第10話 火曜③A、B、A

『あ、イ』

「あ」


 一瞬の出来事だった。

 

 音村さんの腕に抱かれたパラレルは、叩きつけられた枝で二つに分かれ、一つはポーン! と草むらへ飛んで行った。

 残った一つは先ほどの三分の二程度の大きさになって音村さんの足元に落ち、壊れたようなノイズをたてている。


 田辺さんは枝を振り落としたとほぼ同時に意識を失い、まだ濡れている地面に倒れこんだ。


「あ、え! だ、大丈夫? 音村さん」


 ワンテンポ遅れて、俺は左腕を押さえる音村さんに気がついた。

 パラレルを分断した枝は、抱いていた音村さんの左腕にも直撃したようで、赤く腫れあがっている。


「わ、私は大丈夫。左でよかったよ。はは」


 明らかに無理した震える声を誤魔化すように、音村さんは足元に転がったままのパラレルを拾い上げた。


「どうして、倒れたんだろう……? 生きてる、よね?」


 恐る恐る田辺さんの顔を覗き込む。

 汗だくで顔色は真っ青だったが、息はしているようだ。とりあえずホッとして、握られた枝を取り上げる。


「……息はある。救急車呼ぼう」

「それより、パラレルが壊れちゃった……どうしよう、雨野君が」

「いや、俺はとりあえずいいよ。それより腕」


「わっ」


 突然、飯倉君が声を上げた。倒れた田辺さんがむくりと起き上がったのだった。


「あ、と、ここは……」

 その口調は、さっきまで殺気丸出しだった田辺さんとは打って変わって大人しかった。


「南高近くの星丘公園です。何があったか、覚えてませんか?」

 飯倉君がそう聞くと、田辺さんは首を振ってよろよろとベンチに座った。


「もしかして俺は、戻ってきたのか」


 田辺さんの発言に全員がハッと息をのんだ。そうか、じゃあこの田辺さんは今までB世界にいた元々の。


 田辺さんは額の脂汗を袖で拭いながら「そうか」と一人で納得したように頷いて顔を上げた。途端、音村さんを見て「え!」と驚いた。


「君は……」

「え?」


 困惑する音村さんを前に、田辺さんはしばらく「あ、いや違うか」とか「いや、でも」と独り言をつぶやいていたが、考えがまとまったのか、顔を上げて音村さんに尋ねた。


「君のお母さんは、この辺りで生まれ育った人か?」

「え、いえ。母は他県の出身です。父はこの町の生まれですけど……」


 音村さんの返事に、田辺さんは落胆した。


「……そうか、変な事を聞いてすまない。昔世話になった人によく似ていたもんだから」


 申し訳なさそうに苦笑すると、改めて俺達の顔を見回した。


「君達は、俺の知り合い? それを持ってるって事は、状況は理解しているんだろう?」


 知り合い……なんだろうか? 

 田辺さんは音村さんに抱かれたパラレルを懐かしそうに眺めている。


「全部を知っている訳ではありません。あなたは二十五年前、この『パラレル』を触ってB世界に移動した。が、長期間、魂が移動していた反動が起きて、元々の世界に強制送還された、んだと思います」


「やっぱり、それを触ったからパラレルワールドに移動したのか。俺が、高校受験に失敗した世界に」

「こちらの世界のあなたは、南川市で奥さんと二人暮らしです。確か、大学教授、って言ってました。少なくとも五年前は」


 飯倉君がそう答えると、田辺さんは「えっ」と意外そうな声を上げた。


「結婚したのか……それに、大学教授。じゃあ、明英めいえいを卒業出来たのか」

「あ、はい。多分」

「そうか、すごいな。俺は、受かったけど結局授業についていけなくて辞める事しか考えられなくなっていたのに……」


 懐かしむように田辺さんが空を仰いだ。


「それを触った次の日から、突然、明英じゃなくてすべり止めの高校に登校する生活が始まって、最初こそ戸惑ったけど、それ以上に俺は心底安堵した。受験勉強を手伝ってくれた人には申し訳なかったけど、俺にはやっぱり明英はレベルが高すぎたんだなって実感した。けど、そうか、あっちの俺は踏ん張って三年間通ったんだな」


 環境が違うだけで、同じ田辺さんでここまで変わるものなのか、と俺は感心した。

 無理に勉強して合格した田辺さんは授業についていけず、合格できずに劣等感の塊となった田辺さんは勉強する気が起きなくなっていた。その二人がチェンジされた事によって、皮肉にもお互いの望む環境を手に入れたのか。


