第150話 人間の心が導き出す答え

 身体の自由を奪われると同時に、百合子の意識も審判に呑まれたが、体勢を崩すことは許されなかった。雷によってはりつけにされた少女は、無理矢理に立ち姿を強要されている。

 血が流れることはないが、まるで百合子が罪人であるかのように、逃れられない拘束が彼女を縛った。

 一瞬、音が消えた百合子の耳に、遠くになってしまった日常を彩る音が響く。やけに現実味のある騒音は、絶えることなく鳴り続けている。


 恐る恐ると目を開いた少女は、雑踏の中にいた。

 きょとん、とした百合子は周囲の様子よりも、真っ先に自分の身体を確認する。

 貫かれたはずの雷はなく、無傷の制服姿がそこにはあった。身体には傷がないか、触って確かめようと左手を動かそうとすれば、何かに絡め取られていることに気づく。


「どうしたの?」


 彼女手に繋がっているのは別の人間の手。

 手から腕、腕から肩、肩から顔へと百合子が視線を上げて行くと、不思議そうに首を傾げる少年の姿があった。


「……隼人?」

「うん? なぁに、百合子さん」


 にこり、と甘く笑う少年は、四条坂第二高校の制服に身を包んでいる。第八世界境界との交戦など、微塵も感じさせない健康な姿。

 百合子は驚きに瞬く。大きく見開かれた深く黒い瞳を見て、隼人は首の傾きを大きくした。


「どうしたの? ぼーっとしちゃって」


 繋いでいない方の手を百合子の目前で揺らす隼人は、呆然としている百合子が異常だと言わんばかりに落ち着いていた。

 百合子は隼人から、その背になっている景色に目を映した。

 連なる高層ビル、アイドルの笑顔が映る特大の広告版、交通量の多い道路、人通りの多い中で立ち止まる男女を横目で見て行く通行人。

 見覚えのある光景に、百合子は背後へと振り返った。


「ここ……、四条坂駅?」


 百合子には、忘れられもしない。

 たくさんの悲鳴、生気を持たない白法被たち、充満する血の臭い、あちこちに飛び散る肉塊、魔神の雄叫び。頼んでもいないのに百合子の記憶は、目の前の光景と惨劇とを同調させた。

 くらり、と揺れた華奢な身体を隼人は慌てて抱きとめる。


「っと、大丈夫? 具合悪いの? 水族館はまたにして、帰ろうか?」

「……」


 無言の百合子の顔色を窺い、休ませるべきだ、と判断したのだろう。隼人は「座れるところまで、頑張って」と励ましの声をかけると、百合子の手を引いて歩きだした。

 急ぎたい、というそわそわとした心情は雰囲気に表れている。しかし、体調不良の百合子を急がせるわけにはいかない、という気遣いからか、足取りは過剰に遅い。

 百合子は繋がれた手に力を込める。

 応じられるように握り返す暖かい温度は、何度も百合子を引き上げてくれた少年の体温に違いなく、少年は幻想ではないと伝えているかのようだった。


「座って」


 一番近場のベンチに辿りつくと、百合子は隼人に勧められるままに腰を降ろした。心配そうな顔をする隼人は「飲み物、買ってってこようか?」と百合子を窺う。緩やかに首を振って否定をした少女に、食い下がることはせずに少年は百合子の隣を埋めた。


 場所も時間も違うどこかに飛ばされる――、それだけは過去を見る感覚と似ている、と百合子は事態を推察することに努めていた。

 しかし、決定的に違うこともある。

 過去を見ている間は、過去の時間軸にいる人間とは交流を持てない。だが、今、百合子の隣にいる隼人は百合子に関わっている。何より、こんな記憶がないことは百合子が一番よく分かっていた。


「……第八世界境界点は、どうなったの?」


 おずおずとした様子でされた質問に、隼人は間の抜けた表情をした。百合子を見つめながら、ぱちぱちと、瞬きを繰り返した後に、少年は耐えきれないとばかりに吹き出す。


「終わったことじゃない。嫌なこと思い出す必要なんかないんだよ」

「……」

「俺が、ぜーんぶ忘れさせてあげる」


 まるで慈しむように、柔らかに目を細める隼人は、百合子の手を取った。何が楽しいのか、少年は喜色満面でにこにことする。

 二人は完全に周囲に溶け込んでいた。

 四条坂駅前の広場。英雄の意志の姿もなければ、惨劇の片鱗を見ることも叶わない。至極平和で平凡な日常の光景。


「……分かってたけど、貴方、隼人じゃないのね」

「? 百合子さん?」


 百合子は目の前の少年が、隼人であって隼人でない、と急速に理解した。

 穏やかな雰囲気や、高めの体温、多彩な表情の変化、ふとした時の仕草。どれをとっても少年は雛日隼人であるが、百合子の知る隼人は、過去を忘れてしまえ、などとは軽々しく言わない。

