綻びの始まり
第45話 日常が反転する
水族館を出た二人は、繋いだ手こそそのままだが、入館時の爽やかで甘い空気をなくしていた。どことなく余所余所しい。
寄り道もせずに、来た道順を巻き戻した。
バスの中では無言、駅では言葉少なく、電車内では三以上の文節があるやり取りが成り立つようになる。
「外、あっついね」
「人も多いし」
「百合子さん、人混み苦手そう」
「得意な人なんているの?」
出発駅であった四条坂に戻ってきた頃に、ようやくと平常の距離感を思い出したようである。
中身のない言葉を反復する彼らを、誰がフロプトの中枢を担うパイロットと、全国展開で行方捜索をされている鍵であると思うだろうか。
二人の横を、街中に珍しくもなくなった軍服が通り過ぎる。
青服と呼ばれる、特別の役職を持たない一般兵。原色青よりは紺色に近い服は、長い袖で肌を隠し、堅苦しさを押し売る。今日のような晴天では、見ているだけで暑苦しい。
「また、しばらく屋敷から出られなくなると思うけど、どっか行きたいとこないの?」
「……特には」
「じゃ、たい焼き買って帰ろっか。俺の上半期ナンバーワンおやつ!」
「あんまりはしゃがないで、恥ずかしい」
子供のようにはしゃぐ隼人は、喜怒哀楽の感情が、表情筋に直結しているように思える。替わって、その相手をしている百合子は、あまりの無邪気さに寛容するのを通り越し、手のかかる少年が集める視線に呆れるしかない。
「堂々としてた方が、ばれないって」
「ばれる、ばれないの話はしてないの。そこを気にしてたら、魔神だの鍵だのって話をしながら徘徊しないわよ」
根拠のない自信は、能天気な少年だけでなく、現実主義な彼女をも支えてた。
SSDに見つかるはずがない、相島百合子とばれるはずがない、とらしくない妄言が隼人との行動を後押ししている。
「徘徊って酷い! デートって言ったのに!」
「だから、騒ぐなって言ってるでしょう!」
「はは、百合子さんも大概っしょ」
へらり、と悪びれもしない隼人に、百合子はため息よりも先に、くすくすと喉の奥から笑声を漏らす。控えめに、下がった眉で笑う少女に、隼人も負けじと張りあう。
「今の、すごいデートっぽいよね?」
「デートの定義を知らないわ」
「まぁた、そういう難しいこと言う」
駅中からビルへと移動し、新設されたテナントへ向かう。たい焼き屋への道のりは、地図など必要ないくらいに単純である。
大勢の人間がひしめき合う。その中に特殊な人間である二人は平然と紛れ込む。
デートとは何か。周囲にいるカップルを実例に観察しながら、方向も結末も分からない話題に花を咲かせていた。
妙にスキンシップ過多が目につくカップルを盗み見る隼人と百合子も、十分に仲良しに見える。肩を擦り合わせ、密やかに言葉を交わす二人の時間を裂いたのは、聞きなれた警報であった。
「っ吃驚した。……もう、そんな時間か」
唐突な警報は、一ノ砥若桜の定例放送終了の合図である。
隼人が日常と化している異常を聞き流そうとすれば、ぎゅうぎゅう、と心臓を締めつける痛みが、宿主の浅はかを咎めた。
警告する声より先に、危険を察した感覚をダイレクトで受け取った隼人の身体は、百合子にしか分からない程度で横に身体を揺らす。
『七代目! 魔神だ!!』
「――っ、百合子さん、説明は後でするから走って!!」
百合子の手首を掴み、隼人は駆けだす。目的地は決まっていないし、隼人自身もスレイプニルの言葉をすべて理解はしていない。
ただ、ここにいてはいけない、と危機感に隼人は走り出していた。
急に腕を惹引かれ、百合子は駆け足を強制される。突拍子もない行動に、思考がついていけない彼女の反応も、一目散に走り出したカップルに驚く周囲の反応も、長くは続かなかった。
「なんだよっアレ!!」
その一瞬の後、叫んだ人間は腰から上を失った。
次の声を発する喉も、恐怖にひきつる口もない。
「何っ、何!? 血!?」
「なんでこんな、街中に……、魔神が……」
一点から、汚い楕円形を描きながら赤が広がっていく。
血溜まりの上、人ひとりを飲み込むのは容易いであろう大きさのトカゲは、血で汚れた口で咆哮を上げる。
時間が停まったかのような静寂、そして、事変の口火は切って落とされる。
爬虫類の鱗を持つ魔神は、長い舌を次の食事へと伸ばした。
「ギゃぁぁぁァァアぁ!!」
魔神の捕食行為に、悲鳴が波紋のように伝染し、恐怖が飛び火する。
二人目は叫び声も上げる暇もなかった。
自分の左腕があった空白を、動揺する眼球で眺めるばかりだ。あまりの前触れない襲撃に、声帯も震えずに音が出ない。
「どけよっ!!」
「何、何がどーなってんの!?」
逃げまどう人々は押し合い、圧し合いを人間同士で乱発させ、互いの足を引っ張り合う。
