第43話 たゆたう海月

 美濃が百合子を散々に言い負かした同日。

 彼は談話室から出た足をそのまま街まで伸ばし、一人で雑踏に紛れていた。

 服装は黒のスーツ。両目が晒されており、髪型もきっちりと整えられている。

 立ち振舞いは美しく、目付きの悪さは涼しさに変え、刺々しい雰囲気は成りを潜めている。

 なにも知らない人目には、艶やかな色男に見えるだろう。


 人目を惹き付ける男は、瞬間でその姿をくらませた。するり、と建物と建物の隙間へ身を滑り込ませ、騒音から遠ざかっていく。


 SSD日本支部のエースパイロットよろしく、フロプトの頭領も、方向性は違えど造形は美人なのだ。そんな優秀な顔面を竜の面で隠し、美濃は路地を奥へ奥へと歩んでいく。


「カオル様っ」


 路地の先、行き止まりではなく、建物の外付け非常階段の為にとられた空間。昼間でも薄暗く、冷涼な空気が溜まっている。


 美濃を呼びとめた女は、興奮気味に彼へと駆け寄るとだらしなく頬を緩ませた。


「お待ちしておりました!」


 その愛らしい動作に、美濃はときめくたしなみも見せず、腕を取ろうとする彼女の柔かな手を容赦なく弾き払った。


「どれくらい集まってる」


 疑問詞のつかない質問にも、彼女は煌々と目を輝かせながら「お言葉通りに」と返事をする。


「人数は八人。カオル様のご希望通り、少数に抑えました。その代わりに、影響力のある若者を。全員、何らかのチームやグループのリーダー格です」

「よくやった」


 棒読みもいいところで、本当に評価してるかも怪しい。

 抑揚のない褒め言葉も、彼女の耳には特別に聞こえるのだろう。女は幸せにとろけそうである。


「お許しください」


 美濃の両肩に手をかけ、背伸びする。

 ほんの僅かに首を傾け、竜の面に手を添えた女は、唇を寄せた。不健全的である口づけを、甘んじて受ける美濃の硬い頬を、柔らかな手が愛おしそうに撫でる。 


「出来れば、そのお面の下にも」

「離れろ」


 振りほどきはしないが、嫌悪感は声に表れている。嫌々と距離を取る女は、名残惜しそうにちらりと、面に隠された顔を見上げる。

 拒絶の意が空気から伝わった。


「……こちらです」


 先を行く女は人の気配から更に遠ざかって、静かな方へと進んでいく。


 昼時、太陽は高い位置にあるはずなのに、日差しばかりで光源の姿はない。ひんやりとした空気の中を、かつん、かつん、と緩やかな足音が響く。


 ビル群の隙間をぬった果て、人の寄り付かない溜まり場に人影が集まっている。


「いらっしゃいました」


 男女入り混じり、年齢層は二十代半ばくらいであろう。美濃――フロプトの頭領を待っていた彼らも、フロプトを名乗る者である。

 ざわつきはない。

 竜の面で顔を隠した者もいれば、ここにいるのも似つかわしくない身綺麗な者もいる。


「竜の女帝、カオル様です」と女は、贔屓目に見ても成人男性の体格である彼を紹介した。


 集められた人間は二パターンに分けられる。初めての集会にちらちらと周囲の出方を窺っているか、黙って言葉を待つか。後者は美濃の仕切る場に居合わせるのが、初めてではない人間だ。


