第141話 それぞれの思惑を形どる世界境界線
美濃は滞りなく進んでいく過去を歪めた顔で見ていた。
楽しい過去だろうと、悲しい過去だろうと、美濃には若桜の生い立ちなどまるで興味がない。同情の余地があったところで、若桜を受け入れることはできないのだから、不毛な時間であった。
一ノ砥若桜はオーディンという美濃の絶対大義に反する。その事実だけで十分であるのに、こうして過去を見せられることは苦痛でしかない。
揺るぎない進むべき道があろうと、非情な冷徹と扱われようと、美濃にも良心はある。
青年が思うひとつは、これを見ているのが隼人とイオンではなく、自分で良かったということだけであった。
「ねー、アスタロト」
『……なぁに』
急な時間軸の変異は、何度体験しても違和感があった。
先ほどまでは十歳であった若桜は何年か年を重ねて成長していた。まだ未成年だろうが、背丈はぐんと伸び、声変わりも済ませたのだろう。雰囲気は現代の若桜に近しい。
「〝ちゃん〟とか〝くん〟ってなんなの?」
『は?』
「研究員の女が言ってた」
若桜がいるのは研究所の残骸の一室である。
社会に出ることのできない少年の情報源は、アスタロトによって見せられる過去からの情報と、電源を繋がなくとも映るテレビから知り得る情報である。
研究所に残ったファイルや死体の欠片から過去を読み取り、若桜に見せては社会体験を疑似体験させることをアスタロトは繰り返していた。世界境界にまともな教育をする術などなく、若桜は偏った知識を増やしながら、流行と社会情勢に詳しくなっていた。
『……ああ、若桜ちゃんとか、若桜くんとか?』
「そうそう」
遮る壁などなく研究所の内も外もあまり大差ない。
瓦礫で足場の悪い道を辿り、体を丸めて寝ていたアスタロトに近寄った若桜は、敬称についての適当かつ大雑把な説明を聞くや否や「若桜くん!」と楽しそうに叫んだ。
『自分で使うものじゃないのよ、若桜』
「えー、でも、アスタロトに呼ばれてもしょうがないしさあ。アスタロトにつけてもしょうがないし」
『頼まれても呼ばないわよーだ』
気持ちよく寝ていたところを邪魔されたからか、素っ気ない返事をするアスタロトは二度寝のために再び体を丸め直す。
「友達ができるまでは自分で呼ぼうかなあ。呼ばれたときの練習ー」
練習も何もない、という言葉を呑み込み、アスタロトは『いいんじゃないのぉ』と粗雑な返答を返した。瞳を閉じたアスタロトはすっかり寝つける状態である。
「……ヒナくん、イオンちゃん、かぁ」
小さな、小さな声が自分と同じく生を繋いだ二人の名前を呼んだ。
この研究所で記録に残っているものと言えば、ほとんどがサンプルと呼ばれていた二人の記録である。同じ境遇である二人へ親近感が芽生えるのは時間の問題であった。何度も過去を見ているうちに同族意識も持ち始め、いつしか若桜は二人を特別視していた。
「ふへへ」
二人なら自分を理解してくれるのではないか。決して今に不満があるわけではないが、アスタロトと魔神だけが話し相手である若桜は、ずっと人間に焦がれていた。
『……』
「アスタロト、若桜くん走ってくるね!」
覚えたばかりの知識を披露し、若桜は駆け出す。毎日をテレビの前だけで過ごすことなど若桜にはできず、体力トレーニングとばかりに走り回っては魔神と戯れていた。
野生児としての道を着実に突き進んでいる。
若桜の姿が消え、アスタロトは瞼を緩やかに開けた。ペリドットは不機嫌を滲ませていて、濁った声で『なぁにが友達よ、なぁにがヒナ君とイオンちゃんよ』と憤りを吐き出す。
単に嫉妬でものを言っているのではなく、アスタロトが危惧しているのは若桜の心変わりである。アスタロトが若桜を手塩にかけて育てている理由はひとつ、彼を世界境界線にするためである。
余計な知識を与えず、自分の夢想を若桜の夢想にしてしまおうと策略していたアスタロトからすれば、少年に影響を及ぼす存在になろうとしている被験体二人は邪魔でしかない。
美濃はアスタロトの心の声が聞こえるようであった。
アスタロトと若桜の決定的な食い違いの正体は、隼人とイオンの存在である。時たまに行動が相容れない理由も、被験体の二人であった。
時間は更に流れる。
美濃の目に見える光景は廃墟の傍らにいるアスタロトから、世界境界点の直下に立ち並ぶ青年と赤い竜へと変わった。
色素の薄く、短い前髪にアシンメトリーに右側だけ長い髪。体格がいいわけではないが、大自然で鍛えた体は細身であるが引き締まっていた。現代の若桜と異なるところは、目の色だけである。
「世界征服?」
首を傾けた若桜はアスタロトを見上げて瞬いた。アスタロトの容姿は寸分も変わらず、眩しすぎる赤をまとった竜は優美に尾を振る。
『そう! この世のすべてをこの手に!』
興奮したように高らかに声をあげたアスタロトは、わざわざに顔を若桜の前に持ってくると『私の夢なの、世界征服』と続けた。
『この世界は間違っているでしょう?』
明るい緑の瞳の中に、きょとんとした自分を認め、若桜は口を挟まずに世界境界の声を聞く。アスタロトが語るのは、いかに魔神が正しく、人間が間違っているかだった。
「SSDさえなければ、研究所での実験もなかったんだよね」
研究所がなければ苦行を強いられることはなかったのだ。あの頃はそれが当り前だと思っていた若桜の感覚ばかりは、正常な方向へと修正されていた。
『今の若桜なら十分、境界線としてやれるわ』
「もちろん、やる」
即答で首を縦に振った若桜は、いつかしたように伸ばした手でアスタロトを撫でた。赤い鱗の頬をさする手には幼さなど残っておらず、慈しむような手つきは愛に溢れている。
「アスタロトには恩返ししないとと思ってたし、皆の無実も証明しないといけないし」
若桜はこつん、とその額をアスタロトの鼻先に当てた。そっと目を閉じ、今日までを思い返す。
研究所に連れてこられ、実験の日々を越え、第八世界境界と出会った。それから、たくさんを学び、しっかりと育ち、今を生きている。
目を開いた若桜に映るのは鮮血のような赤と、野望に輝くペリドット。
「間違った世界なんていらない。正しい世界をつくらなきゃ」
優しく細めた若桜の瞳はそれまでの茶色からペリドットに染まる。アスタロトと自分と魔神との幸せを思い、柔らかに頬を緩めた若桜がぱちん、と指を鳴らすと、鬱蒼とした新緑の森は淡い桃色の桜の森へと色を変えた。
そして、第八世界境界点が光を灯す。
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