第89話 侵入者は嗤う

「イオン博士が一ノ砥若桜に攫われたの」


 雅の表情に深刻さが見えず、告げられた事実はいつわりのように響いた。

 イオンは第八世界境界点影響圏に連れ去られた。それは、美濃の求め焦がれる第一世界境界も、アスタロトと若桜の手の中に落ちたことを意味する。

 短い息を繰り返し、美濃はぎりりと歯を食いしばった。


「…………このタイミングで、か」


 だん、と青年の拳が、腰下ろす椅子の肘掛を力任せに叩く。

 美濃はテーブルに肘を立てると頭を抱えて俯いた。ぐしゃり、ぐしゃりと艶やかな黒の髪がかき混ぜられる。

 夕日を浴びて、失望する青年には神秘的な美しさがあった。見目麗しさに反し、彼の心中ではどろどろと鬱憤と怨恨が汚く思考を蝕んでいる。


「美濃……」

「全部上手くいってた。後はオーディンが戻ってくるだけだったのに」


 オーディンの名を呼び続ける美濃は、心ここに在らず。

 放心しているのは美濃だけでなく、百合子も一緒だ。百合子の脳には新しい情報を処理できる余裕がない。


「……」


 苦しそうに顔を歪める美濃を、百合子は濁った瞳で眺めていた。

 人を道具のように扱うから、こうして報いを受けているのだ、とは冗談でも言えなかった。とはいっても、百合子が美濃にふざけた戯れの言葉を差し向けることはないが。


「……絶対に取り返す」

「! 取り返すって――」


 百合子は美濃の声で隼人の立場を知って、彼がイオンに傾倒している理由を知った。立場も理由も分からないが、百合子には今の美濃に、イオンを想う隼人の姿が見出せた。

 美濃はゆるりと顔を上げると、宙を睨みつける。

 意志の強い、ギラギラとした眼光。


「あれは俺の世界境界だ」


 一瞬の後悔を終え、美濃は第八境界への憎しみに瞳を燃やす。

 髪をかき上げ、よく見えるようになった顔には、攻撃性しか見てとれなかった。


「今から立て直す」


 あっさりと切り替えを見せた美濃は、椅子に座り直すと長い足を優雅な動作で組む。

 第八境界線にぶつけるしかない感情は青年の中で静かに滾っていた。おぞましいそれは、外に顔を見せないようで、ぱっとみた美濃は、冷たい空気を纏った美しき高慢――いつも通りの彼だ。


「イオンが連れ去られた以外に、一ノ砥は何をした」

「……メルトレイドを一機、略奪。汎用機で番号はC八よ」

「へえ」


 美濃の質問は命令であった。

 疑問詞の存在はなく、言われたことには答えるのが当然。

 ”世界境界を消す”という本来の目的を掲げる少数精鋭だけでなく、”魔神と人間の共存”を謳う世間一般から見た最大勢力のレジスタンス、フロプトに属する大勢のメンバーを率いる頭領。

 美濃は誰にも否定されない風格を持っていた。

 どんな不条理も絶対にしてしまいそうである。


「……ヒナは何してた。指くわえて黙ってたわけじゃないだろ」

「勿論、彼女のためにメルトレイドで応戦に出てたわよ」


 ぴくん、と百合子の身体が揺れる。

 隼人は無事である、と百合子はようやく安堵した。

 未来の手引きなどという経緯は、彼女にはどうでもよかった。レジスタンスの少年が、敵地でメルトレイドを乗り回せるほどには無事だと知れただけでいい。

 しかし、その安心も秒速で破壊される。


「重傷はないけど、太ももに酷い出血傷。後、軽傷が多々。メルトレイドの操縦には影響ないけど、しばらくはまともに歩けないと思うわ」


 さっ、と顔色を青に近づけた少女を「大丈夫よ、すぐ救護室に詰め込まれただろうし。死ぬような怪我はしてないわ。SSDが隼人を見殺すわけないし」と雅は励ました。

 美濃が言った、SSDは隼人を手厚く保護している、と同じような内容であるのに、彼が言うよりも雅の台詞の方が、百合子には何倍も説得力があった。

 雅が軍属であるからだろう。

 単なる信頼度の差かもしれないが。

 百合子の頭からは、雅が美濃の考えに賛同していたことが抜けていた。思考回路はまだ上手く回っていないようだ。


「ヒナはイオンと一緒にいたんだろ」

「ええ」

「……一ノ砥はヒナを振り切ったのか」


 美濃は多少なりと驚いていた。

 世界境界相手に隼人が快勝できるとは、到底思っていない。

 それでも、イオンがみすみす連れ去られるくらいなら、スレイプニルの説得がなくても、隼人自身の判断で第一境界に転がり込んできて可笑しくない、とは思っている。


「スレイプニルの足で帰ってこれただろ」

「あー、えーとね、その辺は口で説明するが難しいのよ」


 雅は両手の掌を合わせると指先を口元に当てた。

 ううん、と難しそうに眉を寄せ、言葉を選んでいるようだ。


「まず、スレイプニルの足は使えなかったの。んんと、正確に言えば、能力は使えたんだけど、タイミングが悪くて。その時はメルトレイドにも乗ってなかったし」

「……話が見えない。応戦にはメルトレイドで出たって言ったろうが」


 スレイプニルの能力は、閉鎖した空間から第一世界境界の能力の前に回帰すること。隼人とイオンが室内にいれば屋敷への逃走も可能であったかもしれないが、彼らは屋外で戦闘の真っ最中だった。