「行動を求めるつもりはない。ただ、耳には入れておけ」


 社交的な挨拶はない。美濃は肉声のままで宣言を述べた。


「俺たちフロプトは、魔神掃討機関を崩す」


 美濃の言葉を受ける八人と、側仕えの女。

 胸中はどうだか知れないが、誰一人とて喚き散らしたりはせず、頭領へ追求も提言もない。

 無音。

 走る電車の音が、不気味に静かな空間を通り過ぎて行く。

 電車の通過音は聞こえるが、姿は見えない。その音源であるそこそこに離れた路線を通る電車に、隼人と百合子が乗っているなどと、美濃は考え及びもしなかった。


 いや、正確には、実際に乗っていようとなかろうと、美濃は何も思わないだろう。

 元より、百合子のことは隼人に一任している。頭の隅には置いてあるが、それだけだ。


 大雑把な方向としては、海の方へと向かう電車内。

 座席にはぽつぽつと空席が目立つ。揺られる二人は並んで座っているものの、微妙な空気を漂わせていた。はたから見れば、喧嘩中のカップル。よそでやれ、と言ったところだ。


「寝とけ、って言われたじゃない」

「帰ってから寝るよ」


 全国に面が割れている彼女は、髪をまとめ、帽子で顔を隠している。

 百合子と雅の趣味は、方向性が違う。雅の私物から拝借した服を着た百合子は、知る人から見れば別人のような雰囲気であろう。


「気遣いなんて、無用だわ」

「じゃあ、俺に気遣われないようにしないと」


 慈しむように笑う隼人は、言葉も柔らかい。

 普段からつっけんどんな態度をとることが少ない彼だが、今は殊更に甘く、緩い。 


「諦めて、楽しんだ方がいいって」


 二人は今、デートの真っ最中である。

 百合子が引きこもる部屋に「デートしよう」と突入し、了解も得ずに彼女を連れ、意気揚々と隼人は家を出てきた。


「……」


 百合子にしてみれば一ヶ月ぶりの社会が動いている光景。見慣れていたはずの何もかもが、目新しい新鮮さを持っていて、時間に取り残されている錯覚に襲われる。

 確かに、変な意地を張るよりも、受け入れてし待った方が楽ではあるだろう。

「……貴方、普通にバスも電車も乗るのね」と百合子は早々に降参を決める。


 さも珍しそうに言う彼女に、隼人は不思議そうに口をへの字にする。それから、言葉の意味を理解して、締まりなく微笑んだ。


「当然。俺、学生さんだから」


 学生であることよりも、レジスタンスとして活動している隼人を見ている割合が多いせいか、百合子の中では彼の日常行動は未知であった。


「お嬢様でも、公共交通機関使えるんだね?」


 聞きようによっては屈辱的な内容を反撃する。打ち解けていなかった頃ならば、半眼で睨まれて終わりだったろうが「一般常識でしょう」と、百合子は自然に返した。


「お迎えのリムジンとかに乗って、専属の運転手がいたりとかして」

「まあね。でも、私、反抗期だから」


 窓の外、流れる景色を見ながら百合子は自分のことを話す。


 滅多にないことに、くすくすと喉で笑う隼人は、元気のない瞳に糸のように目を細めた。そっと隣に座る百合子の手を握る。

 ぴくり、と動揺が共有されるが、振り払いはしない。


「落ち込んでる?」

「……そうなのかしら。よく分からないわ」


 百合子の手には力も入らない。そんな弱気な手を、しっかりと包み込み、隼人は熱を分けるように密着させる。


「…………普通の家で、普通の生活がしたい」


 熱にとかされるように、百合子はぽつり、と心に蓄積していた苦みを吐きだす。


「うん」

「自分が恵まれた環境にいるって、分かってる」


 か細く、掠れた声。

 隼人が顔を覗き込んでも、視線は交わらない。


「でも、悩みを持っちゃいけないわけじゃない、でしょ。確かに、他人と比べたら贅沢でも、悩みは悩みなのよ」 

「何も悪くないよ。そうやって、他人と比べる必要ないのに」

「……割り切れたら、苦労しないわ」

「でも、よかった。百合子さんの対象がモノだけで」

「?」

「こうやって、手を繋いでも、俺の恥ずかしい過去が丸裸、ってことはないでしょ?」


 車両内の空気が凍る。

 日曜の昼、二人だけが乗り合わせるわけではないのだ。話している内容の意味を察せられる乗客はいないだろうが、いちゃいちゃとしていることは分かる。

 本来ならば、目立ってはいけない彼らは、呆れたような視線と、嫉妬羨望の視線とを集めていた。


「百合子さんは、ちょっと偉そうにしてるくらいがいいと思うけど」


 隼人と重なっていた百合子の手は、上に乗る手の一番短い指先を引っ張る。


「何よ、それ」

「そうそ、その調子でさ」


 目的地の駅、二人は手を繋いだままで電車をでる。

 適当に駅の近くの店で昼食を済ませると、循環バスに乗り込み、普段訪れない街並みをネタにだらだらと中身のない会話を楽しんだ。

 学生カップルらしい、ひと時。


「ちょっと歩くよ」


 降りたバス停、潮風が吹き寄せる。ちょっとした高台に立つだけで海が見えるだろう。

 そこから、日差しの下を徒歩三分。

 彼らの行く先は水族館である。


「いい時間だと思うんだよね」


 隼人の言葉で言う、いい時間はイルカショーの時間であった。

 家族連れはほとんどが、ステージショーに足を運んでいるのだろう。館内は休日であるのに、疎らな人混みである。

 隼人がこの時間を選んだのは、自分は人混みすらもまとめて堪能できるが、お嬢様生活をする百合子はそうでないだろう、という気遣いからだ。


「友達が好きで、よく引っ張られて来るんだ」


 勿論、二人はショーには行かず、常設展示を回る。


「……恋人?」

「友達って言ったのに。親友だよ」


 最初は小さな水槽が並ぶ通路。百合子は壁に掲げられた学名や分類まで、ゆっくりと観察をする。隼人はそんな彼女と水槽とを交互に見て、邪魔にならない程度に会話を挟んだ。

 一つの水槽の前で彼女は足を止める。


「クラゲ好き?」

「生きているクラゲって、初めて見た」

「……もしかして、水族館初めて?」


 クラゲに夢中のまま、百合子はこくりと頷く。

 ふわりふわりと、水中を上下する白い影は、薄暗く証明された中で、やけに目につく。


「……素敵な趣味のご友人ね」

「そいつ、もう働いてるんだけどさ、楽しいばっかりの仕事じゃないだろうから。その分の癒しを外に求めてるんだと思う」


 隼人の言う友人――未来はまだ十五歳だ。

 水中生物を見てはしゃいだっておかしくない年齢であるし、それを恥ずかしいと思ってしまって、素直に楽しめない年齢でもある。

 しかし、未来は淡々とただ見つめて、生体概要を呼んで、また水槽を見つめるだけ。

 隼人はクラゲに魅入る百合子の横顔を窺った。


 彼女も大人びた友人と全く同じように、順路を進んできている。楽しむために来たというより、観察しに来たような行動に、隼人は寂しげに眉を下げた。


「……ねえ」


 水族館内はそれなりのざわつきがある。しかし、消えそう名小さな声でも、傍立つ距離感ではきちんと耳に聞こえた。


「貴方、学生でしょう? なんであそこに籍を置いているの?」


 素朴な疑問だったのだろう、ぼんやりとした目で漂うクラゲを見やる百合子に「俺のこと知りたいの?」と隼人は嬉しそうに口を歪めた。

 からかい交りである隼人に対して、百合子は視線だけを横に流し、再び水槽に戻す。伏し目がちに「そうね」と肯定を零した。

 慌てふためくか、と思っていた隼人は、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。


 クラゲを満足いくまで堪能したのか、百合子は隣の水槽に移る。午前中のことを引きずっているのか、百合子から高飛車が顔を出さない。

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