第一章

第1話 木曜、金曜

 雨野あめの、という苗字で得をした事は一度もない。


「雨野君、どうした? 寝不足?」


 窓際の一番前の席で、薄暗い小雨の空をぼんやりと眺めていたら、一つ後ろの席の飯倉いいくら君に声をかけられた。


「いや、雨だなーと思って」

 振り返りながら答えると、飯倉君は鞄から弁当を出して、今にも食べ始めるところだった。


「さっき当てられてたもんね」

「雨だから雨野ってひどくない? なんも悪いことしてないのに雨の日だと当てられ率ほぼ一〇〇パーセントですよ?」


 ため息をつきながら椅子を半回転させて窓を背に座り、俺も弁当を広げる。


「でも雨野って苗字かっこいいじゃん。なんか響きが」

「飯倉の方がよっぽどかっこいいと思うけどね」

 俺が大げさにため息をつくと、飯倉君は笑った。



 飯倉君と初めて出会ったのは去年の春、高校に入学したその日だった。


 運悪く一年四組の出席番号一番になってしまった俺の次、二番だったのが飯倉君で、席が近く、よく話すうちに仲良くなった。

 二年に上がっても、また同じクラスだったのは嬉しかった。


 飯倉君はクラスの男子の中でも背が高く、運動神経もよいのに、非常に大人しい性格だ。

 運動も勉強もそこそこな上、身長一六六センチの眼鏡な俺から見たら羨ましいものだらけだったが、彼はどこまでも控えめだ。


 もぐもぐと弁当を頬張りながらちらりと飯倉君の弁当に目をやる。肉多めの男らしい弁当は飯倉君本人のお手製で、毎朝早起きして作っていると前に聞いた。

 飯倉君の両親は離婚しており、父親と二人暮らしで家事を分担しているらしい。


「あ、昨日言ってた小説、持ってきたよ」

 飯倉君は早々に食べ終えた弁当箱を片付け、鞄から分厚い文庫本を取り出した。


「おー、ありがとう!」

 飯倉君から小説を受け取り、鞄に詰める。


 こんな風に俺と飯倉君は、日頃から面白かった小説や漫画の貸し借りをよくしていた。飯倉君が薦めてくれる本は外れなく面白いものばかりなので、これも読むのが楽しみだ。


 窓に目をやると、いつの間にか雨はやんでいて、雲の切れ間からうっすらと光がさしていた。


「帰りは傘いらないかもね」

「やむならもうちょっと早くやんでほしかったよ。そうしたら当てられずに済んだのに」

「この調子なら午後は当てられないでしょ」

「だといいけど」


 とか言って昼休みを終えたが、午後の授業では出席番号順に当てられ、結局開始五分で前に出ることになった。あーあ。

 黒板に回答を書きながら、今日は厄日だな。と諦めて、俺は肩を落としたのだった。






 昨日とは打って変わり、爽やかな五月晴れの空が広がった翌日。


 いつものように自転車で登校した俺は、昇降口の前に佇む飯倉君を発見した。

 駐輪場に愛車を停めて昇降口へ向かうと、飯倉君は先ほど居た位置から一歩も動かず立ち尽くしていた。


「飯倉君おはよう。昨日借りた本、面白くて一気に読んじゃったよ」


 声をかけると、飯倉君はビクッと肩を上げて驚き、勢いよく振り向いた。


「……君は、俺の友達?」

「え?」


 不安げな顔のまま飯倉君は俺の両肩を掴んだ。

「ねぇ、俺、南高の生徒なの?! 昨日まで北高に通ってたのに」


 勢いよく俺の両肩をゆすって焦る飯倉君の言動にこちらも困惑した。よく見たら、いつもきっちり付けているネクタイも曲がっている。


「何言ってんの。記憶喪失?」


「記憶喪失じゃない! 名前は飯倉裕也いいくらゆうや! 誕生日は十月三日、てんびん座のO型! 昨日北高からの下校中に突然瞬間移動して、自分の部屋に戻ってから何かおかしいんだ! 母さんはいないし、家具の位置もちょっと違うし、南高の制服があるし」


「ちょ、とりあえず落ち着け。教室行こう」


 登校時間真っ只中の昇降口の前で異常なほど慌てている飯倉君は相当に目立っていた。人目を気にしつつ、飯倉君の腕を引いて教室へ急ぐ。

 靴箱の位置を教え、俺の後ろの席まで案内したところで予鈴が鳴った。



 それから午前中の間、飯倉君の朝の言動がずっと頭から離れず授業どころではなかった。


 北高に通ってた? 瞬間移動? 


