第151話 残響を燃やし尽くす

 百合子は教えられたわけでもないのに、自分の望みを叶えるために、自分がどうすべきかを知っていた。

 大きく横に手を広げ、ペリドットに染まった瞳に世界境界点を映す。空を見上げたままで、百合子はゆっくりと深呼吸をした。


「……」


 特別の動作をするのではなく、百合子はただ世界境界点を見据えるだけだ。

 境界点にペリドットの光が淡く灯る。それから、だんだんと発光を強くしていくと、まるで燃え尽きるように、光度を上げていった。

 明るい緑の色は、最後には真っ白に輝く。

 眩しい白色の結晶はしゃらん、しゃらん、と繊細な音を奏でながら、その形を崩していった。ガラスのような素材の個体は、侵食されていくようにして光に変わっていく。


 居合わせるオーディンと美濃も、明らかに異常な反応を示している境界点を見上げていた。邪魔をすることも、助言をすることも必要ない。

 世界境界点は今、まさに壊れつつある。


 同じ位置でありながらも、隔離された場所であるリフレクションドールの中。開けられたままのハッチ、コックピットに収まっているスレイプニルの目には、崩壊していく境界点が見えた。


「イオン、見てオくとイイ」


 もうひとつの操縦席の前で作業をしているイオンは、スレイプニルの誘いに顔を上げた。長い前髪を払い、開いた視界に見えるのは、振り落ちる光の雪。


「……これが境界閉鎖」

「アア」


 まるでほんの少し前の桃々桜園の再現のようでもある。

 花びらのように散る欠片ひとつひとつが光っていて、その色は状態を逆戻りをしていく。白からペリドットへ、ペリドットから透明へ。

 そして、無へと帰す。


「綺麗……」

「七代目に話して聞かせてやってくれ。この美しき光景を」

「……」


 イオンはしばらく消えて行く光を見つめた後、再びに未来に向き直った。

 キーボードを叩く無機質な音だけが、静かなコックピットに響く。

 スレイプニルは完全な消失を見届けた後に、瞳を閉じて視界を塞いだ。

 隼人の身体の傷の度合いは、魔神の力を持っても数分で完治するようなものではない。時間はあるだけいいし、余計な力は使わないに限る。


 異界の象徴が消えた空は、爽やかな青の色を広げていた。

 第八世界境界点の消失と共に、百合子の瞳の色も元に戻っていた。深海のような、一切の光を許さない黒の瞳は、立ち会いとなっているオーディンを射抜く。


「……私は、過去を見続けるの?」

「いいえ。その力自体は境界点に呼応した力ですから、境界点が消えている間は貴女に異界の力は使えませんよ」

「……そう」

「先に忠告しておきますが、自分の都合で世界境界点を扱い、八番の力を行使しようというなら――」

「俺がお前を裁く」


 一歩引いた位置を決め込んでいた美濃が、オーディンの台詞を引き継ぐように横から口を出す。

 言葉とは裏腹に、美濃にしては珍しく穏やかな表情で「オーディンの意志に刃向かうものは、フロプトの敵だ」と抑揚のない声を発した。


「まあ、そんなことをしようという不届きな考えが少しでもあるのなら、契約者になること自体、許されなかったでしょうけれど」

「……私にはよく分からなかったのだけど。審判ってどういうことだったの?」


 苦笑いを含めた物言いをするオーディンに、百合子は合点がいかない、と顔をしかめる。

 黒い雷に射抜かれた瞬間は、死をも連想したが、いざ受けた〝審判〟は拍子抜けと言っていい。四条坂駅前で隼人と会話をした、と一言でも言いきれる。

 百合子の考える”裁きの行為”からは、酷くかけ離れていた。


「貴女には簡単だったかもしれませんが、それは貴女の強さに他なりませんよ」


 オーディンは首を振って百合子の考えを否定する。


「欲しいままを、欲しいようにできる夢想に逃げ込み、精神を戻さなかった鍵は山のように見てきました。ですが、貴女は現実から逃げなかった。事実、審判を超えられた鍵は貴女で二人目ですから」


 世界境界点の数が、何よりの証拠。

 オーディンが世界境界点と鍵とを繋ぐ”審判”をどれだけしてきたかは不明であるが、彼女の口振りからは辟易さが窺えた。


「こちらの都合で貴女の存在を奪ってしまったことは、申し訳なく思っています。失われた存在は責任を持って戻しましょう」

「存在を……、戻す……?」

「世界境界点は鍵だけが対象ですが、貴女自身は対価にする存在は選びませんよ」


 オーディンはたおやかな笑みを浮かべた。


「――わたくしは、いわば数多の存在の総体ですからね」 


 言うが早いか、オーディンの身から影が溢れ出る。

 最初は形を持たず、揺らめく炎のようであったが、段々と形を作っていく黒い闇はそれぞれが実体を持っていく。

 魔神。

 オーディンはこれから人類を狩りに出かけるのか、と疑わしいほどに魔神を喚び出すと、そのすべてを背に従えた。揃い立つ魔神を率いる第一世界境界の姿は壮観である。


「心配は不要です。第八世界境界点なき今、この土地はこの世のもの。この子たちの存在はこの世で消えても、あちらの世での命は消えませんから」


 百合子はそんなことに考えは及んでいなかったが、自信満々に胸を張るオーディンを前に、余計な発言をするのは気が引けた。

 魔神に関与することなく生きてきた百合子は、スレイプニルを除けば、四条坂駅で遭遇した魔神たちの印象しかない。人を食い散らかす姿ばかりが目に残っていて、目前の彼らに害はないと知りつつも、恐れに足が震える。

