第90話 迫る真実はまるで偽りのようで

 美濃が肌身離さずと身につけているものは二つ。

 一つは左目を覆い隠す眼帯。もう一つは腰元に隠した拳銃。

 後者は不測の事態に対処するための武力であるが、ただの飾りでしかなかった。

 たった今までは。


「人の家に土足で入り込むとは、随分と礼儀知らずだな。一ノ砥若桜」

「あ、ごめん。土足厳禁だった?」


 若桜はいそいそと下足を脱ぐと、片手に纏めて持った。境界線の青年は家主の言葉通りを素直に実行しただけであるが、それは美濃が言いたいことが、まったくと通じていないことを意味している。


「喜里山くんに用があって来たんじゃないんだよ。相島ちゃんをお誘いに来たの」


 ぺらぺら、と若桜は美濃の背後へと手を振る。

 百合子は僅かに後ずさった。間には美濃が立っているし、十分な距離はあるのに、寒気はぞくぞくと彼女の背を駆けあがっていく。

 にっこりとした青年の笑みに、得体の知れない不安が百合子を襲う。


「……っ!」

「そんな顔しなくてもいいのにー。でも、不用心だよねえ。博物館から来れちゃうんだから」


 若桜がここまで来た道は、第一世界境界博物館とを繋いだ扉。美濃と雅が通勤に使用しているものである。

 絶対零度の視線は、招かれざる客から離れない。

 命を奪う武器を構えた美濃の腕も、下がることなく若桜を捉えていた。


「もー、喜里山くん頼むよー。ほら、靴も脱いだしさ。そういうの向けるのやめ――」


 鈍い爆音は容赦なく鳴り響いた。

 第一境界に侵入を果たした男へと向けられた鉄の筒から、銃弾が額目がけて発射される。

 弾け出た弾丸は確かに命中した。


「やだなあ、血の気が多いんだから」


 しかし、被弾したのは若桜ではない。

 空いた風穴から血を噴き出し、姿を現した瞬間にその形を霧散しようとするは、若桜に喚び出された魔神。世界境界線である若桜の身体は、この世界と魔神のいる世界とを繋ぐ。

 若桜と美濃を隔てていた魔神が消えると、美濃は銃を下した。無尽蔵に沸いて出る生きる盾があるなら、弾数の決まっている銃は分が悪い。


 薫の部屋には窓がない。開いた扉からの光だけが明かりの部屋は薄暗いが、互いの表情は見て取れる。余裕の若桜に目を合わせていた美濃を襲ったのは、小さな衝撃だった。


「違うの! 違うのよ、美濃!」


 美濃の腕を掴み、必死に縋りつく雅は、懸命に否定を繰り返した。


「美濃聞いて! 私、私ね――」

「何も違くないじゃーん。若桜ちゃんと菱沢さんはオトモダチでしょー?」

「違う! 何で来たの!? 美濃に手出ししない約束でしょう!?」

「げ、酷い! 殺されそうになったのは一ノ渡なのに!」


 二人の応酬からは、顔見知りであることが窺い知れる。

 呆然とする百合子は、雅と若桜の口論を他人事の用に見つめていた。喚くように主張をぶつけ合う二人は、何かしらの関係があるのは明白である。


「雅――」


 凛然とした声が喧騒を打ち消す。

 呼ばれた名は他人のものであるのに、百合子は一緒になって心を固まらせた。どんな事実が目に触れていくのか、少女の中では興味よりも恐怖が勝っていた。

 身に疲れを覚える、心を刺すような事象はもう十分に足りている。


「お前、俺を裏切るのか?」


 名を紡がれた当人は、死の宣告でも受けたかのような顔をして、脱力している。美濃だけを映す瞳は酷く動揺していて、声は「違う、違う、違う」と一つの言葉だけを繰り返して鳴らす。

