第44話 深海へ続く入り口
「ねえ、先にひとつ質問してもいいかな? そしたら答えるから」
「……いいわよ」
隼人は自分の首筋に指を這わす。それから、指先に当たるチェーンを引っ掛けた。
ちゃり、と掠れる金属音とともに、服の中から出されたプラチナのピアスが光る。
「これから、どんな過去を見たの?」
隼人は百合子が過去を見たことに確信を持っているらしい。隼人の手元では彼の大切な宝物が揺れている。思い出の品というには、残る記憶も付きまとう感情も複雑怪奇で、言葉にするのは隼人にも難しい。
「あの屋敷で寝たきりの彼女」
百合子ははぐらかさずに、答えを述べた。
「……彼女のこと、知ってた?」
隼人は驚きに目を瞠る。
隼人は百合子が薫を見た、とは予想していた。しかし、その彼女を”屋敷で寝たきり”と形容されるとは思っていなかった。
水族館に来るまでにも、薫の部屋を経由してきたが、百合子の視界は塞ぎ、手を引いてきた。薫自身が自力で出てくることはないし、百合子が来てからあの部屋の施錠には、細心の注意を払っている。
隼人が考え込むのを見て、少女は親切に「貴方が疲れきって帰って来た日があったでしょ」と切り出した。
「貴方たちが帰ってきてもいないのに、菱沢雅がお茶なんて淹れるから」
隼人はすぐにSSDと交戦した日であると察しがついた。薫が自室を離れたのはあの日しかない。
「……、あー、飲まなかったんだ?」
「……自分のことは自分で守らないと」
ここまで自己防衛の感覚を持っていることを、尊敬すればいいのか、悲しめばいいのか。隼人を取り巻く人間は、隼人は百合子を見習うべきだ、と口を揃えるだろう。
隼人は感心したように数度頷いた。
「百合子さんって、魔神のことどれだけ知ってるの?」
話をはぐらかしているような、唐突な質問。
それにどうこうと百合子が答える前に「彼女の説明するのに、魔神のこと知らないと説明しても分からないと思うから」と隼人が口早に注釈を加えた。
決して、内緒をするつもりはないのだ、と慌てて手を振り力説する。
「興味ないから、あんまり。……貴方の中に今もいるの?」
「今はいるよ。でも、屋敷にいる時はほとんど境界内をほっつき歩ってるかな」
会話の内容は色気もへったくれもないが、雰囲気だけは穏やかであるせいか、物騒な話をしているとは思えない。
イルカショーをスルーする選択をした来場者たちはカップルが多い。それぞれが二人の世界を堪能する中で、隼人と百合子も浮かずに馴染んでいた。
「常に一緒にいなければならないわけじゃないのね」
「境界圏内ならね。まあ、ルームシェアみたいな感じかなあ」
主題の話をやり取りしながら、楽しそうに水槽を眺める隼人は「これ、食べられる魚だよー」と呑気に水族館も堪能している。
百合子もならって水槽を見た。死んだ状態ではよく見る魚が、すいすいと飾られた水槽のなかで生きている。それだけで、感動的だと思った。
「俺が家で、俺の精神とスレイプニルが同居してる」
スレイプニルは隼人の中にいる間、基本的に寡黙を守っている。今も無駄口を叩かず、大人しくしていた。
「中にいないときに俺が気絶とかしちゃうと、けっこー絶体絶命なんだよね」
天井と壁の色が変わり、水槽の中身のジャンルも変わる。
熱帯魚がカラフルに彩っているフロア、百合子は初めて見る光景に、跳ねる心臓を押さえた。まるで子供らしい彼女に、隼人はくしゃくしゃに顔を崩して微笑む。
「肉体に意志がないと、魔神は戻れない?」
思いついた結論が当たっているのかを尋ねようと、百合子は隣を見上げる。
そこで初めて少年の幸せそうな視線に気づき、耐えきれずにふいと顔をそむけた。
これが恋人同士でなくて、なんなのだろうか。
「はは、百合子さんには説明少なくて済むね。魔神をこの世に具現しとくには、俺の体力とか精神力が削られてくからさ。気絶のまま永眠、なんてもあり得る」
甘い雰囲気に、似つかわしくない話題。
「圏内にいるなら関係ないんだけどね。あそこは魔神の世界でもあるから」
「あんなに寝ろ、寝ろ、って言われるのはそのせいなのね」
「それもあるし、俺、人一倍疲れやすいからさ、余分に休養しないと動けない。だから寝不足だとビンタされる」
ぺちん、と隼人は己の両頬を叩き挟んだ。時間の経過は、過去を冗談にもできるようにする。
「……なんでそんな重要な話、私にするの」
「うーん、電車の中でさ、悩みを抱くのを悪びれてたでしょ?」
「……」
「それって、百合子さんには、すごく重要な話だと思ったから。人に話したくないような」
隼人は百合子の手を拾い上げる。