「その明英学園で、は、奥さんと知り合ったって言ってました」


 その相手が自分の母であることは告げず、飯倉君は田辺さんに知りうる限りの情報を提供した。


「飯倉君、大丈夫か?」

 小声で聴くと、飯倉君は苦笑して頷いた。


「俺は全然。それより、今の感じだと、あの男は向こうの世界の母に確実に会いに行くよね」


 確かに。

 あの様子のままB世界に飛ばされたのだとしたら、間違いなくすぐに愛しのミハルさんに会いに行くことだろう。B世界のミハルさんは、飯倉家で平和に暮らしているのに。


「でも、会ったところでB倉君とB倉君のお父さんが一緒に居るんだから、諦めて帰るんじゃない?」

「諦めればそれでいいけど、もしかしたら、B倉君達に危害を加える事も、考えられる」


 音村さんの顔がサッと青くなった。

 充分あり得る。さっきの勢いのまま目覚めたなら、今現在すでにB倉君の元へ向かっていてもおかしくない。


 その時、ザザッとノイズ音がして、パラレルが淡く点滅した。


「パラレル! 動いた……?!」


『わた、は、分き、せ、いど、そ、ち、パラレ、で』


 ちゃんと聞き取れないが、半分無くなっても再起動できたようだ。


「これで、俺は戻れる、はずなんだよな」

 不規則に点滅するパラレルを見て、俺は決意した。


「なら、俺が止める。今すぐ戻って向こうのB倉君に危険を知らせる」

「でも、危ないよ! パラレルの様子、やっぱりおかしいし、ちゃんと移動できる保証はないよ?」


 パラレルは今も何か言おうとノイズ音を発しているが、そのほとんどが聞き取れない状況だ。


 音村さんの言うとおり、元の世界でもない、ここでもない、違うパラレル世界に飛ばされてしまう可能性もあるかもしれない。が、ここでうだうだしていても何も止められない。


「こうしている間にも田辺さんはB倉君家族の元へ迫っているはずだ。一刻も早く」

「すぐには来れないだろう」


 静かに話を聞いていた田辺さんが、ぽつりと呟いて、俺の言葉を遮った。


「……向こうの俺は、今、東京にいる。新幹線を使っても、最速で到着できるのは深夜だ」


 すべてを理解している訳ではなさそうだが、緊急事態である事を察してくれたのだろう。といっても深夜。猶予は四時間程度だ。


「音村さん、はやく。俺なら大丈夫。絶対B世界に戻る」

「……わかった」

 不安な表情のまま、音村さんは渋々頷いた。


「飯倉君ありがとう。訳が分からない一日だったけど君のおかげで楽しかった。向こうでも君と友達になりたい」

「こちらこそありがとう。向こうの俺を、どうか頼む」

「雨野君を、元の分岐に戻して」


 途端、視界がぼやけて強烈な立ち眩みに襲われた。

 そういえば、昨日の夕方もそうだったな。





*B世界


「……めの、雨野! 大丈夫か?」


 目を開くと、公園ではなく高校から近いファミレスに居た。

 目の前に座っているのは見知らぬ南高の女子と男子……? 


「もしかして、飯倉君、なのか?」


 髪型や雰囲気はまるで違ったが、その顔はさっきまで一緒に居た飯倉君にそっくりだった。


「もしや、こっちの雨野?! 戻ってきたのか!」

「ええっ!!」

 飯倉君の隣に座る女子も驚いている。


「まじか、やっと会えたな。よかった。じゃあ、雨野も向こうに戻れたんだな」


 そう言って屈託なく笑う。

 容姿は違うけれどこっちの飯倉君もどうやらいい人そうだ。少なくとも、状況を把握したうえで、今現在まで入れ替わる前の俺と一緒に居てくれたのだから。


「それより大変だ、飯倉君。君と、君の家族が危ない」

「え、なんでまた」


「向こうで君の母親と不倫した相手が元々こちらの人間だったんだ。それが、強制送還されて今こちらの世界に来ている」

「え、何? ごめん、意味わかんないからもう一回言って」


「えっと、じゃあ詳しく話すから、今すぐに両親に連絡とって。危険な男が訪ねてくるかもって」

「わかった!」

 





*A世界


 目を開けると、そこは見慣れた丘の上の公園だった。


 街灯の下には、パラレルを抱きしめた音村さん。


 どうやら俺は無事、元のA世界に戻ってこれたらしい。きっと音村さんが試行錯誤してくれたんだろう。よかった。


「雨野君……!」


 聞き慣れた声に振り向くと、すぐ横に飯倉君が立っていた。大人しくて控えめなその声と、久しぶりなくん付けに、俺は思わず感動した。


「飯倉君!! よかった! 戻ってこれたんだな!」

「こっちのセリフだよ! よかった! なんだか久しぶりだね」


 飯倉君と、まるで女子のように手を取り合って再会を喜ぶ。

 と同時に、B倉君とちゃんと最後の別れが出来なかったな。と少しだけ後悔した。

 よく見たらすぐ近くに見知らぬ男性もいたが、どうでもいい。


「音村さんもありがとう。何とか無事に帰ってこれたよ」


 興奮冷めやらぬテンションのまま音村さんに感謝する。

 が、音村さんは「えっ」と怯えた表情で俺を見た。


「……雨野、君? ここは、星丘ほしおか公園? それに、これ……」


 明らかに戸惑いながら辺りを見回し、自らの腕に抱かれているパラレルを恐る恐る放した。

 地面に落ちたパラレルは、一度だけ鈍く跳ねると、そのまま動かなくなった。


「お、音村さん、まさか」

「私、なんでここに……」

「これって」


 驚いた飯倉君と目が合う。なんてこった。


 気づけば時刻は十九時近くになっていて、満月になりそうな月があざ笑うかのように俺達を照らしていた。

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