第86話 零れ落ちる、溢れかえる
戦場から姿を消していた境界線は「もう、研究所に探しに行ったらいないから、吃驚しちゃったよ」と、頬を膨らませた。
「って、あらら、お邪魔様だった? でも、ごめんねー。もう時間なんだ。今日の放送の終了にはこれって決めてたからさ」
ビデオカメラを構えた若桜は、意図的にフレームから隼人を外し、イオンだけを拾い上げる。突然の登場で二人と一体の視線を奪った境界線は、イオンへ近寄って、空いている手を伸ばした。
「記憶螺旋へ。歓迎するよ、イオンちゃん!」
若桜はぽん、とイオンの肩を叩き、その手をすぐに浮かせて、イオンの耳元でぱちんと指を鳴らす。
「!」
イオンの視界が、一瞬にして光のない色に染まる。音に誘われるように、意識は奪われた。
瞼が閉じられ、紺碧の瞳が消える。
白衣は地に伏せた。
彼女が最後に見たのは、脳裏で散った火花。
「イオンっ!!」
隼人はイオンと若桜の間に入ろうと足掻くが、着実に血液を流し続ける足は動かない。しかし、諦めるような性質ではなく、隼人は這いつくばって距離を縮める。
道を開けるように、若桜はとん、とん、と軽い足取りで後ろに退いた。
『イオン!』
醜態を晒しても構わない、と地を這う宿主に代行して、スレイプニルがイオンを揺さぶる。が、彼女は微動だにせず、スレイプニルに揺さ振られるままでいた。
必死にイオンを呼ぶ彼らを背に、若桜はカメラを自分に向ける。
「彼女はいただき! でもって、今日の放送も終わり! お疲れさまでした! じゃあ、また明日ねー」
綺麗で完璧なウインクを決め、若桜は別れの挨拶に手を振った。十分にパフォーマンスが済めば、手にしていたカメラを投げ捨てる。叩きつけられた機器は、がしゃがしゃ、と耳障りな音を奏でながら、三度、地面を跳ねた。
登場から怒涛を見せつけた若桜は、にこにこ、と楽しそうに笑ってその場にしゃがみこむ。
「また会ったね、ヒナくん」
「……」
「でもって、君があのスレイプニルでしょ? はじめましてー、一ノ砥若桜ちゃんでっす」
心から湧き出す歓喜を止められず、破顔する若桜は落ちそうな頬を両手押さえるように頬杖を作った。そんな若桜から、イオンを守る壁になるように並んだ隼人とスレイプニルは敵意を剥きだしに睨みつける。
「彼女に何をしたんですか」
「そんな怖い顔しなくても、若桜がヒナくんとイオンちゃんを傷つけるわけないじゃない」
若桜の態度は限りなく友好的である。
尋ねながらも、隼人はイオンの身に起こっている事象に察しはついていた。
第八世界境界の力は、過去を見せること。
力に当てられたことのある隼人が、明確なターゲットとして力を使われたイオンが過去に囚われている、と考えつくのは容易いことだ。
「って、何その怪我! イオンちゃんの心配してる場合じゃないじゃん!?」
攻撃性を孕んだ視線に動じるのではなく、若桜は隼人の怪我にぎょっと目を剥き、慌てふためいた。あわあわ、と乱雑にポケットを漁り、飴玉と絆創膏を取り出すと、両方を隼人に押し付けた。
「あげる!」
隼人は贈り物を受け取らなかった。
しかし、若桜は無理やりに足元へとそれを置いて、隼人に強制的に押し付ける。若桜の動作を睨みつけながら「彼女を戻してください」と要求するも、若桜はへらりと笑って責める声をかわした。
「できないなあ」
「危害は加えないって、今、言ったじゃないですか」
「若桜くんの力は害じゃないもーん」
若桜は立ち上がると、足を動かせない隼人を見下ろし、柔らかく口元を緩めた。
「お話ししてたいけど、ここじゃあ長話はできないね」
言うと同時、若桜の背後にメルトレイドが空から降りてくる。
例え境界線だろうと生身の人間、しかも、若桜が単体で行使できるアスタロトの能力は攻撃系ではない。魔神を召喚できるとしても、若桜自体はメルトレイドの前に弱者である。
SSDからすれば絶好の機会。
しかし、メルトレイドは攻撃態勢をとらなかった。
「……そんな」
機体に刻まれた通し番号と壊れた右腕を認識し、隼人は目を瞠った。
「――C八番機?」
隼人が操縦していた機体が、悠然として地に舞い降りた。コックピットに繋がるハッチは、隼人が蹴り開けたままになっており、そこから見える機内に人影はない。
「お迎え御苦労さま、アスタロト」
アスタロト、と呼ばれたC八番機は一歩一歩、踏みしめるような足取りで、若桜を通り越し、隼人たちの前に立ち塞がる。
動く左手は覆い潰すように、隼人たちに近づいていく。
隼人とスレイプニルは、目的がイオンだと信じて疑っていなかった。
「っぐ!?」
『七代目!?』
アスタロトの手は隼人を摘み上げ、塵のように投げた。まるで、先に若桜がビデオカメラを地面に投げ捨てた様と重なるようだ。
隼人の身体は山なりの軌道を描いて飛んでいく。スレイプニルは反射的に後を追っていた。今の隼人はちょっとの攻撃でも、死にかねない。
同じ身体を共有する魔神が助けに走るのは、仕方がない当然のことであった。
イオンを無防備に置き去ることになっても。
「アスタロト! ヒナくんたちには優しく接してくれないと!」