「今の話とその話、きっと天秤に掛けたらぴったり水平だよ」
そっと絡まる指先は、じれったく隙間を埋めて行く。
「本当は、自分が鍵っても、言いたくないんでしょ?」
「言いたがる人の気が知れないわ」
「まあ十三人しかいないしね。生まれながら世界境界と同一の力を宿す、人間でも魔神でもない特別は」
「身元が確認されてるのは五人」
「……それ、軍部の機密じゃないの?」
通路案内の矢印に案内され、淡水魚のフロアへ踏み入る。
植物も展示物の一環とされており、植物園かのように造形されたそこは、天井が天窓になっている。上が開いた水槽には、川魚が泳いでおり、その水槽からそのまま草木が伸びていた。
降り注ぐ日光を受け入れ、空調とは別に太陽の力で体感温度が高めだ。
「今更だわ」
「はは、開き直った」
「なによ」
「百合子さんはその五人が誰だか知ってる?」
「いいえ」
身近な川魚が泳ぐ通路。カエルやサンショウウオのような水生生物も同じフロアの中、等間隔で陳列された別の小さな水槽に展示されている。
隼人はおまけのように設置されている植物枠に近寄った。若々しい緑がかさりと葉を擦れ合わせて揺れている。
「彼女は――薫はその一人だよ」
緑を愛でながら、隼人は瞼を落とした。
「百合子さんと一緒だよ。薫も鍵なんだ」
「……鍵? 彼女も?」
「うん。番号は一番」
衝撃に殴られた百合子は、信じられない話に目を白黒させる。
知っている単語しか出てきていないのに。何よりもピンポイントで自分が理解できる話であるのに。隼人の言葉は百合子の耳に届いた先、つっかえて、足止めを食っている。
「魔神の話に戻るけど、世界境界と魔神は、それぞれが固有の能力を持ってる」
百合子の脳が立てなおすのを待たなかった。
「例えば、スレイプニルはオーディンへの回帰」
突然明かされた自分の能力に、スレイプニルが反応をしたのに気付き、隼人は心の中で笑った。不都合にスレイプニルの心が動くのも、身体を共有しているせいで、ダイレクトに伝わる。
「……第一世界境界への回帰」
「そ。それで、百合子さんも知ってる通り、鍵は世界境界と同じ力を扱える。だから、スレイプニルはオーディン不在の今、薫の力の前に回帰する。いくつか決まり事はあるけどね。閉じられた空間と目標のいる空間を繋ぎ合わせるから、自分のいる空間が閉鎖的状況になってないといけなかったり」
説明できるだけを言い終えた隼人は、静かに歩き始める。
百合子の脳の回転に合わせてか、二人はのろのろとした速度でフロアを後にした。
彼女の思考が混乱を乗り越え、適当な整理を終える頃には、不可思議に溢れる深海魚の前に辿りついていた。
「彼女、起きないの?」
真っ暗な通路。
足元に頼りない電灯があるばかりで、他の光源であるブラックライトは未知の生物の美しさを際立たせている。
「……起きないよ。生きてはいるけど、それだけだから」
子供体温の隼人の手が、百合子の手を力強く握った。
「鍵としての人外能力が、肉体の鮮度だけを保たせている。栄養もいらないし、世話もいらない。汚れもしないし、においもしない」
ぱたり、と隼人の頬から涙が落ちる。
手の痛みを訴えようと隣を見た百合子が、ぎょっとする以上に、泣いている状態に驚いたのは、涙を拭う本人であった。
「あれ、……うわ、恥ずかし、ごめん」
ほんの薄気味悪さを濁す展示エリアには、二人の他に人はいない。
百合子は隼人の手を負けじと握ると、隼人はへらへらと歯を見せ、元気をアピールする。しかし、涙は止まらず、泣き笑う姿は、一層に痛々しい。
――彼女は貴方にとって、どんな存在なの。
一つの質問が百合子の心に浮かぶ。答えが返ってくるかは分からないし、彼を追い詰め、涙を増やさせるだけになるかもれない。
百合子は声に出せなかった。
結局と百合子の口をついたのは「始まりの雷鳴は、見つからないの?」という、何度も問い詰めた文句であった。
「うーん、オーディンが境界線を持ってないのは点を見れば分かるんだけど、所在ばっかりはなんとも」
「貴方の話だと、貴方の魔神の力で、たどり着けないのっておかしいでしょう」
「おかしいから、悩んで探してるんですー」
慰めを口にされないのを良いことに、隼人は負の感情を自制すると、何事もなかったようにして深海の道を進んでいく。
「オーディンの能力は、審判すること。その審判はすべてを無に帰す」
百合子は改めて、隣の少年の横顔を見つめる。
――私は彼の何を知っているのか。
慣れ染めはなんとも不快で唐突であった。自分がフロプトで生活できるように取り計らってくれている。彼が通う学校は制服から分かったし、学力に問題があるのは散々騒いでいたのだから知っている。
