第12話 水曜②B

*B世界


 放課後。

 止まなかった雨の中、傘をさして徒歩で音村さんと共に飯倉君の家に向かう。メールで教えてもらった住所と目印を頼りに歩くこと三十分。音村さんと協力して、ほぼ迷わず飯倉君の家に到着した。


「よお、悪いな、来てもらって」


 インターホンを鳴らすと、北高の制服を着崩した飯倉君が玄関から勢いよく飛び出して迎えてくれた。


「いや、まだ田辺さんは現れてない?」

「うん、今の所なにも起きてないよ。母さんからは『パート終わって家に向かってる』って今連絡来たとこ」

「ごめんね、大変な所にお邪魔しちゃって……」


 音村さんが遠慮がちに謝ると、飯倉君は全く気にせず笑い飛ばした。


「全然いいって。今度は音村さんが入れ替わっちゃったんだってな。まぁ上がってよ。その田辺さん? の事も詳しく聞きたいし」


 音村さんが入れ替わった事は、昼のうちに飯倉君にメールしておいた。傘立てに傘をさし込み、靴を脱いで飯倉邸にお邪魔する。

 飯倉君の後について階段を上ると、なぜか緊張した面持ちの音村さんがいそいそと俺の後に続いた。


「B倉君、北高の制服だと不思議な感じだね」

「え、あ、そっか。俺にとってはこっちが普通だけどな」


 あははと笑って自分の部屋のドアを開ける飯倉君。

 青いベッドに、漫画本が並ぶ本棚。サッカー雑誌と教科書が積み上げられた勉強机に、一冊だけ場違いな文庫小説が乗っている。想像していたより片付いているリア充男子高校生の部屋に一歩踏み入ると、見覚えのある女子と目が合った。


「あ、雨野君。と、音村さん」


 昨日戻ってきた時、ファミレスで飯倉君と一緒に居た北高の女子だ。飯倉君の彼女で、確か名前は神田さん。

 クッションに座った彼女は、俺達が部屋に入ると読んでいた漫画を閉じて明るく迎え入れた。


「神田さん? わ、向こうとイメージ違うね! ボブカットかわいい!」


 俺の後ろに居た音村さんが、ずいっと前に出て神田さんの隣に座る。どうやら二人は面識があるらしい。


「あ、そっか。あっちの私はロングだったもんね。音村さん、また会えてよかった。あっちに居た時は私、結局ずっとよくわかってなくてテンパってて、ちゃんと話せなかったから」

