雨の向こう側にある、静かな国
はっ、と、シトエは周囲の気配の変わるのに気付き、見渡す。
民らの寝泊りする一階の見張りに付いていたところだ。
「何をしているのかな? お嬢さん」
闇の中から現れたのは、シガミの部下の一人。確か、会食のときにいた一人だとシトエは判断する。
「見張りを……いえ、雨の見張りをしています」
無論、雨だけではなく、シガミらの動向についても、であった。
シトエには、この上品な者達が自分らを襲うようにはとても見えなかったのだが。
「きみも雨が、怖いのかい」
部下は、シトエにふっと近づく。
シトエは、その整った美貌に、少し見惚れる。
「どうしたのかい」
「はっ。ああ、ごめんなさい。……あなた方は、その、主様のおっしゃったのと同じで、皆、雨は怖くはないのですか?」
「怖くはないよ」
部下は、はっきり答えた。その瞳はまるで、迷いがないように見える。
シトエは、線の雨に消されてしまうのが、怖かった。
今まで何人もの救えなかった民や、友らが、線の雨に消えていったのだ。このまま、こうしてぼろぼろに傷付きながら逃げても、自分もいつかは……というふうにしか、思えなかった。
「どうすれば……あなたのように思えましょう」
「皆、雨の向こう側にある、静かな国へ行くだけなんだ。そこではうるさいこともなく、誰もが静かに静かに、暮らしている」
その語りは、主が語ったのと同じ調子を帯びて、抽象的できれいな死へと誘う危うい文句と感じられた。それでもシトエはその響きに惹かれる。そこには痛みもない。あるのは静けさ。平穏。……
「そうでしたら、もしそうでしたら……それは、素敵です」
シガミの部下は、ただふっと微笑を浮かべた。
シトエは、ふとすれば、ふらりと、この美しいシガミの一族の者に寄りかかりそうになる。
シガミの部下も、それを承知の上だった。彼らは目ざとく、察知していたのだから。このシトエという女性の目が、密かな羨望を以て自分達に注がれていることを。
「来てご覧」
「えっ。どちらに? ですが、私今は……」
「ほんの少しだけ。見せてあげる。雨の向こうの秘密を」
部下が一歩、シトエに歩み寄る。
シトエは少し驚き、壁に背を預ける形になる。
そういうことなのか。この人は私の心を読み取って、安心させようとしてくれているのか。シトエは目を閉じ、部下の唇が近づくのを感じた。ふ、っと背中にあたっていた壁の感触がなくなり、目を開けても闇ばかりになる。闇の中に、落ちる感覚がシトエを襲う。
えっ。これが、雨の向こうの秘密?
次の瞬間、シトエは自らの四肢が張り、伸ばされ、何かが破れていく音を聴いた。
雨の向こうの、静かな国へ行くだけ。そこではうるさいこともなく? シトエの耳に、げらげら、けらけらと笑う汚い声が響いた。まだ、何かが破れ続け、自身の身体が沈んでいく。耐え難い痛みを感じた。
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