第152話 終わりに結ばれる約束の縁

「美濃、薫のことですが――」

「長話している暇はねえし、謝罪とかそういうのは聞きたくねえよ」

「ではひとつだけ、わたくしとイオンのことです」


 オーディンは憂いを隠さない。

 浮かない美人に反し、空を彩る天候は快晴である。太陽はまだまだ在り続ける時間帯であるが、もう少しすればこの白色の日光も橙に染まっていくだろう。


「長い間、わたくしを身に宿していたイオンは、わたくしを切り離して生きて行くことはできません」


 二人の視線は交わらない。


「あの子の身体は私の居場所を作り上げている。今のように数分、数時間ならば大丈夫かもしれませんが、私が完全に消え去れば、あの子の存在は崩壊します」

「……だろうな」

「時間をかけて慣らしていくにも途方がない話しですし、イオンをフロプトに迎え入れるのも無理に近いでしょう?」

「別の案を考える」


 間髪入れずに言いきった美濃は、オーディンの告白に動揺することはなかったらしい。

 けろりとしている青年にしてみれば、行方不明であった十一年間と比べれば、今の状態は恵まれていた。


「では、美濃が一番いい道を選ぶまで、わたくしはイオンと共にいます」

「すぐ迎えに行く、大人しくしてろよ」

「待ってますよ。わたくしの愛おしいしもべ」


 美濃であれば、イオンとのアポイントなど簡単に取り付けられるし、雛日の姓を持つ隼人ならば、研究所へ無理やりの来訪も可能だろう。

 居場所が分かっていることと、その場所まですぐに辿りつけることはフロプトにとって朗報である。

 メルトレイドからオーディンに向き直った美濃は「……イオンの記憶は?」と問った。

 僅かな時間でも記憶を取り戻していたのは確かで、すぐに忘れたのも本当のことである。


「自力で思い出していたのではないのです。第八世界境界の力に誘発されて、過去と現在を強制的に繋ぎ合わされていただけですから」

「……戻らないのか」

「そう悲観するものではありません。過去を認識できたということは、記憶は完全に消去されてはいません」

「……」

「思い出すことも、きっとあるでしょう」


 美濃は考え込んだ。

 イオンが記憶を取り戻すことは、喜ばしいことなのか、否か。

 もし、記憶が戻っても、彼女自身は記憶螺旋の中でそうしていたように、終わりのない反省を繰り返し、渦巻く悲哀と後悔とに身も心も壊していくのだろう、と美濃には想像に容易かった。

 かといって、過去の片鱗を見たイオンが忘れたままでいい、と割り切れるほど、彼女の忘れている記憶は意味のないものではない。


 オーディンと美濃の間に訪れた沈黙は長くは続かなかった。

 狭い歩幅、ゆっくりとしている等間隔の足音に二人は、同時に音のする方向へと顔を向ける。

 噂をすれば影。


「……イオン」

「終わった、けど」


 くたくたになっている薄汚れた服をまとい、いつもは結われている髪を解いているイオンは疲労困憊のようである。

 大きな怪我はなくとも、SSD日本支部から拉致され、今の今までを第八世界境界点の影響圏内で過ごしていた彼女の精神疲労はかなりのものであった。


「――リフレクションドールに乗っていたのは、菱沢秘書官と喜里山薫? 本物? どうして?」

「俺たちは軍が到着する前にこっから離れたい。詳しい話は後でいいだろ?」

「後でいい? そんなわけない。私は何を知らないの、貴方は何を知っているの」

「全部を話して聞かせるのはいいとして、俺らがSSDに捕縛されるようなことになれば、お前と会話する機会は今後一切ねえかもな」


 イオンはむっと眉を寄せ、美濃を睨みつける。表情変化の乏しいイオンにしては、分かりやすい不機嫌であった。が、彼女のそんな無言の訴えも、美濃は当然のように無視を決め込む。

 どちらも引かない状況に、オーディンは苦笑を洩らした。


「二人とも意固地ですね」

「……始まりの雷鳴」

「オーディンで結構ですよ」


 今のイオンにしてみれば、第一世界境界の本来の姿は初めて見るものである。

 喜里山薫に瓜二つの容姿、豪華絢爛な装いであるオーディンは、簡単に挨拶をした。緩やかな速度で声を連ねる姿へ、イオンは探るような不躾な視線を真っ正面から向ける。


「わたくしはもうしばらく、イオンの世話になるつもりです。私を宿している貴女を、美濃が軽視することはありませんよ。どうしてもの時は、私がこの子に口利きしましょう」

「……必ず、話す場を設けると、約束して」

「問題ない、約束する」


 納得いかない、と黒々と頬に書いたままで、イオンは渋々と頷いた。一応の肯定を見受けて、美濃も小さく頷き返す。


「お前もひとつ、約束しろ」

「……何?」

「制御装置は持ってるか?」


 返事の代わりに、イオンは無残に舞い落ちている白衣を指で示した。

 完全な記憶を持っていた自分が、オーディンを解放するために外したバングル。意志のないオーディンの力を身体に押し留めるための必需品は、今となっては必要ないものである。


