の能力が一番強いか決めろ』ってことなんじゃないの。よくあるじゃん、そういうの。デスゲームってやつ?」
彼が指した先、テーブルの上には——見慣れた注射器が置かれていた。
全員の席に三本ずつ。
タバコより細くて長さも三センチほどしかない小型の注射器に詰まっているのは、毎日のように僕たちがプログラム開始時に打たれている、能力を発現させるための薬品だ。
「それにお前らだってわかってんだろ、このリストの意味くらい」
そう言って華雅くんはテーブル上のリストを指さした。
「
『精神感応』
『意識誘導』
『残留思念』
『瞬間移動』
『魅了』
『念動力』
『透視』
『発火』
『金縛り』
」
扉に貼り付けられていた紙には、九つのワードが並び記されていた。説明書きはなかったが、見た者はすぐその意味に気付いただろう。何しろ、そのうちのひとつが他ならぬ自分を表す言葉なのだから。
僕たちが
「今まで秘密にしてた全員の能力を明かして、ご丁寧に薬まで置いてさ。これが試験だってんなら、つまりそういうことだろ? 別にそんなおかしな話でもねーよ、どうせ俺らの使い途なんてそれくらいしかねーんだし——」
天照さんのチョップが華雅の額に刺さった。
「ってーな! 暴力女!」
「滅多なこと言ってんじゃねーぞリオン! 漫画とかゲームのやりすぎだぞ!」
「ここには漫画もゲームもねーっての!」
「何が『使い途』だバカヤロー! アタシらは貴重な能力者なんだぞ! 殺し合いなんてさせるはずねーだろ!」
天照さんは本気で怒っていた。
「貴重かどうかなんてあいつらが勝手に決めることだろ! 使い物にならない奴はお払い箱なんだよ! 俺たちは人間じゃないんだから、使える奴だけ生かして、役立たずは始末するなんて当たり前——」
ズガン!
頭を抱えてうずくまる華雅。今度は痛すぎて声も出ないらしい。
「リオンバカヤロー! いいかよく聞けバカヤロー!」
天照さんは大きく息を吸って、
「あたしたちは人間だ!!」
建物中に響き渡るような声で絶叫した。
全員が押し黙り、天照さんの荒い息遣いだけが聞こえる中で、その言葉は水面に浮かぶ波紋のように残響していた。
「わかったかよ。わかったら頭抱えてねーで顔上げろ」
「……てめーが殴ったからだろ」
華雅の目は痛みのせいか潤んでいたが、これ以上主張する気はなくなったようで、それきり大人しくなった。
よかった、と僕は胸を撫でおろす。
華雅の気持ちも理解できないわけじゃない。殺し合い云々というのは短絡的で極端すぎるが、くだらない与太話だと否定できる材料も今のところないのだし、この状況ではそういう発想が頭をよぎるのも無理はないと思う。
でも、だからこそ、それは口にしてはいけないのだ。
仮に僕たちが本当にその気になって力を使ったら、恐らく……あのリストを見た今となっては、最悪、本当に人が死ぬことになる。
ちらりと見ると、美來は戸惑ったような顔をしていた。
ううむ。
今はそんな場合じゃないとわかってるのだが、どうしても気になってしまう。先ほどから感じていたもやもやの正体に、美來を見た瞬間に気付いたのだ。
今日は美來の誕生日じゃないか、と。
「…………」
本当、どうかしてる。
これでもこの一週間は意識してきたつもりだし、昨夜だってミサンガの仕上げに余念がなかったのだ。それなのに、完全に忘れるなんてことがあるか?
この状況を言い訳にすることはできるけど、それにしてもだ。
いや大丈夫、まだ手遅れじゃない。
ミサンガは前日のうちに制服のズボンのポケットに忍ばせておいたから、この話し合いがひと段落したら渡せばいい。
だけど、気になる点がもうひとつ。
あんなに長かった美來の髪が、ギリギリうなじが隠れるくらいの短さになっていた。
昨晩のうちに切ったのだろうか? 願掛けと言っていたけど、誕生日を迎える前に叶ったということなのか。
理由を聞きたいのだが、それどころではない場の雰囲気に流され、話しかけるタイミングを逃し、まだ一言も口を利けずにいる……プレゼントの件もあり、若干気まずい。
「おい想介、聞いてんのか」
カズに呼ばれて現実に意識を戻すと、全員が僕に注目していた。
「あれ? どうした?」
「どうしたじゃねえよ。早く行くぞ」
「どこに?」
「だから、迎えに行くんだよ」
「誰を?」
「……人間をチンパンジーにする能力者、名乗り出ろ。こいつを元に戻せ」
「悪かったよ! 考え事してて聞いてなかったんだって!」
上の空だった間に話が進んでいたらしい。
カズはやれやれとため息をついた。
「頼むぜ相棒。まだ一人、ここにいねえ奴がいるだろ。恐らく自分の部屋に籠ってて、この状況に気付いてもいねえだろう奴が。こうなった以上はツラ貸してもらおうって話だよ」
「え。でもここに全員…………あ」
そういえば。
僕と木花の間の空席。
「はくじょーなやつだなー、各務は」
天照さんが呆れ顔で言ったが、その指摘は恐らく間違っていない。
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