SSDの警報は鳴っているが、それは若桜の放送終了に合わせ、境界圏ぎりぎりに魔神が現れたことを示すものだ。
市街地の、四条坂駅に、ではない。
瞬時に狩り場となった駅から、大きな人波が屋外に流れ出す。統制のとれていない動きで、命からがらと太陽の下に人が飛び出る。
逃げおおせたと、安堵した。
「っ!」
白の法被。
外へと逃げ出た人間を待つのは、希望を裏切る絶望であった。
「い、一ノ砥の……」
失意にやけになることも、諦めることも、考えることも許されない。
二十は超す白の法被を着た人間の数だけ、魔神も数を揃えている。既に駅前にいた弱者たちを手当たり次第に食い散らかしている最中であった。本能のままに強襲する様は阿鼻叫喚。
人間の身体に巡る血液は、どの命からも簡単に飛沫をあげた。
嗅覚が正常に機能し、充満する匂いの元凶が血だと理解する前に、現状を把握できない脳が食われる。
『七代目、アれらからは、まともな人間のにオイがしなイ』
「あれ全員フールか」
白い法被の集団と魔神とが、駅前の広場を占拠している。
もれなく、意味を成さない奇声を張り上げ、おおよそ人間とは思えない動きでふらふらとする彼らの目に、明確な意志はない。
隼人にしか聞こえないナビゲーションは、同じ生命体の存在を察して、宿主とその連れを上手く誘導しながら、駅ビルの最上階、レストランフロアまで逃がしていた。
「う、ぐっ」
「百合子さん、外の空気吸いなよ。ほら、こっち。窓際に――いや、外は見ない方が、っていっても中も酷いし」
隼人と百合子が走りついたフロアは、既に食後の皿であった。
食べ残しと食べこぼしに、床も壁も空気も汚れている。
そのフロアの隅、ガラス張りの壁は侵入口となったのだろう。盛大に割れたガラス、吹き込む外風。
隼人は滞留する空気を流すそこへと、吐き気に苛まれている百合子を呼び寄せるが、外と内との状態を見比べて顔を顰めた。
どちらをとっても、百合子の具合が改善するとは思えない。
隼人が悩んでいる間に限界を迎えた百合子は、ガラス破片に荒れた床に崩れ、ひっくり返った胃の中身をぶちまけて嗚咽した。
「ちょっ、百合子さん!?」
すぐに駆け寄った少年は、ぐったりする百合子を強引に立たせ、悩んだ結果に、窓際へと彼女を誘導する。座りこむ彼女に寄り添い、安否を問う。
「……な、んなの、あれ。なんで、魔神が」
だらり、と不可抗力に垂れる唾液を拭いながら、百合子は背中をさする少年を見上げた。口の中の気持ち悪さも、自分の失態にも構っていられない。
世界の終わりのような光景が、百合子の目に焼きついた。
「一ノ砥を救世主って崇めてる連中。一ノ砥の放送中は、街頭ビジョンの前とかにたむろってるよ」
「たむろって、って……」
「SSDはああいうのいるって分かってて、ほっとくんだもんな」
隼人は遠く地上、魔神が暴れる異常を見下ろす。
時間帯の明るさがきいて、行動のひとつひとつが明確に見て取れる。何にも誤魔化されない異様が見えすぎるばかりに、壮絶さから目は背けられない。
「被害報告が上がってから、SSDが討伐に動くまでも、情報が錯綜して時間がかかる。機動一班は動けないし、他の班が一ノ砥の放った魔神を討ちに行ってるだろうし」
無声の悪夢はいつまで続くか。
「なんで、そんな、他人事みたいに――」
ぶつり、と警報が止む。
敵を掃討すべくメルトレイドが出撃したという合図は、魔神の前で命を繋いでいる人間の心を簡単にへし折った。
この警報は、居住区に魔神が侵入したことを伝令するためのものではなかった。
目の前の悲劇は悪化の道を加速して進んでいるのに。救いの手が来ると言う希望が、希望自体に打ち切られる。
「警報が、止まっ、た?」
百合子も魔神と間近に対している人間と同じ思考と感覚のようだ。
揺れる瞳は恐怖を涙にしていた。流れているのにも気づいていないのか、百合子は愕然としたままで、止められない涙を流し続けている。
「俺が普通に生活しているのと一緒。魔神を宿してる人間は、傍目からじゃわからない。ばれないってことは、SSDは判別できないってこと。すなわち、警報も鳴らない」
説明口調で淡々と事実を告げると、隼人は百合子の視界を、跪いた自分の身体で塞いだ。百合子の目は、地上の光景を隔てる壁に引きつけられる。
隼人は百合子の頬を濡らすそれを服の袖で拭いとってやり、「さ、逃げよう」と手を差し出した。
「逃げる……? 街の人は、どうするの?」
隠れ家へと誘導してくれる手を、悲惨な現実から逃がしてくれる手を、百合子は掴めなかった。
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