 しかも、閉鎖した空間云々以前に、若桜の不意打ちを受けたのである。 


「……映像、映像を見た方が早いし、分かりやすいわ!」


 雅は説明を放棄した。

 しかし、考えての判断である。納得いくまで質疑応答を繰り返すのはいいが、時間の無駄でしかない。それよりは、軍内にある記録映像を見て、補足作業を雅が請け負う方が効率がいい。

 雅も、第八世界境界線作戦の特別班に名を連ねている。情報は要望一つで降ってくるだろう。


「ちっ、仕方ねえな」


 青年は足組みを解くと、かたん、と椅子を揺らした。

 投げやりのような雅の提案は、確かに理に叶っていた。口で聞いたことを想像するより、起こった過去を目で見た方が状況把握は容易い。

 雅の目に追えなかった事実も隠れているかもしれない。


「俺は吉木んとこ行ってくる。今日中には戻るから、後は頼んだ」と美濃が首を鳴らすのと、「私は軍に戻るわ。隼人と接触もできるし。美濃は待っててね」と雅が意気込むのは同時であった。


「あ?」

「へ?」


 二人は数秒見つめ合い、それから打ち合わせていたかのように、居候の身である少女へ視線を送った。

 確かに、手分けをした方が早いし、収集できる情報量も多いだろう。

 だが、それでは、百合子を一人、ここに置いていくことになる。


「……」

「……」

「……」


 美濃は深くため息をついた。

 二人の内、どちらが残るべきかと言えば、圧倒的に美濃である。SSDのデーターベースからの情報収集という点で差異はないが、青年は隼人と接触することができない。


 うっとおしい視線と二人残されるのか、と美濃が諦めを認め、雅に託す隼人への伝言を考え始めたのを「いいわよ。ここで大人しく、何もせず、黙って待ってればいんでしょう?」と久しぶりに百合子が声を奏でる。

 力なかった百合子は、二人の会話を聞き流しながら、随分と落ち着きを取り戻していた。


「お前の言葉は信じない」

「私も貴方は信じてない」


 不信感の溢れる美濃の視線にひるまず、百合子は不快感の燃える視線で返した。まるで火花でも散りそうなくらいに、二人は強く反発する。


「でも、私は隼人のことは信じてる」


 百合子は緩く手を握った。


「隼人は私をスレイプニルにここまで運ばせた」


 第一境界に押し返される寸前の出来事を思い出す。

 絡めた指の熱、柔らかく微笑んだ口許、優しい口調。

 信じて、と繰り返した少年。

 きっと彼に根拠はなく、その場しのぎに口を出ただけかもしれない。


「ここで待ってろ、ってことでしょう? なら、待つだけよ。彼の帰りを」


 だとしても、百合子はそれを嘘にしたくはなかった。

 彼は帰ってくる、出まかせを本当にするために。百合子はそう信じていたし、疑いもしていない。

 隼人の身の振り方は見えてこないが、自分に助力できることは案外少ないのだと、今更ながらに彼女は実感していた。

 凪いだ百合子を見て、もう一度、美濃と雅は視線を交らせる。

 雅は緩やかに頷いた。


「……分かった。俺もヒナは信じてる」

「……どうも」


 百合子は平淡な声で礼をすると、昨日から定位置になっているソファーに沈んだ。体育座りをし、ぼんやりとした視線を外の景色に送る百合子を横目に、美濃はかつん、と出発の一歩を踏んだ。