「いや、あれは全部私が悪いからいいんだよぅ」


 きゃいきゃいと二人で盛り上がる女子を見て「賑やかでいいねぇ」と飯倉君が笑う。


「あの小説、飯倉君の?」

 さっき目についた文庫本を指差すと、飯倉君は「そうだよ」と頷いた。


「向こうの雨野に勧められたんだ。読んだ事ある?」

「いや、ない」


 小説はかなり読むほうだったが、知らないタイトルだった。あまり自主的に選ぶ事はないSF小説。

 そういえば、Aへ行った時、あっちの飯倉君がSFを好んで読んでいたっけ……ええい、ややこしい。これからあっちの飯倉君の事はA倉えーくら君と呼ぶ事にしよう。


「結構面白いぜ。全然小説読まない俺でも読みやすい」

「へぇ。俺も読んでみようかな」


 もしかしたら、向こうの俺もA倉君に勧められて読んだのかもしれない。なんだか不思議な縁を感じて興味が湧いた。


「あ、じゃあ貸すよ。俺まだ途中だけど読むの遅いし」

 教科書の上から本を取って「ほい」と渡された。


「ありがとう。すぐ読んで返すよ」

「急がなくても、いつでもいいぜ」


 有り難く受け取って鞄にしまう。

 そのうち、玄関の方から「ただいまー」と声がした。


「あ、母さん帰ってきた。ちょっと行ってくる」

「俺も行くよ。女子二人はここで引き続き待ってて」

「はーい」


 飯倉君と共に部屋を出て階段を下る。

 居間に入り、台所に立った飯倉君の母親に「お邪魔してます」と挨拶すると「いらっしゃい」と微笑まれた。


「変な人には会わなかった? 職場とか、家の周りに怪しい奴が居たとか」


 飯倉君が疑い深く聞くと、飯倉母は「見なかったよ」と笑い飛ばした。笑い顔が飯倉君とそっくりだ。流石親子。


「昨日、雨野君と裕也に言われてから気にしてるけど、心配しすぎじゃない? そもそも、田口さんって人、お母さん知らないし」

「田口じゃなくて田辺だよ、母さん」

「残念ながら、確実に来ます。昨日今日じゃなくても、絶対数日中に、絶対」


 パラレルを壊す直前の「ミハル」「ミハル」と繰り返す精神不安定な田辺さんが頭をよぎる。俺が言い切ると、飯倉君は力強く頷いて加勢した。


「雨野がそういうなら間違いないよ。とにかく、警戒を怠らないこと。鍵かけた? 外出するなら声かけてってよ。出来れば外出しないでほしいけど」

「はいはい、わかったよ。出かける予定もありません。安心して二階で遊んできて下さいませ」


 軽くあしらう飯倉母に「何かあったら呼んでよ」と飯倉君が念を押して二階に戻る。

 飯倉君の部屋に戻ると、この数分で随分と打ち解けたらしい女子二人がアドレス交換をしている所だった。


「お母さん、大丈夫だった?」

「うん。今の所、怪しい奴は見てないって。と言いつつ、俺もまだよくわかってねぇんだけどな」

「昨日、説明したじゃん」

「一回聞いただけで理解できるかよ。なんだっけ? その田辺って男は向こうの俺の母さんの不倫相手で、こっちの田辺と入れ替わって?」

「そうそう。そうなんだけど」

「その、不倫した田辺さんってのが元々はB世界の人なんだよ」


 そう言いながら、音村さんは鞄から白紙のルーズリーフを取り出した。

 真ん中に縦線を一本引くと、左側にA、右側にBと書いて説明する。


「最初、このAとBは『飯倉君の両親が離婚したかどうか』で分かれているんだと思ってた。けど実際はそうじゃなくて、この田辺さんが『明英学園の入試に合格出来たか、出来なかったか』で分かれてたの」


 そう言って、音村さんはAと書いた下に「明英合格」と書き、続けてBの下に「明英不合格」と書いた。


「無事合格し、晴れて明英生となった田辺Aさんは、授業についていくのに必死で、せっかく合格したにもかかわらず高校を辞めたいと考えるほど追い詰められていた。その頃、明英に落ちた田辺Bさんはすべり止めの高校に通っていた。その二人が入れ替わったの。これが今から二十五年前の話ね」


「それから昨日の夜までの二十五年、田辺Aさんはすべり止め高校の生徒として、田辺Bさんは明英生として入れ替わったまま生活を続けたらしい。そして田辺Bさんは明英で飯倉君の母、美春さんに出会った」