 彼が本物でないと判断する材料には、それだけで十分であった。


「……全部、夢ならよかった」

「え?」

「魔神と人の争闘も、一ノ渡若桜も、過去も、第八世界境界も……。私が鍵なことも、貴方がレジスタンスなことも――、隼人が、母の実験研究体だってことも」


 百合子は心に溜まっていたなにもかもを、音にして吐き出していく。

 不安も、希望も、後悔も、苦悩も、理想も。たくさんの感情といくつもの心情が混ざり合い、百合子は身動きがとれなくなていたのかもしれない。

 一度、口から出てしまえば、もう止まらなかった。


「百合子さん?」

「嫌なことだけ忘れるなんて、都合がよすぎるわよね。……全部、夢だったらって思うのに――貴方のことは忘れたくない」


 百合子は立ち上がると、ゆっくりと隼人から離れる。

 そのまま消えて行きそうな少女を引き止めるように、隼人の手は自然と彼女の手を捕らえた。ぐ、と力の籠る拘束に、百合子の心が揺らぐ。

 しかし、それも一瞬の動揺である。百合子は誰にでもなく首を振って、拒否を示した。

 夢想の少年の隣に、自分は立つべきではない。


「嫌な記憶全部抱えてでも、隼人のこと覚えておきたい」

「百合子さん? 本当にどうしたの?」

「”鍵”としての私には嫌なことばっかりだった。でも――」

「ねえ、俺の話聞いてよ」

「貴方に会ったことだけは、悪くなかったわ」


 気の強い瞳を柔和に細めた彼女は、潤んだ瞳で一生懸命に笑って見せる。無理やりな笑顔に、隼人は百合子の手首を捉える手を更に強く握った。

 口にしたのはすべて彼女の本音である。


「……俺も、百合子さんに会えてよかったよ」


 百合子は穏やかな動作で、手を離す。隼人は離れて行く温度を追うことはしなかった。


「ねえ、隼人。過去を忘れられるとしたら、全部忘れて、新しい人生が歩めるとしたら、貴方はどうする?」

「――――俺は奪った命の分、贖罪をしなきゃならない。死より酷いことは、たくさんあって、俺は、簡単に逃げたら、いけないんだ」

「……辛くないの?」


 哀しみを堪え、自嘲するように微笑む。


「俺の、自己満足だから」


 百合子のそれが隼人の本音に思えた。

 もしかすれば、彼は百合子の作り出した隼人の幻影なのかもしれないが、その真意を知るのは隼人本人しかいない。


「もしも、私が間違った道を――始まりの雷鳴の意に違ったら、貴方は私を止める?」

「……大丈夫だよ。百合子さんの進む道は間違ってない。自信持って」


 禁忌の実験体と研究者の娘。レジスタンスの少年と魔神掃討機関の元帥の孫。

 隼人がドールでなければ、百合子が鍵でなければ、二人が邂逅することはなかった。出会い、親和の関係を育んできた二人の間には、見えない境界線が確かに引かれている。

 それは何よりも深い溝であった。


「でもなぁ、百合子さんって誰にも頼らないで、一人で頑張っちゃうところがあるから――」

「余計なお世話よ」

「はは、言うと思った。……でも、ほんと、辛くなったら、俺を頼ってよ」


 目の前の少年に足りない現実味。その正体は、百合子の生温い理想。

 隼人に背中を押してもらえれば、自分の妄想でも構わない。

 自分の欲望がそのままに投影されているのだと理解し、百合子は乾いた笑いを漏らした。素直な自分の心に、羞恥よりも呆れを覚える。


「ありがとう、隼人。こんな独り言にも付き合ってくれて、ほんとうに、……ありがとう」


 偽物でも、本物でも、構わない。

 百合子は破顔する。可愛らしく笑った少女に、隼人もつられて笑った。


「貴方を好きになれてよかった」


 百合子は隼人に背を向けて走りだす。

 目的地はないし、何処に行けば何処に辿りつけるのかなど分からない。ただ、走り続けていなければ、うるさく騒ぐ鼓動を誤魔化せなかった。

 急に頬が熱くなり、瞳に涙の膜が張る。高ぶる感情を吐き出す方法が分からず、ぎゅうぎゅうと心臓が締めつけられた。


 百合子は改めて、決心する。

 自分のためにも、彼のためにも、世界境界点は消す、と。境界点の消失は人類にとっては大きな痛手であろうが、隼人という個人にすれば、レジスタンス活動の軽減と、過去の清算になる。

 少しでも、力になれるなら。


 百合子の視界は、刹那に切り替わる。

 動かしていた身体は瞬時にして動かなくなった。瞳に映る光景は、駅前の賑わいから、殺伐とした森を背景にする第一世界境界とその忠臣である青年へと変化している。

 百合子は目線だけで自分の身を確かめる。

 身体を貫いていたはずの雷は名残もなく、痛みも傷もない。感触と轟音だけは記憶に残っていて、遅ればせて身震いした。


「相島百合子」


 名を呼ばれ、百合子は弾かれるように顔を上げる。オーディンは百合子の瞳の色を見つめて「お見事」と短い賛辞を述べた。

 淡く輝くペリドット。

 第八世界境界点の色に染まる瞳は百合子自身の目であり、彼女にその変化を知りうる手段はなかった。

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