第149話 審判の時は来たれり

 美濃と百合子は沈黙を守ったままで、オーディンが戻るのを待っていた。互いを意識しての気まずさはないが、この後のことを考えると、場の空気は必然と重くなっていく。

 世界境界点の消失。

 そのための審判について、百合子はぼんやりどころか、まったく知識を持たない。 


「……ねえ、審判って、結局は何なの?」


 百合子は足に力を入れて、ゆっくりと立ち上がった。肩にかかっていた白衣が地面に滑り落ちる。くしゃりとした白衣を拾い上げ、畳んで抱える動作は無意識でしているようだ。

 涙は既に止まっていて、心の行き場も隼人への心配から、これから起こる審判へと移り変わっていた。

 リフレクションドールをぼんやりと眺めていた美濃は、目線だけを百合子に流す。


「雷に撃たれること」

「……雷?」

「オーディンの”審判”はマグスを含めた”人間”以外に使える能力だ。存在を代価に存在に事象を起こす。境界点と鍵を繋ぐのには必要不可欠」

「……」

「……俺から言えることは多くねえよ」


 美濃はなんの能力も持たなくなった左目を塞ぐように、手のひらを這わせる。青年にしてみれば、身に宿し続けた力がないことは、心に穴が開いているような感覚だった。


「……今までにも、こうして鍵に審判を下したことが?」

「ある。俺が見届けたのは一回だけだけど、オーディンが廃棄してきた鍵の数は知らない」

「もし、私が、適性でなかったら――」

「何があっても、世界は回ってく。なくなったものは自然と補われ、どうしてもうまく収まらなければ壊れる。それだけだ」


 どこか心ここに在らず、といった様子の美濃の横顔を見て、百合子は言葉を止める。欲を言えば、建設的なアドバイスが欲しかったのだが、美濃にそれを期待するのは無謀であろう。

 二人の間には再びの沈黙が訪れる。


 リフレクションドールから出てきたオーディンは、イオンという仮宿を捨て、彼女本来の姿であった。華麗な装飾を持つ着物は美しくはあるが、動くには不自由そうに見える。

 重そうな着物で一歩一歩、緩やかな足取りをするオーディンは、急ぐという言葉を知らないようであった。


「すみません、待たせましたね」


 おっとりとっした速度の声からは、申し訳なさそうな気持ちは微塵も感じられなかった。

 並び立つ二人がオーディンへと出迎えの言葉を渡すことはなく、第一世界境界の投げた声の残した余韻が、作為的に静かな場に響く。


「説明を」

「お願いするわ」


 食い気味で頷いた百合子に、オーディンも頷いて返す。

 白衣を抱きしめる少女には不安が滲んでいたが、揺るぎない瞳には決心だけが灯っていた。

 美濃は傍観者であり、積極的に関わっていくことはできない。そんな己の立ち位置を理解している、と示さんばかりに僅かに後ずさる。


「境界点と鍵は、あちらの世とこの世の交差点」


 オーディンは右手の人差し指を立てると、真上に鎮座する第八世界境界点を指差した。

 空に浮かぶ、透明の正八面体の結晶は、まるでガラス細工のようである。外面に繋ぎ目はなく、八枚の三角形が結合して構成されているのではなく、それ自体が一つの塊であった。


「世界境界点の存在に影響するには、貴女が世界境界点と契約をする必要があります。しかし、境界点は意志を持ちません。そこを中継ぎするのがわたくしの力――”審判”なのです」


「……」

「わたくしの持つ第一番の力は、存在を代価に存在に事象を起こすこと。要は存在の書き換えです」


 美濃がおざなりにしたのと同じ説明をオーディンが繰り返す。

 しかし、第一世界境界はそれだけで自己紹介を終えることはせず、補足するように「境界点を止めていたのも〝審判〟の力に他なりません。貴女の存在を代価に、世界境界点という存在を停止させた」と後を続けた。