 慄く少女を気にも留めず、オーディンは思い出したように手を打ち鳴らした。


「記憶の復元ではなく、存在の修復ですから、貴女を完璧な元通りにすることはできませんが、審判の結果で存在の書き換えはできますよ」

「…………」

「新しい貴女の存在という事象を起こす。つまりは、貴女を貴女の望む”相島百合子”にすることができるということです」


 不思議な提案は、百合子が百合子の思うままの自分になれるということである。相島百合子という肉体を構成する要素は変えられないが、相島家の人間でなくもなれるし、学生という身分も捨てられる。


「まあ、あまり実際の現実と差異があると存在が壊れることもあるので、女から男にして欲しいとか、人間ではない生き物になりたいとかは叶えられませんが」


 百合子は何もない左下に視線をずらし、視界の隅にオーディンたちを追いやった。うんともすんとも言わずに考え込む。

 無表情で深い思考をする少女は自分の世界に入り込んでいた。


「…………それって、いなかった場所にいたことにしたり、いた場所にいなかったことにさせたりもできるの?」

「定着するかは周囲の認識や、その状況で貴女の存在が占める割合にもよりますが、書き換え自体はできますよ」


 百合子は複雑な心境を表すように、神妙な顔つきで音のない溜め息を漏らす。

 自分自身の存在を変えようという考えはちっとも浮かんでいなかったが、代わりに彼女の中で生まれた願いがあった。オーディンの注意にも引っかからず、大それた我が儘でもない。

 ただ、それを実行することは、まるで心臓に穴を開けられるようだと、想像するだけで心身が疼いた。


「なら、ひとつだけ――」


 百合子はゆっくりと口を開く。

 その表情は願いを聞き入れてもらえる、という立場の人間がするものではなかった。悲しみの走る瞳の色、ひくつく口許、力が込められたこぶしは静かに震えていた。


「隼人から、私の存在を消して欲しいの」


 揺れる細い声。それでも、確かに言葉を紡いだ。

 泣くまい、泣くまいと自制をきかせようとするほど、目元が熱を持ち、瞳が潤んでいく。自分でも情けない顔をしていると分かり、百合子はそっと顔を伏せた。


「どうしてか、尋ねても?」

「隼人の荷物になるのは嫌だから……、それだけよ」


 髪に隠され、オーディンと美濃から百合子の表情は見えない。

 ただでさえ華奢な体型であり、第八番の世界境界に関する事象を巡る騒動のせいで疲れを滲ませている百合子は、このまま消えてしまうのではと思えるほどに弱々しかった。

 オーディンは深く頷くと、百合子に審判を下した時と同じように空へと腕を伸ばした。


「無数の愛おしき同胞を対価に、相島百合子の修復を――」


 空から黒い雷が落ちると、そのすべてが魔神たちを貫く。

 貫かれた魔神は一瞬にして姿かたちを雷に融かした。魔神すべてが消えると、残るのはばちばちと乾いた音を鳴らす雷だけ。

 オーディンが滑らかな動作で手を振り降ろすと、雷はその場で霧散していった。激しい雷鳴が聴覚を支配する中、百合子は唐突に感じた身体の重さに足元を崩した。


 重力に押し潰され、ぐちゃぐちゃの何かに成り果ててしまいそうな苦しさと痛み。百合子は抗いもせずに、意識を手放した。

 無様に地に伏せ、気絶する百合子を見やりながら、オーディンは腕を組む。装飾の分だけ、動き辛そうな着物はそんな動きをするにも邪魔そうである。


「この鍵はもう用済みです。どうしますか?」


 隣立つ世界境界から目線を寄こされた美濃は、百合子を一瞥して、興味を失ったように背を向けた。


「それを決めるのが、お前の仕事だろ。で、結果、相島は生を勝ち取った」

「おや、珍しいことを言いますね。こちらの手の内を知りすぎてる彼女を生かすのですか?」

「……」

「美濃なら世界境界点が消えた瞬間、この子を殺すかと思っていましたよ」

「……境界点の永久沈黙。それが正しい判断なのは分かる」


 美濃は真っすぐに前を向いた。青年の目に映るのは二機のメルトレイド。

 ちらり、と横目でオーディンを見て「ひとつ頼みがある」と美濃は小さく言葉を紡いだ。


「なんです?」

「雅の記憶にある俺、アイスワールド、スレイプニル――とにかく、フロプトに関していて、お前の力の対象になる存在すべてを対価にして、相島の中にあるフロプトに関するすべての記憶を消してくれ」


 オーディンはきょとん、とした顔で美濃の声を聞き入れ、要望の意味を知ると困ったように笑った。

 世界境界として魔神召喚を意のままにするオーディンにすれば、審判自体は簡単にできることである。魔神を対価にすれば、一般市民を王様へ、権力者を浮浪者へ。書き換えに無理があれば、その存在は綻んでいき、無に帰してしまうが、存在変化だけは自由自在。

 しかし、美濃の要求はそんな単純なものではなく、限定的な記憶を抹消してくれという、審判を応用した先の結果を求めることだった。


「……構いませんが、それで雅が壊れてしまう可能性は?」

「雅にはSSDの軍人としての人生がある。壊れるのはフロプトとしての記憶だけだろ。ヒナだけを覚えてたところで、記憶を構成するための情報としては足りなさ過ぎる」

「確かに、そうですね」


 オーディンは美濃の横顔へ「美濃の覚悟は、受け取りましょう」と肯定を渡す。

 わざとらしいほどに、メルトレイドから視線を動かなさい美濃は「悪い」と無表情を貫いた顔で呟いた。不自然に口だけを動かす美濃の横、オーディンが見つめるのは倒れたままの百合子である。

 鍵としての役目は、世界境界点との契約後からが本仕事。

 百合子の進む道は百合子にしか決められない。オーディンは重い宿命を背負う少女が、審判の結果を裏切らないことを祈った。

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