第83話 混沌に迷い込む

「……イオンが、オーディンを」


 光景は荘厳である。

 二つの世界境界を前に、隼人は平静さを失っていた。心は酷く乱れていて、上手く事態を呑みこめない。


『イオンが連れてイる理由は分からなイ』

「あの姿は何? あんなの、俺は知らない」


 混乱している隼人に対して、スレイプニルは冷静でいるようだった。

 いっそ、見間違いだ、と訂正されることが隼人には望ましかったが、落ち着いた声は『ワタシにも、どウしてかは……』と目の前の物体がオーディンであることを前提とした物言いを崩さない。


 隼人が常闇の影をオーディンと見抜けなかった理由の一つは、その姿が少年の知るものとはかけ離れていたからだ。

 オーディン――始まりの雷鳴は、隼人の記憶では、決まった輪郭を持たない不定形のおぞましいものではなかった。少なくとも、柘榴色の瞳は常時、見つめることができた。


「おい。C八番、お前、誰と何の話してんだよ」


 動揺を隠しきれない隼人へ、追い詰めるかのように他機から通信が入る。

 隼人は画面に向けた顔は動かさずに、目だけを通信画面に向けた。相手はD五番機、先ほどに隼人が援護をしたメルトレイド。


 D五番機のパイロットは、浮かんだ疑問をストレートに尋ねただけであった。C八番からもさらりと返答が戻ってくる、とも思っていた。

 予測は裏切られる。


「……」

「……おい、C八番? 大丈夫か?」

「はい……、すみません」

「いや、あやまんなくていいけど」

「すみません、大丈夫です。気をつけます」


 隼人は通信画面の先にある顔と真顔で視線を交わらせ、謝罪を繰り返した。D五番からの質問に答えは用意されず、奇妙な沈黙が二機の間に流れる。

 D五のパイロットが再びと隼人へ質問をしようとすると、彼の周囲にいた魔神がそれを遮った。機体に爪を立てる獣に、D五番機は応戦に出る。うやむやのまま、会話は強制終了した。


 魔神との乱戦が過熱していく中、隼人は境界同士の反発を前に止まった足が動かない。

 出撃しているメルトレイドの通信回線が共有回線である今、C八番機内で行われているやり取りも、当然に他機の通信機を鳴らしている。 

 スレイプニルと隼人の会話は、飛び交う通信の内の一つでしかないが内容が内容だ。会話の意味を理解した者はいなくとも、不思議に思う者がいて可笑しくない。D五番のパイロットのように。


 事実、指令室では現場監督を務める緑服が、隼人の呟きに首を傾げていた。

 イオンが生体兵器を連れていることは、SSDでは周知の事実であるのだ。今更、初見のような反応をする者は珍しい。

 それが世界境界だ、と知るのはわずかであるが。


「須磨君」


 カトラルは神妙な声でオペレーターの名を呼んだ。


『……分かってる』


 未来はばつが悪そうな表情を一瞬だけ垣間見せ、すぐに真面目な顔に取り繕った。

 傍には意味不明な隼人たちの会話に、おおよその察しがついている者もいる。

 未来とカトラル。

 第八境界線の掃討作戦に組まれ、イオンの試力実験にも付き合った経験のある二人は、隼人の素性も知っている。


 作戦司令室、壁一つを埋めるモニターの前、オペレーション機器でできた檻に囲まれる未来は、C八番からの共有回線を通した発信を強制的に断った。

 司令室からの通信や、他のメルトレイドの報告を受信させても害はないが、隼人の口からは何が飛び出すか分かったものではない。残念なことに、C八番には、未知の状況を引き出す口がもう一つある。

 未来にしてみれば、放置しておくにはあまりにリスキーであった。


『……』

「須磨君も大概、考えが顔に出て、分かりやすいですね」


 隼人とのコンタクトを取りたいが、未来の声は司令室に響き渡ってしまう。上手く誤魔化しながらに会話をするのは一苦労どころか、不可能に近い。

 未来の考えを読み取ったカトラルは「すみませんが、専有四番機、右足の補修作業が終わるまで発信切ります」と宣言した。代役を務めましょう、と目で訴えるカトラルの考えを理解し、未来は小さく頷く。


『……分かった』

「じゃあ、切断しますよ」

『了解。……よし、全機到着したね。これから細かく担当区域指示してくから、応戦よろしく』


 未来のオペレートは既に指示をもらっているB二番とD五番、修復作業中の専有四番、それから、特例のC八番を除いた八機に向かって飛んでいく。

 言葉を休める間もなく最善を伝える未来に横から口を出すものなど存在しない。全十二機の戦闘指示を受け持つ未来は、その才能で勝ち取った主導権を誰に侵されることもなかった。当然、C八番の不可解な自由を咎められることもない。