 ここは現世から隔離された場所と言ってもいい。

 そんな辺境の地で、自分の存在がこの世からなくなった、などと宣言されても、少しも実感はないだろう。少なくとも、百合子はそうだった。


「――私は何を、どうしたらいいの」


 オーディンの説明が半ばであると分かりながらも、百合子は言葉を遮って意見を述べる。先の見えない演説に耳を貸す時間が惜しかったわけではない。

 ただ、純粋に、思ったままを口にだしてしまっただけ。

 オーディンは百合子の質問に答えることをせずに「その前に、ひとつ。絶対に言っておかねばと思っていました」と、真剣な瞳で百合子を見据えた。


「契約の後は、鍵が世界境界点の管理者となる。動かすも、止めるも、消すも、貴方の意志の力」

「……」

「例え、貴女が望んで消したとしても、貴女が望めば境界点は再び現れる」

「……それって」

「貴女こそが世界境界点の意志となるのです」


 オーディンの”審判”は世界境界点を消失させる能力ではない。第一世界境界は世界革命のためには絶対必需の力であるが、単体では意味を成さないのだ。

 世界境界点を消せるのは、鍵だけである。

 誰もが知りうる理は文字通りの意味を持つ。


 表情を消し、無言でいる百合子は宙に視線を彷徨わせた。静かに動揺する少女へと、オーディンは情けなく眉を歪めて「わたくしは貴女のすべてを分かっているわけではないのですが、イオンと貴女との会話で分かったこともあります」と控えめな響きを漏らした。


「鍵としての役目から解放されること。残念ですが、貴女のその望みは叶いません」


 百合子は真っ正面から否定された己の願望に、くらりと目眩を覚える。

 信じ続けてきた道は、完走する寸前で茨に閉ざされた。退路も崩れ落ち、身動きが取れない。心臓が軋む音が百合子の聴覚を支配する。


「鍵という力は、完全な死を迎えるまで、手放すことはできないものなのです」


 真理を説いているだけなのだろうが、百合子にしてみればその声は最悪の宣告に等しい。

 鍵の力を放棄し、役目から解放されることを望んでいた少女は、唐突に突きつけられた現実を簡単に受理することができなかった。

 どくどくと激しく鼓動を打つ心臓は、なによりも百合子の機微を表している。


 世界境界点の意志となる。

 つまりは、魔神の世と人類の世との融解点を支配下に置くこと。

 鍵という異能と、相島の娘という特別な身分があろうと、変哲のない人間として生きてきた百合子には重荷でしかない。


 外見に動揺を見せはせず、思考だけを混迷に落としている百合子は、輪から外れた位置にいる美濃を横目で窺う。少女の視線に含まれている疑問を汲みとって、美濃は「当然、俺たちは知ってる」と取り繕うことをしなかった。

 百合子は美濃の言葉に、反射的にリフレクションドールへと顔を向けた。待機するメルトレイドに乗る少年もまた、その事実を知っていたことになる。


「そして、鍵である以上、審判は避けられない」

「…………そうね」


 百合子の隼人に対する信頼は、事柄によっては絶対的であった。

 薫に心を捧げ、イオンを想い、フロプトのために立つ少年。その彼は、百合子を絶対に死なせない、と誓いを立てたのだ。

 無駄に命を散らすだけの行為が審判であるなら、隼人は百合子を引き留めた。


 隼人は嘘をついて他者を陥れる人間ではない、と百合子は信じている。もし、裏切られようとも、隼人を信じた自分を情けなく思うことはない、とも確信していた。


「私は――」

「はい」

「私は、境界点を消し去る。第八世界境界の再来なんて、ごめんだもの。――例え、鍵としての役目から解放されることはなくても」


 ここまで来たからには、進むべき道はひとつ。

 不安も恐怖もあるが、足を止めるつもりはない。百合子の覚悟はしっかりとできあがっていた。今更、弱音に沈むことは、彼女の自尊心が許さない。


「わたくしの雷が貴女を射抜く、その先に、貴女は何を見るのでしょう――」


 オーディンは強く滾る百合子の瞳を見受け、天に向けて真っすぐに腕を伸ばす。

 引き寄せられるかのように、大小さまざまな黒い雷が空から降り落ちた。

 ばちばちと破裂音を鳴らすうごめく光の槍。黒の雷は自然現象ではないようである。放電して消えることなく、オーディンの背後を飾るように滞在し続ける。


 オーディンは空に向けていた手のひらを、百合子を指し示すように振り下ろした。

 その動作に合わせて、黒の雷は標的を定める。

 相島百合子、八番の鍵。


「さあ、審判の時です」


 百合子は目を閉じた。

 視界を塞ぐと耳に届く、雷の轟音が酷く鮮明に聞こえてくる。


 痛みはなかった。

 それでも、身体を貫く何かの感触は、ダイレクトに百合子の脳を揺らす。ずぶり、ずぶり、と何本もの雷が少女を串刺しにしていく。

 少女に抱えられていた白衣が、ふわりと宙を舞った。

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