第140話 一ノ砥若桜

 一ノ砥若桜には人生に二度の転機があった。

 二十一年前の冬、四条坂都内の総合病院。一ノ砥家の第一子として生まれた彼は、滅多に家に帰らない父親の分も母親からの愛情を多分に受けて、すくすくと育っていく――はずだった。


『あんたいくつなの?』

「十歳」

『ここに来たのはいつ?』

「分かんない。若桜はここのことしか知らないから」

『じゃあ、ここ外のこと知らないの? かっわいそぉー』


 彼の人生が常道を外れたのは、彼が一歳になってすぐのことだった。

 この頃の記憶は若桜自身にはないだろうが、確かにごく平凡な形でその日までを過ごしたのだ。ほんの僅かな期間の平穏。


『あんたも”親なし”でここに来たの?』

「ううん。お父さんもお母さんもいるよ。お父さんはここで働いてたし、お母さんはお手紙くれる」

『ここで? あんた本当は父親の仕事を見学しに来たのに、間違えて被験体の仲間入りしちゃったんじゃないの』

「違うよ。若桜はニンゲンのカノウセイをケツジツするためにここに来たんだから」


 取り違えで被験体になったのではなく、元より被験体として他の子供たちと一緒に運搬されてきたのは間違いない事実だ。

 それは若桜自身も理解していた。血の繋がった父親にそう言われ続けてきたのだから、嫌でも認識するというものである。


『……あんた、絶対意味分かってないでしょ』

「分かってる! みんなのためになること!」


 若桜は第八世界境界点の影響圏内にある研究所に、彼の意志に関せず連れてこられた。これが一度目の転機、運命のねじれた日。

 その頃の研究所は設立されたばかりで真新しく、魔神の生態を研究し、魔神の力を人為的に人間に宿させる実験をするための施設であった。


 マグスのように魔神を扱える人間ではなく、魔神の力を持つ人間を作り出そうという倫理に反する計画を実行するため、世間の監視の及ばぬ未開の地に研究所は建てられた。


『まあ、おバカちゃんでもいいわ。私が何だって教えてあげるし』

「おバカちゃんって何?」

『……』


 物心つくと同時に社会から隔離されてしまっていた若桜の世界は、狭い研究所の敷地だけである。


『本当に何も知らないのね』


 研究所が当初の目的を果たすことはなかった。夢を絵にかいたような想像は早々にその不可能を研究者に知らしめ、計画の方向性を変えざるを得なくなる。


 代案になったのが、魔神たちを制圧する力を持った人間を創造する計画。世界境界までをも力で統べようという単純で漠然とした企てである。


「ねえ、若桜も聞いていい?」

『いいわよ。なあに?』


 二度目の転機は、皐月アクロイド事件。

 この日に生き残った人間の数は二十九人。美濃を含む、二十三人の竜の民。研究所の中枢であったアクロイド、一ノ砥、相島の三人の博士。

 そして、隼人、イオン、若桜の三人の被験体。


「きみは何なの?」


 若桜は自分と話す存在を見上げた。くりくりとした真ん丸の瞳に映るのは大破しているメルトレイド――英雄の遺志。


 コックピットに繋がるハッチは大破していて、中に人が乗っていないのは目に明らかである。しかし、聞こえてくる声は確かにそこから発されていて、若桜と会話を成していた。


『ようやく聞いたわね! 何を隠そう――』


 小さな若桜を見下すようにしていたメルトレイドは膝を地面につけると、きょとんとした若桜の顔に機械の顔を近づけた。若桜の目を惹いたのは、鮮やかで明るい緑の色。


『私はアスタロト、第八世界境界!』

「…………え? セカイ、キョウカイ?」

『そう! この私こそ、世界を繋ぐ十三の境界の一つ、過去を見通す第八番!』


 自信満々に自己紹介をする機体は、ほんの寸前まで薫の乗っていた機体である。

 若桜とアスタロトが言葉を交わしているのは、五月二十一日、魔神が溢れる研究所の敷地。隼人とイオンの乗る二機のメルトレイドと魔神たちが破壊行動をしている真っ最中であった。


 今、まさに皐月アクロイド事件が勃発しているところである。


「ッ――!」


 若桜はくるりと踵を返すと小さな体を転びそうになるくらいに傾けて駆け出した。この場から逃げなくては、という必死さが背中に表れている。


『ちょ、なんで逃げようとすんのよ!』


 幼い若桜の逃走を止めることなど、アスタロトには容易いことだった。動くこともなく、腕を伸ばして若桜の行く先を手のひらで防ぐ。止まれない体は思いっ切り機械の手のひらにぶつかると、派手な衝突音と共に地面に転がった。