 隼人は屋上付近から、ただただ動けずにいた。

 世界境界が衝突する戦場に近づく魔神はおらず、屋上はアスタロトとイオンだけの戦場である。結果として、魔神からの攻撃を受けない安全地帯となっていて、格好の的である隼人は無傷でいられた。


 同じく屋上付近に滞空する鮮麗絶唱も、外敵からの攻撃を受けずにいる。

 カトラルは未来がC八番にしたのと同じく、自機の共有回線への発信を切断した。それから、隼人の乗る機体と個別の回線を繋ぎ、相手の応答を待つ。


 外野の声を聞き入れながら、隼人とカトラルの二人だけが内緒話をできる状態。カトラルは通信が開くと同時に「C八番、キミ、やっぱりあれが何だか分かるんですね」と温度のない声を送った。


「…………カトラル少尉は、あれが何か、知ってますか」


 隼人は適する感情や、表情を忘れてしまうほどに精神を揺り動かされていた。

 平淡な声、死んだ目、色のない感情。


「知ってますよ。君の言う”この世で一番美しいもの”でしょう?」


 もしも、未来がカトラルの返答を聞いていたなら、隼人よりも大きくリアクションを取っただろう。

 完全戦略が平気な顔で組織を裏切り、レジスタンスのために奔走している間に、情報開示権限は二人の軍人に下りていた。

 メルトレイドからでも軍のデータベースにはアクセスはできる。コックピットに籠っていたカトラルは、愛機を端末代わりに、指定席から機密情報へと目を通していた。


 与えられた鍵で開いたのは秘密の宝庫。

 数値を出すことも不可能なくらいの価値、日の目を見ることのないだろう混沌。

 それだけでSSDを根本から覆すことも可能な材料に、食いついて、離れないのは正常な反応である。

 が、しかしながら、カトラルはものの数分で飽きを覚え、すぐに権限内の領域から身を翻していた。目を疑いたくなる内容ばかりが、長ったらしく遠まわしに書かれていて、文字を読むことが得意ではない彼は、睨めっこも長く続かなかったのだ。

 とはいっても、数分は頑張っているのだから、読み覚えている事もある。


「彼女、世界境界の力を持っているんです」


 イオンの持つ第一世界境界線のこと。

 経緯も、理由も、意味も分からないが、その事実は知っている。


「君が同じことを知っているのは察しました。でも、不用意にそのことをバラしそうになるなら、魔神と一緒に君も堕とさなきゃならなくなります」

「……」

「あと、お馬さんとのお喋りも、共有通信中は我慢してもらえますか?」


 ねじれ、こじれ、こんな状況になっているが、元々、隼人の目的はSSDからの脱出。

 カトラルの非難は、本来なら隼人自身が細心に気をつけていなければならないことである。


「……なんか、すみません」


 弱々しい謝罪をしながら、隼人は深く頭を下げた。

 探し求めていたオーディンを認め、それを連れているのがイオンだと知り、隼人の情報キャパシティは限界を悠々と超えていた。


 更には、SSDから逃走するにあたって、基本的な注意事項を相手側のエースパイロットに喚起される。手引きをしてくれた未来や、仲間である雅であるなら、隼人もこんなにややこしい気持にはならなかったかもしれない。

 隼人の頭ではすし詰めの情報と、断片的に浮かぶ記憶と、行き場のない感情がぐるぐると廻っていた。


「すごい顔ですね、不細工通り越して、死人みたいですよ」

「貴方にまで気遣いさせてしまって、申し訳なくなって」

「いえいえ。使えるものは使って行かないと、ってだけですよ。資源の無駄はよくないですからね」


 へらり、と愛想よく笑うカトラルに、スレイプニルが暴言を吐きたくてたまらなかった。

 しかし、脳裏に伝わってくる宿主の声がそれを制止させ、スレイプニルが声を発することは叶わない。


「……そう、ですね」

「うんうん。分かってもらえてよかった」


 魔神掃討機関敷地内――今は第八境界線に攻め込まれている戦場だ。

 八番と一番の世界境界の視界にはお互いしか入っておらず、激しくぶつかり合っている。

 それが魔除けのように作用し、魔神の横やりを受け付けない場所に居座る二体のメルトレイドのパイロットたちは、危機感が麻痺しているのかと思わずにはいられない態度でいた。

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