「その、田辺BがA世界で元同級生の母さんと不倫したから、あっちの世界では離婚したって事?」


 首を傾げながら問う飯倉君に「そうそう」と音村さんが頷く。


「その田辺Bさんが二十五年間入れ替わりっぱなしだった反動で、昨日このB世界に戻された」


「それで、裕君のお母さんが危ないって事なんだね」

「その通り。田辺BさんはAの美春さんと離れ離れになる事を酷く恐れていた。こっちの美春さんが家族で仲良くしている姿を見たら襲い掛かってくるかも知れない」


 枝で迷いなく音村さんの腕ごとパラレルを分断した様子が目に浮かぶ。

 音村さんもそれを思い出したのか、怪我をした左腕を無意識のうちにさすっていた。実際に怪我をしたのはこの体ではないけど。


「うん、まぁ、ややこしいけどわかった気がする。母さんには引き続き警戒してもらうよ」

「それがいいよ」

「じゃあ、次は音村さんだ。なんで今度は音村さんが入れ替わっちゃったんだろう?」


 うーん、と四人で考える。静かになると、しとしとと降る雨音が部屋を包んだ。


「あ! 音村さん、雨野が戻る時、雨野と手を繋いでた、とか?」

「へ!? 繋いでないよ!! なんで!?」


 飯倉君のひらめきに、音村さんが驚いて即座に否定する。


「いや、俺が美由を巻き込んだのは、入れ替わるとき手を繋いでたからだから。雨野の時も握手してたからっぽいし」


 そうだったんだ。

 新たな事実に感心したが音村さんは否定を続けた。


「じゃあ私は例外だ。ね、繋いでないよね! 雨野君!」

「え、あ、うん。なんなら飯倉君の方が距離的には近くに居たくらいだったような」


 音村さんの圧に押されて慌てて同意すると、飯倉君は「そうか、違うかー」と残念そうに腕を組んだ。


「じゃあ、パラレルを持っていたから? 触ると移動しちゃうんでしょ? あれ」


 神田さんが床に転がっていたサッカーボールをぽすぽすと触りながら言った。


「多分違う。だったらB倉君と神田さんを戻した時も移動したはず。でも、その時は大丈夫だったから」

「やっぱりパラレルが壊れたからか?」

「え、パラレル壊れちゃったのか」


 飯倉君と神田さんが驚いたので、俺と音村さんは苦笑した。


「その、田辺Bさんに真っ二つにされちゃったんだ」

「まじかよ」

 絶句する飯倉君をよそに、ちらりと壁掛け時計に目をやる。


「今、十八時すぎ。俺が戻ってきて二十四時間が経った。もしパラレルが壊れてなければ、普通に起動して音村さんは戻れるはずだ。けど、戻らないという事は」


「やっぱり壊れちゃったのかもね」と音村さんが諦めたように笑った。


「向こうの雨野君と飯倉君は、私が入れ替わっている事に昨日の夜の時点で気がついているはず。きっと今も、私を戻す為に迷惑をかけてる」


 強い雨が窓を叩く。

 申し訳ないなぁ、と落ち込む音村さんを見て、飯倉君がガシガシと頭を掻いた。


「なんか、解決の糸口はねぇのかな。パラレルを治す方法! とか、パラレルが壊れてても音村さんが戻れる画期的な解決法! とか」

「……田辺さんの例にのっとれば、二十五年後には強制的に戻されるのかもだけど」


 勿論そんな事にはさせたくなかったが、俺の言葉に音村さんの表情が曇った。すぐさま飯倉君が「いやいや!」と反論した。


「そんなの可哀想じゃないか。知ってるけど知らない土地でさ、友達とも会えずにさ」

「B倉君……」

「結局、残念だけどパラレルがA世界にある以上、こちらでは手の打ちようがないのが現状だ。向こうが何らかのアクションを起こしてくれないと状況もわからないし、今は待つしかない」


「くっそ。こうなったら音村さん、こっちに居る間は俺達がついてるからな。不安かもしれないけど仲間だからな」

「そうだよ、音村さん。何でも頼ってね。力になるから」


 飯倉君が宣言して、神田さんは音村さんの手を取った。


「ありがとう、B倉君、神田さん。それに、雨野君も」

「いや、むしろ何も出来なくてごめん。今頃、あっちは何してるんだろうな」


 力なく微笑む音村さんに謝ることしか出来ない。結局、A世界任せな無力感に苛立ちが募る。


 その時、ピンポーン、と飯倉家のインターホンが鳴った。


 すぐに「はーい」と返事をして、飯倉母がパタパタと駆けていく音が聞こえる。って。


「飯倉君、誰か来た」


 慌てて俺が言うと、飯倉君はハッとして立ち上がり、部屋のドアを開け大声で叫んだ。


「あっ、母さん! 玄関開けるの待った!」


 バタバタと階段を駆け下りる。が、飯倉母はすでに玄関ドアを開いていた。

 扉の向こうに現れたのは。


「み、美春。会いたかった」

「田辺泰介……!」


 それは、昨日公園で会った田辺泰介と少し違っていた。

 きっちり着たスーツとは対照的にぼさぼさの髪。他にも髭の濃さや微妙な体形の太さなど小さな間違い探しをしたらキリがないが、顔だけは昨日見たそれと全く同じだった。雑に閉じられた傘から水滴が滴っている。


 俺が階段の途中で止まってゴクリとつばを飲み込むと、飯倉君は「あいつか」と残り数段の階段を一気に飛び降りた。


「あの、どちら様ですか?」


 階段の途中に居た俺にもしっかり聞こえるほど、飯倉母は怪訝な声で田辺に言い放った。


「え、あ、美春、そんな、俺だよ。泰介だ」

「私にはそんな知り合い、居ませんけど」

「誰だか知らねーけど、なんか用っすか」


 見るからにたじろいだ田辺Bさんに、飯倉君が母親の横から追い打ちをかける。


「俺は、美春の。美春、俺だよ。知らないはず、ないだろ。な」


 他人の期待や希望が、こんなにもガラガラと音を立てて崩れていく様を初めて見た。


 わかっていたはずなのに。

 こちらの世界の美春さんが、自分の事を知らない事。

 きっと昨日の夜から、美春さんに会う事だけを考えていたんだろう。多分この時間の訪問を狙ったのも、彼女がパートから帰宅するタイミングを知っていたからで。


 不倫から始まったとはいえ、奪い取って結婚し、夫婦として生活していた時間は確実に田辺Bさんの中にある訳で、それをひょいと取り上げられたら、取り返したくなる気持ちもわかる。

