第91話 鍵のかけられた招待状

「……ちょっと気が変わったかも」


 ぱちん、と若桜の指が、何かを指示するために鳴る。

 美濃の背後から、馬のような姿を持つ何かが若桜の方向へ走り抜けていった。

 若桜の身体を通して現れた魔神。

 それだけであれば、美濃はこんなにも焦りはしなかっただろう。


「わ、実物も綺麗なお姉さん」


 黄昏を受ける黒髪、白い頬、生気のない身体。


「っ――薫!!」


 若桜の手にある姿は、美濃の後ろに寝ていた女性であった。


「ふざけんな一ノ砥ッ!! その手を離せ!!」

「あは、怒っちゃやだよ」

「薫を返せ!!」


 美濃は再びに拳銃を構え、引き金を引いた。かちかちと残弾がないことを訴える音が鳴るまで、青年は攻撃を止めなかった。

 が、赤い壁に守られた若桜には傷一つない。


「菱沢さんとの約束もあるし、喜里山くんを招待する気はなかったけど、やっぱお祭りごとは大勢で楽しんだ方がいいよね!」


 丸腰になった美濃が若桜に殴りかかろうとすれば、アイスワールドがその無謀に制止をかける。代わりに攻撃に出たいのは山々であったが、アイスワールドが手を出すにはリスクが高い。

