水平線のない世界

彼は誰

第1話

 水平線のない世界






 午後三時。

 電車に乗り込んだときの勢いを緩め、素知らぬ顔をして座席に座った。電車に急いで乗り込むことは私の癖だったのだと気づいた。いつになく私はゆったりと座っていた。いつもなら無数の人と喧騒と慌ただしさで埋めつくされてしまうような貴重な空白があった。座席に、電車の中の空気に、そして多分私の心にも。


 その空白が夕焼け色をしていればドラマチックだっただろうが、あいにく今日はやや眩しい光の白色をしていた。それで私は目を閉じていたのだ。瞼の向こうが明るくなったり暗くなったりする。乱立するビル群に反射した光がギラッと目を刺す。私は瞼の裏の模様を見ている。……一体、私が目を瞑っているとき「見て」いるこの不思議な模様は何なのだろう。万華鏡を覗いているようだ。色がついているような気もするし、ついていない気もする。私は目のどこを使って目のどこを見ているのだろうか。血のような模様が上から垂れてくる。次から次へと……




 そのあたりで私は眠りに落ちたようだった。

 私が目を覚ますと、見たこともない景色が電車の窓の向こうで流れていた。周りの人もすっかり減っていた。どこの駅に向かっているのか放送を待つがこれがなかなか来ない。景色だけが離れていって、焦燥が近づいてくる。やっと車掌の声が頭上でして、注意して聞こうとするもよく聞き取れなかった。急に周りが不親切なものに思えてきた。今なら私はこの国の電車に乗った外人の不満を代弁出来ると思う。同じような立場になって初めて気持ちが分かる……とにかく、私は降りるべき駅を乗り過ごしてしまったようだった。


 今の時刻を確認するよりも先に、真正面に落ちかけている夕日を見て、すでにかなりの時間が経っているのだろうということを察していた。私は時計を見る気も失せてしまった。一瞬間のうちに考えることはたくさんあったはずだった。ここはどこか、次の駅で降りて折り返すかどうか、そうすれば家に着くまでどのくらいかかるのか、明日は何曜日だったか……しかし、思ったようには頭が働いてくれなかった。それはむしろ目の前の雄大な太陽が私の思考を吸い取ってしまうようだった。私は太陽に身を任せるような心持ちで、背もたれに体重を置いて来、考える努力を捨ててしまった。行き場を失った焦燥が燻っていたが、私の重い身体を起こすことは叶わなかった。ただ夕日を眺めていた。眩しいが何かが瞼を下ろすことを拒んでいた。夕日の光は反射光のギラギラした光よりは目に悪くない気がした。次の駅で降りよう。夕日を眺めながら、それだけの決断が慌ただしさやそれに伴う嫌悪感もなく心に降りてきた。


 しばらくして、私は私の瞼を下ろさせないでいる何かとは好奇心じゃないだろうかと漠然と考えていた。今を除くと久しく夕日を見ていないことに気がついたからだ。いつもの電車に乗って帰る時間ならば夕日はすでに沈んでいる。いや、沈んでいなかったかもしれない。思い出せない。それに、いつもなら目の前にビルや住宅街がある。低い位置の太陽を遮るものが、ここには何もない。見えるものは山と金色に縁取られた雲と、―――一瞬だけ山が途切れて、太陽が空中に浮かんでいた。太陽の裸の「足」を見たと思った。それにしても、なんて夕日は大きいのだろう! 私の知っている白日の太陽よりは大きいはずだ。いや……私が今思い浮かべている太陽とは一体何だ? いつ見たものだろう? そこでまた車掌の声がして、私の思考は断ち切られた。駅に着いたので私は電車を降りた。看板には聞いたことも見たこともない駅の名前が書かれていた。


 家に帰ろうとする現実感と、全く知らない駅に降りた夢遊感と、夕方が煽る焦燥感が混ざって私はとても変な気持ちだった。電車は単線だった。単線だから、私が乗っていたのとは逆向きの電車はここには来ないのかと思い、いや、単線だから、待っていればいつかは来るのだと思い直した。心も足も不安げだった。焦燥がやけに私の心をざわつかせた。電車の座席から外に投げ出された私の身体を焦燥が動かそうとしていた。私は焦燥の向きがだんだん分からなくなっていた。帰るべき家に向かっているのか、さっきの夕日を指しているのか、それとも他のものか。どこへ向かっても違う気がした。しかし、いつ来るか分からないような帰りの電車をここでじっと待っておくことは、何かが許さなかった。そういうわけで、私はたまらないような気持ちでさっきの夕日の方を歩き出した。また夕日に身を任せるような心持ちだった。なんて心細く頼りない私だろうということをしきりに思った。


