第85話 貴方は僕を知っている
高層階から落ちる二人が、地面にぶつかる際に受ける衝撃は生半可なものではない。
イオンの保有する影は隼人への攻撃を止めたものの、彼女たちを保護するような動きをしない。ただ流れるままにあるだけ。
そもそも、影にイオンを助ける考えがあるならば、最初からそうしてる。彼女が使いこなせていればそれも可能だったかもしれないが、今は無用の予測だ。
特殊な身体能力を持つ隼人でも、衝撃を殺すなどという行為は到底できない。
少年は左腕一つでイオンを固定すると、右腕を天に伸ばした。
『七代目!』
二人を追いかけて、空から駆け下りてくるのは、八本足の軍馬。
隼人が蹴破ったガラスの破片がきらきらと光を反射する中を、黒い鬣を風に揺らせて、降下していく。
「スレイプニル」
『許せ、噛むぞ!』
「ああ」
スレイプニルは大きく口を開くと、魔神の肉を噛みちぎる歯で隼人の腕に食いついた。逃がさないように二の腕までを口に含み、しっかりと歯で押さえる。
三体は一つの塊になる。
急停止をした場合の衝撃に、脆弱な人間の身体には耐えられない。ゆるゆると加速を収めていく直線距離はなく、スレイプニルは地面と斜めになるように道を選ぶと、まずは地面との衝突を避けた。
後はもう、スレイプニルが隼人たちに害を及ぼさないように、速度調整をすればいい。
「スレイプニル様様だな」
『貴方の判断の賜物だ』
ゆったりとした動作で、スレイプニルは二人を不動の地へと下す。
安全を認知してか、イオンにまとわりついていた影は、吸いこまれるように彼女の中へと姿を消して潜んだ。その隙を逃さず、イオンは右腕に制御装置のバングルをはめる。
「いっ――」
魔神の口から腕を解放された隼人は、イオンから腕を離そうとして、失敗した。
「うっ、わ、わ!」
「っ!」
影に刺された足は、立つという動作を拒否した。
イオンを支えていたのではなく、イオンを支えにしていたのは隼人の方だったらしい。
膝から崩れる隼人に引っ張られ、イオンも一緒に転げる。隼人は咄嗟にイオンの頭を庇い、自分の身体が彼女の緩衝材になるように、身を捻って倒れ込んだ。
「ごめんイオン! 大丈夫?」
隼人は腕からイオンを解放し、寝たままで彼女を離すと、転んだ状態からすぐに上半身を起き上がらせた。本当は立ち上がりたかったのだが、足に力は入らず、精一杯の立て直しの動作がそれだった。
地面に手をつき、隼人は黙ったままのイオンを覗き込む。
紺碧の瞳は困惑に揺れていた。
「イオン?」
首を傾げる隼人の頭をスレイプニルが強めに小突く。
『心臓に悪イ! 血だらけだ! イオンよりも七代目の方が大丈夫なのか!?』
喚きを聞き入れ、隼人は改めて身なりを見直した。
パイロットの制服である白には、血でまだら模様が彩られている。貫通された太ももからの出血は留まることを知らずに、今も着実に汚されていない部分の生地をも赤色に侵食している。
じん、と熱を訴える頬を擦ると、乾いた血が剥がれ落ちた。
「今になって痛くなってきた、心臓もやばいし」
昨日から引きずる打撲の痛みに上乗せされて、切り傷、刺し傷、流れる血。肉体的にも限界であり、メルトレイドの操縦で精神的にも限界であった。
満身創痍。
イオンを失いかけた恐怖が、今になって隼人の心臓を震わせる。
『七代目、処置をしなくては』
「おう」
軍服についた飾り紐を取ると、隼人は傷口を覆うようにして縛った。本当に気休め程度のものだが、放置するよりかはましであろう。
『一度、建物に入って近い扉から屋敷に戻るぞ』
「……だな」
てきぱきと段取りをつける相方に、隼人は力なく微笑みかける。
派手にやらかしている以上、見つかる前に逃げてしまうのは得策だ。今はスレイプニルの足があり、脱走も簡単に済ませる。
隼人を背に乗せようとするスレイプニルを制し、少年はピクリとも動かない白衣を窺った。
「おーい、イオン?」
「……」
「怪我した? どっか痛いの?」
隼人は反応のない彼女に、表情を陰らせる。
オーディンの使役に精神疲労を溜めていたとしても、隼人の方が重傷で疲労しているのは目に明らかである。
瞬くだけでいたイオンは、もぞもぞと緩慢な動きで身を起こした。それから、傷だらけの身で安否を問う少年の後ろに控える魔神を見つめる。
『なんだ?』
「……」
「ああ、スレイプニルは敵じゃないよ。俺の契約する魔神」
彼女は警戒しているわけではない。
敵ではない。隼人と言葉を交わす様を見ていたからではなく、漠然とした既視感がイオンの脳裏にあった。うっすらとした紫を孕む闇夜の瞳は、イオンの抱える影とは違う黒であるのに、彼女には身近にあるものに思え、懐かしさすら覚える。
イオンは次に隼人へと視線を映した。
「イオン?」
黒髪を揺らし、不安げに目を細める少年。
臨死体験をしたのに、イオンの心臓は驚くほど大人しく、冷静でいる。堕ちている間も、どこかで諦めて騒ぐことのなかった鼓動が、不整の音を鳴らしだす。
記憶は知らないと言っているに、確かに何かを覚えている。
「知っているの」
掠れきった声には、もどかしさが滲んでいた。
「え?」
「知って、いるの?」
もう一度、声を絞る。
独り言ではなく、イオンは隼人の瞳へと確信を持って尋ねていた。
「え、と、何を? オーディ――始まりの雷鳴のこと? それなら――」
「違う」
隼人は曖昧な会話に困ったように眉を下げた。
イオンの言いたいことが分からない。しかし、直球で分かりやすくお願いします、と頼める雰囲気でもなかった。
重苦しさに潰れそうな顔をして、隼人の思い当たりを否定したイオンは、まるで一世一代の告白をするかのように、真剣な瞳で隼人を射抜く。
「君を知っているの、私は?」
君とは隼人、私とはイオン。
隼人は閉口した。
「研究室で、私は君のことを知らないと言った。それは本当。今も私は君を知らない」
「……」
「それなのに、君の後ろにいる魔神にも、君自身にも、根拠のない懐かしさが止まらないの」
イオンは白衣の裾をぎゅう、と握った。持て余す感情の正体は不明であるのに、そればかりが心を占め、思考回路にも支障をきたそうとしている。
スレイプニルは立ち上がることのできない宿主に擦り寄った。
驚きに黙ってはいるが、隼人の心の中は酷く騒がしい。
「……」
隼人はイオンの質問に悩む必要はない。
答えは、知っている、だ。
「答えて、雛日」
十一年前までは、同じ研究所で、同じ時を過ごしていた。いつだって一緒にいて、薫の手を煩わせていた。
研究所から引き取られる際に、挨拶に一度、顔を合わせただけじゃない。
(知っているよ。俺は君を、君は俺を――知っている)
思うままを言葉にはできなかった。
隼人は何と答えればいいのか分からなかった。何か話さなくては、と口を開いても、唇が開閉するだけで、声帯は震わない。
お互いの心臓の音だけが忙しい。
「みーっけ!」
動きの見せない静寂を壊したのは、喜色満面の笑顔であった。
色を忘れた髪、ペリドットの宝石。
第八境界線、一ノ砥若桜。
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