「俺と次に会うまで、つけたままでいろ。絶対に外すな。オーディンの力を使えと言われたら、すべて断れ」

「頼まれなくてもそのつもり。私が私を実験するのは構わないけど、人の研究材料にはなりたくないから」

「……ならいい」


 美濃は美しい容貌を隠す眼帯を解くと、イオンの腕を取った。


「イオン、じっとしてろ」


 ぐっと力任せに身体を引き寄せ、顔を近寄せる。息遣いが耳に聞こえる距離で、美濃は左目をイオンの左目に擦り合わせた。

 苛烈な痛みと、暴走する熱とが美濃の左目に宿る。痛みを押さえこむように、眼帯を押し付けた美濃は「目は、返してもらうからな」と苦しそうな声を零す。

 時間が経ち、目が身に馴染んでいたイオンには、何の感覚もない行為であったが、ずっとうるさく聞こえていた魔神の声がなくなったことは有難かった。世界はこれだけ静かだった、と久しぶりでもない感覚に感動する。


「SSDの方はお前に任せる」

「……」

「一ノ砥若桜の死体は研究所にある。カトラルにでも回収させろ」

「……」

「相島と雅のことは上手くやってくれ。口裏合わせが必要なら、協力してやらんこともない」


 イオンが口を挟むことを許さず、つらつらと指示を重ねる美濃は傍若無人以外の何者でもない。

 オーディンの瞳から解放されたイオンは、安堵に息を吐くも、すぐに思考を切り替えた。

 自分の過去や、第一世界境界について、考えたい悩み事はたくさんある。しかし、今、重視すべきはどれだけ上手にこの事態をまとめ上げるか。

 起こった出来事すべてを正直に話しても構わないが、それで得をするのは限られた人間しかいない。


「じゃあな、オーディン」

「ええ、また」

「……嘘にすんなよ」


 美濃は簡単に別れの挨拶を済ますと、並び立つメルトレイドの方へと走った。

 境界点の消失と共に、探知機や通信機は正常機能するようになっているはずである。

 SSDから特攻隊としては派遣されたカトラルたちのために用意された、名ばかりの補助班がここに乗り込んでくるのは時間の問題である。

 ここで囲まれてしまうのは、ご遠慮願いたい、という一心が美濃を急かした。必要以上に時間を消費したのは自覚している。

 美濃は血生臭いリフレクションドールのコックピットに乗り込むと、まずは奥の方で縮こまっている雅の肩を叩いた。


「アイスワールド、機体に戻れ。帰るぞ」


 アイスワールドは頼まれ事をきっちりとこなしていた。

 雅の身体は全快とはいかないが、命への影響はないだろうくらいには回復している。要療養であり、絶対安静ではあるだろうが、延命に魔神が必要な状態ではない。

 こくり、と首を動かし、雅の身体から離れたアイスワールドは、居慣れたメルトレイドへと戻っていく。


「雅――――」


 美濃は雅を見下ろした。

 信頼をしていた部下であり、年の近い友人。雅からの真っすぐな好意は、気恥しさなど忘れてしまうくらいに分かりやすく、素直なものだった。

 絶対に裏切られることのない関係だと、信じていたからこそ、雅の行動は美濃には許容できないもの。


「俺の我が儘で、お前には迷惑かけたな。……ありがとう。最後の景色を見せてやれなくて残念だ」


 聞こえていないであろう言葉を投げかけ、美濃は悲しみを孕んでいた表情を一瞬で消し去る。

 美濃は雅から離れると、冷たい薫の身体を持ち上げた。抵抗もしなければ、補助もしようとしない身体はただの重荷でしかない。

 アイスワールドは機体を寄せろ、と命令をされずとも、リフレクションドールから飛び移れる位置まで機体を寄せていた。美濃は難なく、姉の遺体を愛機のコックピットへと運びこむ。

 顔だけを出すようにしてリフレクションドールを覗きこんだ美濃は「スレイプニル」と、操縦席に居座る少年の身体を支配下にしている魔神を呼んだ。


「無理を言ウな。歩けるわけなイだろウ」

「……」


 スレイプニルの意識はあるものの、隼人の身体は動くことを拒否しているようだった。

 鈍い動作もしない少年を拾うため、再びに地獄絵図の中に戻った美濃は適当に少年を担ぐと、雪崩れるようにアイスワールドのコックピットへ転がり込んだ。

 アイスワールドに説明は不要らしい。

 全員の回収が済むと同時、自律機動でその場を後にする行動は、美濃の理想そのものである。


 美濃は操縦席には座らず、薫や隼人と同じように、直接に床に座り込んだ。それから、目の前でぐったりとする少年を眺めながら「スレイプニル、お前、ヒナの何が良くて契約を結んだんだよ」とふいに浮かんだ疑問を投じた。

 自らの命を危機に晒すことに抵抗のない、死なない死にたがり――宿主がそんな思考の持ち主であることは、この世での存在が消える可能性が高いこと。契約する魔神からしてみれば、マイナス要素でしかない。


「ワタシは謙虚が好きなのだ」

「こいつの何処が謙虚なんだ。ただの能天気ネガティブじゃねえか」

「蹴り殺すぞ、美濃」


 スレイプニルの威嚇を、美濃は鼻で笑う。

 重傷の隼人から離れられないスレイプニルが、物理的に美濃に危害を加えようなど、できもしない話だ。

 美濃は静かに息を吐いた。

 第一番の鍵を失いはしたが、それは必要であって必要でないもの。フロプトとして大義を果たし、第八世界境界点を消失させた。オーディンも手の内にある。

 問題も、希望も、課題も、責務も、簡単に片付きはしないだろう。

 すべてはこれからである。

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