 駅の周辺は少なめではあるが家々が並んでいた。駅を降りて地に足をつけると、急にそれらが壁になったように立ちはだかった。それらの家の隙間から時々見える夕日を探して路を歩いていった。私を突き動かすものはわけのわからない焦燥と自分自身の勢いだけだった。家の影が濃くなるにつれて、焦燥がより焚き付けられるのを感じた。金色に縁取られた淡い色の雲は夕日に向かって進んでいくようにも、夕日に吸い込まれていくようにも見えた。今の私と同じだ。どこまで歩いても太陽は近づかない。だが太陽には魔力がある。太陽の向こうには終わりの地があり始まりの地がある。雲も私もそこへいざなわれているのだ。……

 進むほどに細くなっていく路地に不安が募り、引き返そうかと思ったとき、急に前が開けた。



 海だ。どうして電車に乗っているとき気がつかなかったのだろう。石だらけの海岸。ちゃぷちゃぷと音を立てる苔むしたボート。ガラス瓶や缶ビールの蓋がちらほらある。あまり人々の意識にのぼらない海の顔の一つ―――人はいなかった。

 唖然とした。しかし、同時にじわじわとした楽しさのような興奮を身体の芯に認めざるを得なかった。子供の頃に置き忘れていったような感情を……。波の音がする。目の前に海の世界がある。足元の浅瀬が透けて見える。石に私の影が伸びている。太陽の光がうろこのようなさざ波の一つ一つに映されて揺れている。遠く遠く、広い。海は、遠く遠く、伸びている……。

 遠くの方に、陸をつないだ橋が掛かっていた。その下を今まさに輸出入品を積んでいるかもしれない大きな船が何艘も行き交っている。それらは夕日に照らされて黒い影のようだ。私は辺りを動いたり船が過ぎるのを待ったりして、太陽をあるままの形で見ようとした。しかしなかなか良い瞬間が来ない。先程までの焦燥がまた首をもたげるのを私は隠そうとした。私は太陽がどう沈むのかを知りたいだけなんだ。しかもそれを海で見るというのは、あまりないことに違いないんだ。その瞬間に焦燥はいらない。あぁ、これが終わったらすぐに帰るから。

 船と橋の隙間を私は目を細めて見た。内なる焦燥のためか、子供のような興奮のためか、私の心臓は早鐘を打っていた。


 途端ドキリとした。何か変な衝撃だった。橋よりも船よりも遠いところ、一番の向こう側に、さらに黒い影が見える。よく見てみると、それは、ビル群の影だった! 太陽が眩しいために見間違いかと思い、何度も見直した。見直す程にはっきりとその影を捉える。もう見慣れた光景だと言うかのように心臓の鐘は収まっていった。自然と涙が出た。私はそれを意地でも拭かなかった。遠くにまた別の世界が見える。摩天楼という言葉が頭でちらちらする。あれが摩天楼なのだ。摩天楼、摩天楼。太陽はそこへ沈んでいく。


 もしあの摩天楼が私の幻覚なら。見慣れたいつものビル群、その中に私の勤務先の会社を抱えているあのビル群の、影法師ならば。それが消えたらどうなるのだ、太陽の裸の足は? もし、あの人工の橋の影も大きな船の影も全部なくなってしまえば、もし、今ここに海と太陽と私だけだったならば、太陽はどこへどう沈む? 遠い遠い海の一番遠いあそこは一体どうなっているのだろう。空はずっと続いている。海もずっと続いている。空と海が、あの遠い向こうで混ざる? そんなことがあるのか? あるいは海と空が何か線で区切られて隣り合うなんてことがあるのか? あの摩天楼の黒い影がなければあそこは水平なのか? 自然界に水平や直線というものが存在するのか? ありえない。太陽はそこに沈むのか? 太陽はどこへ往ってしまうのだ? 空は? 海は? 怖い。怖い、怖い。何かが怖い。


 また激しく動悸がしていた。立っているだけなのに息が上がっている。苦しい。怖い。私は考えることをやめた。遠くの船の影が、悪夢を見た後の自室のカーテンのような現実感を持って目に飛び込んできた。安寧。気持ち悪い程の安心がある。それは何かを隠している安寧だ。考えなければ陽だまりのような気持ちの安泰がある。考えれば夜のような不安と感覚の鋭敏がある。人間が作った摩天楼は何かを隠している。私は……私は、どちらを選ぶだろう。


 太陽がもう半分程食われている。摩天楼がゆらゆら揺れる。ああ、太陽、太陽、どうかその摩天楼を飲み込んでしまえ。船も、橋も、みんな。実体のない黒い影なんて全部飲み込んでしまえ。


 薄紫色の雲が太陽に吸い込まれてゆく。私の前には海があって、私は一人取り残されている。


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