「雅、行くぞ」

「はーい。じゃあ、いってきます。百合子ちゃん」

「ええ」


 二人の足音は階段を昇っていく。

 一人になった百合子は、やけに落ち着いてしまった心臓に手を当てる。激しくなったり、止まりそうになったり、忙しい心音は、隼人の言葉を想うだけで落ち着いた。

 少しだけ甘い痛みが残るが、それは彼女を苛むものではない。


「隼人がドール」


 ぼつり、呟いた言葉。

 彼が帰ってきたなら、真っ先に謝ろう、と心に決める。知らなかったとはいえ、酷いことを言った。そして、足の怪我が酷く、歩けないようなら、たくさん手を貸してやろう。


「怪我、大丈夫かしら」


 無理にでも前向きを演じていなければ、不安は着実に心を蝕んでくる。


「でも、珍しい。メルトレイドに乗っても、眠そうにしてるだけで、怪我したとこ見たことないのに」


 わざわざ心の声を声に出し、余計を考えないように声を張って見るが、音になるのはマイナス思考ばかり。

 雅は出血が酷い、と言っていたが、どれほどだろう。第八境界線とも第八境界とも対峙したのだろうか。

 もう少し、彼の身に起こったことを雅に聞いておくべきだったか。

 そんな反省をしつつ、百合子は雅の言葉を思い出していた。


「…………」


 百合子は唐突に立ち上がった。

 彼女の身体は先を行った二人を追いかけて、階段を駆け上がる。もつれそうな足を懸命に回し、薫の部屋から博物館へと出ようとしていた二人の背に追い付く。


「――待って」


 大人しく身を引いた百合子が、血相を変えて追ってきたことに雅が首を傾げた。美濃は少しだけ眉間にしわを寄せる。


「どうしたの、百合子ちゃん。もしかして、隼人に伝言?」


 こてん、と首倒したままの雅は「伝えてあげるわよ」と親切を差し出した。百合子はふるり、と一度首を振って否定を見せると、深い黒の瞳に雅を映した。


「菱沢雅」

「ん?」


 状況からすれば、百合子の相手などせずに、さっさとSSDに戻りたいだろう。しかし、雅は百合子を無下に扱わず、たおやかな動作で、優しく対応した。


「……貴女は何してたの?」


 不躾な質問。


「え?」

「隼人が応戦してたの、見てたんでしょう? 手助け、しなかったの?」


 きょとん、とした顔をしてから、雅は困ったように笑って「私、情報官だもの。作戦行動には出ないわ」と答えた。

 SSDに置ける彼女の立場は情報官で元帥の秘書。オペレーターではない。

 もし、隼人を助けに身を出すようなことをすれば、その行動は多大に目に着き、雅の立場的によろしくない結果を招く。

 SSDの軍人としても、フロプトのオペレーターとしても。


「でも、見てたでしょう? 隼人はどうしてメルトレイドを下りたの? いつ怪我をしたの? イオン・アクロイドと一緒にいたのはどこで?」


 百合子は一歩も引く様子を見せず、ぐいぐいと彼女に詰め寄った。


「どうしたの、百合子ちゃん」


 雅は興奮する百合子の両肩に手を置くと、ぽんぽん、と二度叩く。落ち着きなさい、と行動で示したのだが、百合子には通じなかったようだ。

 質問を次々にぶつけ続ける百合子と、それに戸惑う雅。雅は少しの間を置いて、再び小さな肩を叩いた。


「お前、第八境界と入れ違いでSSDを出てきたんだったな」


 冷静になったのは、百合子ではなく美濃であった。

 百合子の手を引き、雅の傍から離す。少女の身体が自分の後ろに来るようにしてやると、美濃は雅を見定めた。


「えーもう、そんな怖い顔しないでよー」


 雅は相変わらずだ。

 間延びした口調で、呑気な声。


「言葉が足りなかっただけじゃない! 作戦オペレーションを聞きながら、移動してたから知ってるだけで――」

「しばらくまともに歩けない傷」


 美濃の声が被る。

 百合子は美濃の背から少しだけ顔を出し、雅を覗き見た。

 驚きでも、無表情でもない、変わらない笑顔。本当に身に覚えがなく、言いがかりをつけられているとしても、少しは動揺するもの。

 状況に流されない笑顔に、百合子はたじろいだ。どことない不安がじわじわと心を染める。


「戦闘行動を回すオペレーターが、作戦中にパイロットの負傷箇所までを全員にアナウンスなんかしない。一ノ砥掃討班にも、わざわざ班員に実況報告を入れるような、生真面目で気遣いができる奴なんかもいねーし」


 上官の元帥が雅のために、リアルタイムの報告を入れると言うのは無理がある。

 機動一班の二人は言わずもがな、戦場担当である。一番に可能性がある吉木にいたっては、他人を何と思っているかも不明な男だ。雅に情報を落とすくらいなら、美濃へと落とし、新たな交渉を持ちかけるような男である。

 残った一人、美濃は屋敷で百合子の無言の圧力を受けていた。


「相島の言う通り、お前、見てたな?」

「…………だったら?」


 堂々とした雅に引けを取らず、美濃も慌てていたり、困惑している様子はない。

 実際、見ていたからと言って不都合はない。問題なのはそれを彼女が隠そうとしたことにある。


「相島が言ったろ。何してたんだ、お前」

「何って――」

「お仕事に決まってるじゃーん」


 朗らかな笑声。

 美濃は反射で身体が動いた。

 百合子を背後から出さないよう左腕を伸ばし、右手に拳銃を構えた美濃は、その手を真っすぐに侵入者へと差し向ける。


「わ、喜里山君ってば物騒!」


 百合子は声の主を見ることができなかった。が、声で誰かは判断がつく。


「存在が物騒な奴に言われたかねえな」


 にこり、と細められたペリドット。

 明るい緑を見られない代わり、百合子が映したのは嫌疑の渦中にいた雅。笑顔は消え去り、かたかたと震える姿がそこにあった。

 雅の本音はどれなのだろうか、なぜここに境界線がいるのか。

 百合子はいっそ考えることを止めてしまいたくもなった。

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