「いた、いたいっ!」

『ちゃんと最後まで話を聞かないからこうなるのよ』

「だって、セカイキョウカイはニンゲンの敵でしょ!?」

『誰があんたをあそっから助けてやったと思ってんの!!』


 若桜を止めたのとは逆の手で指し示したのは、がらがらと崩れていく研究所である。怪獣映画のように二機のメルトレイドは一心不乱で破壊活動へ打ち込んでいた。

 暴走する二機を止めに入ったのは、薫から譲り受けた新世代機に乗った美濃であったが、彼が来るのは竜の民の集落に押し寄せた魔神を完全制圧した後のことだ。

 美濃が到着するまで、まだ時間はある。


「……あそこからは自分で出てきたもん」


 若桜はのそのそと起き上がると、体に着いた土を払い落す。むすりとした顔はアスタロトの言い分を否定しているようであった。


『――そうね、そのとーり』


 事実、若桜は自分の足で研究所の外へと出たのだ。


『でも、あれに踏みつぶされそうだったでしょう?』

「う……」


 唐突に起こった異常事態に研究所は碌な対応もできず、成されるままに脅威を受け入れた。二機のメルトレイドだけでも十分に手に負えないのに、加えての大量の魔神である。

 パニックになる研究所は内も外も地獄であった。内では豪快に建物の姿を潰していくメルトレイドの餌食に、外では飢えた魔神にとりつかれ精神を貪られて、結果的に肉体をも失う。

 どちらにしろ、末路は死である。


 若桜はその騒動の中をふらふらと研究所の外まで歩いてきた。魔神に襲われることはなかったが、実験機体に踏み潰されそうになったところを英雄の遺志に助けられ、事変の中心から離れた場所へと連れてこられたのだ。


『にしても、全然動じないのね? 怖くないの? こんなに魔神がいるのに』


 アスタロトと若桜が悠長に話をしている間も、魔神は次から次へと湧き出るように数を増やしている。そうすることが本能で、人のいる方へと向かって行くのは当然だが、若桜を無視していくことは理に反していた。


「マジンは、敵じゃない」

『――そう。どうしてか、あんたは魔神に襲われない』


 英雄の遺志から感情を読み取ることはできないが、不思議そうに思っているのは声から伝わってくる。襲われない理由を若桜自身は理解していないようで、きょとんとした顔で首を傾げた。


『何でなのかしらねー、竜の民ってわけでもないみたいだし』

「竜の民?」


 答えを知る者はなく、世界境界にも判別付かない事象である。アスタロトは『なんでもないわあ』と適当に話を畳んだ。


『で、あんたはこれからどうするの?』

「どうする、って……」


 研究所で常識を培い、日々を実験と研究に費やすことを強制されていた若桜は、今後のことなど何も考えたこともない。何をしたいか、と言われても、世の中に何があるのかを知らないのだから、答えようもない。


 アスタロトの質問は、まさにそれであった。


『――あんた、名前は?』

「若桜。一ノ砥若桜」


 一も二もなく、自分の名を告げた若桜は真っすぐに視線を合わせる。無知ゆえの無謀なのか、恐れる様子のない少年に応じるように、アスタロトは英雄の遺志という隠れ蓑を捨てた。

 真っ赤な鱗、細身の身体はしなやかで美しく、悠然とした姿である。光を受けたペリドットの瞳は幼い若桜を映した。


『これからがないなら、私の手を取りなさい若桜。私のために生きて』


 第八世界境界本来の姿を見ても、若桜は一歩も退かない。


「きみのため?」

『そう、私には若桜が必要なの』


 若桜はそっとアスタロトの顔へと手を伸ばす。

 絶対に届かない距離を詰めるように、赤い竜は首をもたげた。傍にきた鱗へ、若桜は静かに指を触れさせる。肉を守る鱗は固く、厚い。ざらりとした感触を確かめるように、小さな手がアスタロトの肌をぎこちなく撫でた。


 いつまでもぺたぺたと鱗を触る若桜を咥え、背に乗せたアスタロトは空へと羽ばたく。魔神の群れも世界境界のために道を開け、すぐに姿は見えなくなった。


 そして、入れ替わるように現れたのは現行機。

 この時代では最新に当たる型番であるメルトレイドは、現代でアイスワールドと呼ばれているそれである。

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