ぺしり、とC八番機の足を叩く若桜は、目を吊り上げて世界境界を叱咤した。無機質の鎧をまとうアスタロトは、若桜の攻撃などどこ吹く風だ。
若桜はイオンの傍に跪くと、その身体に腕を通して持ち上げた。長い髪が若桜の腕とイオンの身体の間に挟まり、絡まる。
C八番機はイオンを抱えた若桜を左手に乗せ、開け放たれたままのコックピットへと二人を運ぶ。
「イオンっ!!」
スレイプニルは回収した隼人を地に置いて、単騎、メルトレイドへと突っ込んだ。
「スレイプニルっ」
『分かってイる』
「絶対行かせんなっ!!」
若桜はハッチに足をかけながら、軍馬の形をとる魔神へと振り返った。
「頑張るねー、えらいえらい」
メルトレイドは魔神を制圧する機械人形。
文字通りにその作業をこなすC八番機は、戯れるようにスレイプニルをあしらう。不安感のない動きを見止めて、若桜はスレイプニルから、歯を食いしばり、こちらを見上げる隼人へと笑顔を向ける。
「桃々桜園で待ってるよ、ヒナくん」
イオンと若桜はコックピットに呑みこまれた。
「待てっ!!」
隼人の叫びは無力でしかない。
境界線を受け入れ、アスタロトは空に舞い戻って行った。
「……イオンっ!!」
悲痛に顔を歪ませ、隼人は拳を地面に突き立てる。
身体の痛みを忘れることはないが、それよりも心が痛む。締めつけられる心臓の上げる悲鳴が、隼人の精神をずたずたに傷つけた。
「畜生!!」
『七代目……』
「イオンを守れなきゃ、俺が生きてる意味なんてないのに!!」
自身の身を思わず、連れ去られたイオンを想い、涙する。悔しさに震える肩に触れることができず、スレイプニルは地団駄を踏み、地面を抉った。
しかし、悲しみに打ちひしがれている時間はない。フロプトにとって、ここは敵地。第八境界との交戦に力を貸したとはいえ、隼人はレジスタンス。
SSDに所属する軍人には、マグスの殺処分許可がある。
隼人を第八境界線討伐作戦に組まれたドールと知る者ではない軍人が、ここに一番乗りするようなことがあれば、スレイプニルがいる以上、最悪がなくとも、隼人に危害が及ぶ可能性はある。
それ以前に、今の隼人は手当を受けさせなければ、軍人が来なくとも死する可能性を孕んでいた。
『七代目、ともかく逃げるぞ』
「……」
『イオンを助けるにしたって、SSDに捕まるわけには――』
「逃げない」
隼人は思いつめた瞳で宙を見ていた。
スレイプニルの姿を映さずに「逃げられない」と繰り返す。宿主の暴挙を決めた言葉に、スレイプニルは戸惑った。
事は一刻を争う。
「イオンのことも、オーディンのことも知りたい。一ノ渡若桜の情報も」
『……』
「手っ取り早く、SSDの案に乗ろう。黙ってても一ノ砥若桜の元まで行かせてもらえる」
自ら、兵器として使われる覚悟。
隼人は一度、目を閉じると、深呼吸をした。それから、静かに視界を開く。
首にかかる薫の遺品――プラチナのフープピアスを手に取る。ピアスをチェーンから外すと、隼人は己の左耳に宛がった。胸元で揺れていることが当たり前になったそれは、元々、耳を飾る位置にあった。
イオンとは逆の耳、輝くそれは隼人の決心と、薫との約束を示すもの。
迷いはない。
『アナタの意のままに』
宿主の宣言に、スレイプニルは恭しく頭を垂れた。
隼人の手が魔神の鼻から額へを撫で上げる。
「……そういや、お前、あの影がオーディンだって言っててくれたのにな。信じられなくてごめん」
段々と冷静さを取り戻し始めた隼人は、思い出したように過去を口にした。スレイプニルの言い分を隼人が否定したのは、オーディンが少年に見慣れない姿をしていた以外にも、いくつか要因がある。
『……謝るのはワタシもだ。主を連れてイるのがイオンだとも、知ってイた。すべてを語らなかったワタシの言葉を信じてもらエなくても、仕方なイ』
イオンのことになれば、隼人は見境がない。
スレイプニルがオーディンの事は報告しても、所在を報告しなかったのは、ひとえに隼人の行動が予想の利かない無謀を走るからだ。それは美濃とスレイプニルの共通の気がかりであった。
ついさっきも、隼人は何回か死んでいてもおかしくないような行動を平然と実行している。すべてはイオンのため。
『七代目。イオンを助ける覚悟をしたのなら、美濃を疑う覚悟もすべきだ』
隠し事がなくなったスレイプニルは、心の奥に置いていた不安をもぶちまける。
「……」
隼人は何も言わない。
今まで、頑なに否定してきたはずの言葉が、今は出なかった。
多大に尊敬し、忠誠を誓い従属する相手への信頼はある。しかし、この状況下で、隼人からの信頼に釣り合う信頼を相手から貰えているか、と問われれば、隼人は答えられなかった。
「隼人っ!!」
思考に囚われていた隼人は、上から聞こえた大音量の声に首を捻る。
本部の窓から身を乗り出した未来。赤服の少年は、反応を見せた友人にあからさまに安心したような顔をした。それから、隼人の着る白服の模様を見て顔色を変える。
百面相に忙しい友人へ、隼人は手を挙げて応じた。
まずは、心配に顔を歪ませる未来の気遣いを断ることから始めなければならない。
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