 一度奪えたんだからもう一度奪ってやる。とか、もしかしたらこっちの美春も既に俺の事知ってるかもしれない。とか、色んな事を考えながらここまで来たんだろう。


「一緒に行こう。美春。きっと、すぐに慣れる。真面目なだけの旦那には、うんざりしたって言ってたじゃないか。な、もう一度結婚しよう」


 自分に言い聞かせるよう言いながら、田辺Bさんは飯倉母の腕を掴んだ。


「や、やめてください」


 ぐいと引っ張る腕に飯倉君が飛びかかり、即座にはがすと母親の前に立ちはだかる。


「これ以上、何かするってんなら警察呼びますけど」

「飯倉君! 既に呼んでる!」


 俺の声に、飯倉君が「えっ」と振り返る。

 階段の上から一部始終を見ていた神田さんが電話の向こうへ必死に事情を説明していた。その横で音村さんがうんうんと頷きながら田辺Bさんの動向を見張っている。


「はい、はい、そうです。田和森二丁目の角を曲がって、四件目の、はい、飯倉です」


 ヤバいと思ったのか、田辺Bさんは何か言いたそうな顔のまま、玄関を飛び出していった。

 何が起きたかわからず、呆然とする飯倉母を飯倉君が支える。


 急いで俺は閉じかけた玄関扉を開け、田辺Bさんが走って行った方向を確認した。しんしんと細い雨が街を濡らす中、手に持った傘もささずに大通りの方へ駆けて行く姿を念のため携帯で撮影して、玄関を閉めた。


「何なの、今の人は。怖かったぁ」


 言葉とは裏腹に間抜けな声で飯倉母が驚いた為か、場の緊張が一気に和らいだ。


「だから、やべぇ奴が来るって言ったじゃん! 簡単に玄関開けるなよなー」

「裕君、警察の人が被害者本人に代わってほしいって」

「まじか。母さん話せる? あいつ、追いかけなくて大丈夫かな」

「それは警察に任せよう」



 それからすぐに警察が来てくれる事になった。


 電話を終え、時間が経つにつれて恐怖を実感してきたらしい飯倉母がふらふらとおぼつかない足取りで居間へ向かった為、今は神田さんが付き添って落ち着かせている。


「まぁ、とりあえず一安心だな」


 はーっと一息ついて飯倉君に安堵の色が浮かんだ。


「そうだね。これだけ目撃者がいれば何かしらの対応はしてくれるでしょ」

「だよな。あ、ん?」

 突然、飯倉君が軽くこめかみを押さえて黙った。


「ん? どうした、飯倉君」

「……あ、ここは、俺んち? 雨野君?」

「え?」


 唐突に、本当に唐突に飯倉君の口調が変わった。

 顔を上げ、辺りをきょろきょろと見回す飯倉君。そして情けない声で「うわー」と頭を抱え、膝をついた。

 これって。


「も、もしかして、Aの飯倉君?」


 俺が聞くと、飯倉君は申し訳なさそうな顔でこくりと頷いた。

 えっ、今? このタイミングで?


「え、嘘。飯倉君?!」


 すぐ横で様子を見ていた音村さんも驚きの声を上げる。


「あ、音村さん。ごめん、しくじったみたい」

「何があったの。飯倉君が入れ替わったって事は、パラレルは壊れてなかったの?」


 音村さんが慌てて問い詰める。


「いや、パラレルは壊れた、んだけど、その片割れが逃げて」

「片割れ? あの時の?」


 田辺Bさんに叩き割られたパラレルの様子を思い出した。片割れにも、平行世界を移動させる力があったという事か。


「とにかく、一旦落ち着こう。飯倉君の部屋に戻って警察を待つ。それまでに状況を整理しよう」

「警察? 何かあったの?」


 困惑するA倉君の背を押して階段を上る。

 全く、何がなんやら。


 入れ替える前に一言教えろよ、A世界の俺! なんて無理難題を脳内でふっかけつつ、終わりの見えない夜が始まった。

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