ただ、彼の本音に関してはこれっぽちも輪郭が見えなかった。
「すべてが元に戻るときとは、すべての世界境界が消えるとき。フロプトの掲げる大義は、オーディンの手で世界境界を殺すること。そのために鍵を探してる」
「……」
「すべては天命。魔神が現れたことも、それに抗う力が存在することも」
隼人は視線を百合子へ流す。
薫に対する渦巻く感情は上手く丸めこめたらしい。ここに来るまでと同じ、甘さを含ませた表情に戻った彼は艶やかに唇を引き上げた。
「今、オーディンがいないことも、ね」
再びに沈黙は二人の間に漂う。
一般人からすれば耳を疑う会話は、終幕を迎えたらしい。言葉少なく、しかし、殺伐とした空気もない。つかず離れず、独特の空気のままで、二人は水族館を満喫する。
「すっかり流れてたけど、俺、美濃君に拾われたからフロプトにいるんだ」
頭を悩ませるばかりの言葉の応酬、延長戦を持ち出したのは隼人であった。
そもそもの発端であった話題をしているのだ、と遅ればせながらに気づいた百合子は「拾われた?」と訝しげそうに聞き返す。
「話すと長いっていうか、人生語るレベルでだからさ、座ってゆっくり、まあ追々――」
「イオン・アクロイドと知り合ったのはいつ?」
今しかない、と百合子は裏付けのない確信を持って、隼人にとって特別の彼女の名前を出した。
きっと、人生を語る長話を聞かせてもらえる日は来ない、と百合子は思った。その断定に、おそらく間違いはない。
律儀に尽くしたつもりが逆手をとられた隼人は口を噤む。
少年の足が、止まった。
「……何?」
聞き間違えか、と隼人は表情筋の死んだ顔で尋ねる。
「イオン・アクロイド。一方的に好いてるだけじゃないでしょ?」
百合子は一歩も引かない意固地さを、真っすぐの視線と繋がれた手で表す。浮気を言い当てられた彼氏のように、言いにくそうに口を開閉させ、瞳を揺らす少年は「嘘……、え? えっと……」と唸る。
平静を失った声が情けない。
「これ」
一歩、既にないに等しい距離を零にして、隼人の首筋を百合子の白い指先が撫でる。
急な接近と、首をくすぐる感触に、隼人は思わずと応戦に出そうになって、身体を揺らす。作り上げた拳の行き場はない。
百合子の指で引き出されたネックレス。
「百合子さん、まさか――」
「私もきちんと答えてなかったわね。私が見た過去は、貴方とイオン・アクロイドが、薫って人に紙のメダルあげてるところよ。……SSDの施設でね」
見つめ合い、二人が二人ともショートしそうな頭で、必死に情報の駆け引きを考える。冷静にあろうとすればするほど、動揺を回数に叩きだす心臓が打ち続ける。
過去を遡っていた隼人は、幼少の自分を思い浮かべて冷めたように笑った。
「…………あぁ、薫が昇進したときの」
浅はかで、子供らしい、幼稚な行為。
「過去を見るって、残酷な能力だね」
それが答えだった。隼人はピアスを人目につかないようにしまい戻す。
「……私には向いてない、とは思うわ」
客を飲み込んでいた屋外ステージから、吐きだされるように波が押し寄せる。狭い出入口から、活気が館内に戻ってきた。
人の増えた水族館は、恋人たちの場所であった雰囲気を失い、健やかな元気さに染まり始める。
「……そろそろ行こうか」
「そうね」
「でも、俺これでも口滑らせちゃった方だよ? 多分、美濃君が大絶叫しちゃうレベル」
「……でしょうね」
「百合子さんって、俺がお世話になってる人に似てるから、話しすぎちゃう」
「……恋人?」
呆れたように「またその質問?」と返す隼人は、どこか作られた表情で、間違いだと訂正する。
「母親だよ。今はアメリカにいる。俺のことはすっげー放任! ほんと、お小遣いも面倒見てくれないくらいの放任でさ。保護者も代理で美濃君がしてくれてる。で、多分、それも知らない」
人は増えるばかりで、今を逃せば完全に休日の波に取り込まれていしまうだろう。
そう簡単にばれることはない、とたかは括っているが、万が一ばかりは否定しきれない。
「余計な話しちゃったね。帰ろっか」
「……ええ」
楽しそうに言葉を交わす家族や、肩を寄せて笑み会う恋人たち、水槽前に線と並ぶ仲良しグループ。
残りのフロア、二人はこちらを見てと主張する海洋生物に、一度も目を奪われることはなかった。急ぎも、躊躇いもしない速度でついた退出口を、あっさりと潜り抜ける。
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