 美濃はただでさえ鋭い目に嫌忌を含ませ、壊れた同胞を見やった。それらしい言い訳はしない雅は、しつこく否認だけをしていた。


「全部正直に言っちゃえばいいのにー」


 扉と部屋との境に立つ若桜は、ゆらゆらと身体を揺らす。事の成り行きを見守ってはいたが、話が進展しないと踏んで茶々を入れたようだ。

 面白いように食いついた雅は「黙ってて!」と若桜を叱りつける。


「はぁ? アンタ、若桜くんにものを言える立場なわけ?」


 ぶすっ、と膨れた若桜はぱちん、と指を鳴らす。

 小さな音に反応したのは雅で、若桜がこの屋敷に来たことへ怒り一色であった彼女は、電源が切れたように表情をなくした。

 それから、雅はにい、と口角を釣り上げる。 


「酷いわ、若桜ったら! 雅は何にも悪くないのに!」


 両手で顔を覆い隠し、膝をついて泣く素振りを見せる彼女は、もう雅ではなかった。

 空気が違う。

 曖昧のような根拠であるが、確かに、違うのだ。

 百合子の本能は目前の光景から逃げようと判断し、足を無意識に逃げさせる。後ずさりする彼女の背が壁にぶつかると、ずるずると身体は床に落ちていく。


「アスタロトまで一ノ砥若桜を責めるの? うっざあ」

「だって、若桜ったら優しくないんだもん。雅が辛いと私も痛くなっちゃうの」

「可愛い子ぶられてもなー」


 雅の――アスタロトの泣き真似は終わらない。

 わざとらしすぎる仕草を、若桜は呆れ眼で見届けている。

 茶番を繰り広げる青年らを前に、美濃はちらりと背後を確認した。動くどころか、立つこともままならない百合子を認めてから、美濃は緩やかに歩きだす。

 行く先は騒ぎを繰り広げる青年らの元ではなく、ベッドに寝たままでこの部屋に放置されている彼女の元だ。


「あ、うるさかった? ごめんね、寝てるとこ。ほら、アスタロトも謝んなよ」

「どうせ起きないんだからいいんじゃないの?」


 塞ぎこむ演技も飽きたのだろう、アスタロトは若桜の隣に並ぶと、無邪気に笑い声を上げる。肉体が一緒であるのだから、顔は何も変わっていないはずなのに、おっとりとした雅の面影はない。

 もしかしたら、目の色のせいかもしれない。

 顔を上げた彼女の瞳は、輝かしきペリドットに変化していた。


「美濃ったら、ほんとシスコンなんだからー。私も構ってくれないと嫌いになっちゃうぞー」

「アスタロトきっめえ」

「ぎゃ、若桜最っ低! 若桜なんかもう知ーらない」


 薫の傍に立った美濃は、身を縮こませる百合子を見てから、若桜とアスタロトを見た。

 第八世界境界とその境界線。そして、八番の鍵。八にまつわるすべてが揃ったこの場で、関係のない青年は一瞬だけ、表情を暗くした。

 誰の目にも止まらない寸秒、その間だけ変えた表情は、雅への謝罪だ。


「アイスワールド」


 衝撃の音は激しく、その場にいる全員の耳を襲う。

 ぱらぱらと家屋であったものが、破片となって散った。

 百合子の頭上、壁を突き抜けて現れたのは、メルトレイドの拳。その手は百合子を守るように彼女に覆いかぶさると、もう片方の手が屋根を剥いで部屋と屋外を同一の空間に仕立て上げる。

 薄暗い空間は、夕日の橙に染まった。


「わ!」

「相島、どうせ動けないだろうが、そこから動くなよ」


 フロプトの本拠地である立派な洋風建築は、この時分を持って廃屋となった。


「構うな、全力で砕き壊せ」


 アイスワールドは、百合子を守る手をそのままで、開いたもう片方の手を大きく開いて若桜たちに向ける。氷雪の風は二人だけを狙って吹き荒んだ。

 部屋に飾られていた装飾品が無残にも壊れ、空間を繋いで開きっぱなしになっていた扉も潰れる。

 美濃の指示通り、なんの構いもなく突っ込んできたアイスワールドは屋敷を壊しながら、若桜とアスタロトを追い詰めた。


「あらら、こーんなご立派な屋敷壊しちゃって。損害請求されても払えないよ」


 白銀の竜巻が消えた後、美濃の視界に入ったのは、赤い鱗。

 真っ赤な竜はアイスワールドと同じく、屋敷の存在などまるで無視して、若桜を守るように身をくねらせていた。


「分身の術! なんちゃって!」

「アスタロトうるさーい」


 雅の身体を動かすアスタロトの意志も健在で、ペリドットの瞳は全部で三対。

 その一つである若桜は、脱いだ靴に再び足を入れる。

 それから、アイスワールドと美濃と百合子を順々に見ることを繰り返した。氷雪の上級魔神をレプリカに住ませるメルトレイド、フロプトの頭領の青年、第八番の鍵。

 境界線の視線が最後に見止めたのは、表情の読めない美濃であった。

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