 若桜もろとも、薫まで傷つけかねない。


「ヒナくんもイオンちゃんも、喜里山くんが来た方が嬉しいだろうしさ」

「邪魔すんじゃねえアイスワールド!!」


 興奮する美濃はアイスワールドに「どけ!!」と命令を下すが、美濃の身を一番に思う魔神は彼の意に背いた。

 薫へ続く道を塞ぐ壁になるメルトレイドの掌を、美濃は必死に叩き続ける。機械の指の隙間から見える若桜は愉快そうであった。


「アイスワールドはいい魔神だね。喜里山くんの身を守るために、命令違反できるんだから」


 うんうん、と頷く境界線は、それに引き換え、と隣でけたけた爆笑する相方を見つめた。若桜の視線に気づいたアスタロトは「なあに?」と涙目で問う。

 若桜からはため息が漏れた。


「せっかくだし、道案内役は相島ちゃんに頼もうか」


 若桜は薫を支える手をは逆の手でポケットを漁り、中にあったものを美濃へと投げつけた。アイスワールドの指の間の抜け、美濃の元へと届く。

 美濃は反射的にそれを受け取ると、手のひらを広げた。

 レモン味の飴玉。


「二人のこと、桃々桜園で待ってるよ」


 それから、別れの言葉。

 若桜はアスタロトに身を乗り上げた。薫の身体をも引き上げて。


「っ薫!!」

「じゃあね、美濃。雅は美濃を愛してる!」

「待て、この!! 薫!!!!」


 美濃の伸ばした手は、何も掴めない。

 不格好に空へと向かって上げられた手は、行き場をなくして下がっていくと、手のひらが力任せに握られた。片手の中で袋に入ったままの飴が砕ける。


「…………」


 段々と影を小さくしていくアスタロトの姿が、夕焼けに混ざって消えていく。美濃の望みのない瞳は竜の形が点になるまでその光景を映していた。  


「直々にぶっ殺してやる、あの野郎」


 憎悪だけが美濃を支配していた。

 しかし、感情にすべてを放り投げてしまっては、連れ去られた薫の姿は霞んでいくばかりだ。美濃は空だけだった視界に人の姿を入れる。

 百合子は状況をまるで呑みこめていなかった。


「膝ついてる暇はねえぞ。相島」


 アイスワールドの手が離れ、壁を失った百合子は決意に滾る美濃を見上げる。美濃は百合子の手を取ると、粉々になった飴玉の入った小袋を落とした。


「明日の昼までだ」


 呆然とした顔でいた百合子は美濃と飴とを見比べ、青年の言いたいことを理解するが、ゆるりと首を振った。


「……力を使いこなせないのよ」

「使いこなせ、じゃなきゃ、贄になろうがなるまいが、死んで終わりだぞ」


 八番の鍵として、偶発的に過去を見ることはあっても、自分の意志で使いこなせたことはない。

 フロプトの本拠地を求め、メルトレイドの破片に過去を見て場所を特定した時などは、片時も破片と離れずに、延々と偶然を待ち続けた。

 美濃の言う通り、時間がない今、百合子は美濃の要求には答えられなかった。


「雅の持ってる情報が一ノ砥に筒抜けなら、あいつはイオンがオーディンを保有してると分かって連れ去ってる。第一世界境界がいなきゃ、鍵は無価値だ」

「……貴方一人でも、第八境界点には行けるでしょう」

「第八境界点までは行けても、一ノ砥若桜には辿りつけない。境界点の影響で、土地配置がめちゃめちゃになってるだろうからな。ここと一緒だ」

「それじゃあ、これの過去を見ても道案内にはならないんじゃ……」

「これは道順を知るための切っ掛けじゃねーよ。一ノ砥からの言伝だ。お前にしか、封は切れない」


 百合子は美濃の視線から逃れるように顔を伏せった。

 大小の細々した塊になった壁が、赤い絨毯の上に転がっている。湿気を孕んだ初夏の生温い風が吹いて、彼女の長く黒い髪を揺らした。


「お前を道案内、と言ってこれを渡してきたってことは、必ず何かある」

「……」

「……相島」


 どうして、こんなことになったのか。

 もはや百合子の頭を占めるのはその疑問一点だけ。

 初めは、自分の身を守るためにここへ転がり込んできた。それが、今は、この建物と呼べなくなった瓦礫の上で、風に吹かれている。


「相島、頼む」


 ぼんやりと現実逃避に身を委ねていた百合子は、いやに真剣で切羽詰まった美濃の声に引き寄せられるように顔を上げた。

 見えたのは、下げられた青年の頭。


「喜里山、美濃?」

「薫とオーディンを取り返せるなら、何だってする。SSDに身を差し出したっていいし、お前に殺されてもいい」

「……」


 百合子は頭のてっぺんしか見えない美濃に、瞬きを繰り返す。

 口を開けば、高圧的な物言いで冷たい言葉を吐き捨てる美濃が、頭を下げて願い出ている。都合のいい時だけ、下手に出て、とは百合子は思わなかった。

 美濃の心情は、言葉にされなくても分かる。百合子も同じ気持ちであった。

 隼人が帰ってくるなら、何だってする。SSDに身を差し出したっていいし、境界線に殺されることも厭わない。


「時間は無駄にできない。これに何が入ってるかは分かんねえが、過去を見て、情報を得て欲しい」


 鍵の力でできること。

 百合子が思い返すのは、四条坂駅での大惨事。

 あの時、確かにあった死にたい、という気持ちは、今はない。それもこれも、百合子に希望をくれた存在があったから。


 いつの間にか、百合子の中では隼人の存在は大きく膨れ上がっていた。何かを考えるのにも、少年の存在がちらつく。

 今も。


「…………やってみる。けど、期待しないで」


 決め手は、物珍しい美濃の態度でも、鍵の力を信じたからでもない。

 隼人のため。

 連れ去られた薫は隼人が無意識に涙を流すほどに思う人物で、そして、目の前の青年も隼人が忠誠を誓う人物である。雅の立ち位置は見えてこないが、美濃の味方ではあるようだった。

 誰か一人欠けても、少年は心を痛ませる。


「…………ありがとう、相島」


 美濃はしっかり頷いて返す。

「休むのは忘れるなよ」と身を案じる言葉を付け足す美濃に、百合子は「貴方らしくない」と返した。それから、少しだけ考える。

 優しい気遣いに、使い物にならなくなったら困る、という意味が含まれているなら、なんとも美濃らしい言葉だった。

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