 高校入学以来、約一年間友人として共に過ごしてきたが、こんな飯倉君は見た事がない。

 冗談? いやいや、そういう事を言うタイプではない。

 第一、こんな冗談を言うメリットがない。



 休み時間になる度に振り返って様子を窺うと、不安と困惑で押しつぶされそうな顔の飯倉君が、救いを求めるような目で俺を見る。時間が経てば経つ程、俺の知っている、寡黙で口数少なく大人しい飯倉君とはまるで別人のように見えた。


 授業中も、飯倉君から発せられていると思われる困惑オーラをずっと背中に浴び続け、気が気じゃなかった。

 四時間目の数学の授業で運悪く当てられた飯倉君は、慌てて立ち上がったが全く答えられず「すいません、わかりません」と力なく呟いて座った。

 いつもなら迷いなく回答するのに。


 その様子に、俺以外のクラスメイト達も疑問に思ったのか「今日の飯倉君、なんかおかしくない?」と、そこら中でコソコソ話が展開されている。


 一体、飯倉君に何があったんだろう。




 自分の人生史上、最高レベルに長く感じた午前中を乗り切り、ようやく昼休みを迎えた。


「記憶喪失は元に戻った?」

「だから記憶喪失じゃないって! えっと、名前は」


 冗談めかして言いながら振り返ると、飯倉君は小声で反論した。

 クラス中で噂になっている自覚はあるらしい。


「俺の名前? 忘れちゃったの? 雨野だよ」

「あめの……うん。初耳」


「そうか。残念だなぁ。昨日もこうして一緒に弁当食べた仲だってのに」

「あ、俺、弁当持ってこなかった」


「今日は作るの忘れたの?」

「弁当なんて作った事ねぇよ。そうか、母さんがいなかったから……っていうかそれどころじゃなかったし」


「購買行く? 菓子パン位ならまだ買えると思うけど」

「いいよ、購買の場所わかんないし」


 不貞腐れる飯倉君は、いつもの謙虚な飯倉君とはまるで違い、口調も荒い。


 やっぱり記憶喪失? 

 というより、もしかしてこれが、ドラマや漫画でよく見る二重人格ってやつなんだろうか。日頃抑えていたストレスが爆発して荒っぽい別人格が生まれてしまった、とか。


「じゃあ、俺の弁当半分やるよ。その代わり、何があったか詳しく教えてよ」


 まだ手を付けてない二段弁当を平等に分けて、教室前方の教卓内に入っている自由に使っていい割り箸と共に差し出すと、飯倉君は素直に「ありがとう」と受け取った。


 弁当を食べながら、朝、飯倉君が言っていた事を順序立てて一つ一つ確かめた。


 まず、昨日の放課後、下校中に突然瞬間移動し、自分の部屋に戻っていた事。


「部活を終えて歩いて帰ってたはずなのに、一瞬眩暈がしたと思ったら家に居たんだ。あれ? どうやって帰ってきたんだ? って怖くなって。いつの間にか制服から着替えてるし、見た事ねぇ教科書見ながら勉強してるし、鏡見たら髪型も変わってるし」

 鞄から取り出したそれは、四時間目の数学で使われたワーク集だった。


「そもそも俺は北高の生徒だ。二年三組三番。こんな問題集見たことないし、第一、南高に進学できるような優秀な頭は持ってない」


 俺達の通うこの袋田南ふくろだみなみ高校は、この辺りの公立校でそれなりに偏差値の高い進学校だ。

 対して彼の言っている袋田北ふくろだきた高校は、ここからおよそ十キロ程度離れた所にあり、商業科併設で、どちらかと言えば進学しないで卒業後すぐに地元に就職するような生徒が通っている高校である。


「でも、朝起きても部屋には南高の制服しかないし、仕方なくそれ着ていつも通り北高まで行ったけど靴箱はないし、知ってるやつには知らん振りされるし、目立つし。なんか怖くなってきて、とりあえず南高に行ってみるかって思い立って来てみたはいいけど、どうすりゃいいかわかんねぇし」


 そして、昇降口の前で呆然としている所に俺が話しかけてきた。という訳らしい。

 うん、さっぱりわからん。


「他に変わった所は?」

「一番おかしいのは家だ。母さんが居ねぇ。父さんに聞いたら「頭でも打ったのか?」って真剣な顔して心配された」


 飯倉君は「訳わかんねぇ」と首を傾げてから唐揚げを口に放り込んだ。


「……君の両親は離婚してるって前に聞いたけど」

「は? え、離婚?」


 驚き、動揺したらしい飯倉君の手元が狂い、箸でつかんでいた卵焼きがぽろっと落ちる。


「うん。理由までは知らないけど、小学生の時に母親が出て行ったって」

「いやいやいや、そんな訳ねぇから。今でも母さんは現役だから」


 母親に現役とか引退とかあるんだろうか。まぁそれは置いといて。


「毎日自分で作った弁当持って来てたけど。昨日も」

「怖い怖い。なぁ、なにこれ雨野。何が俺の身に起きてんの?」

「わかんない……けど、続きは放課後。色々整理してみよう」


 半分になった弁当を早々に食べ終えて、俺は片づけを始めた。


「飯倉君、次、体育だから早めに更衣室行かないと」

「ちょ、早く言えよ。置いてかないで! 更衣室どこにあるかわかんないから」


「置いてかないよ。ところで、体操着は持ってきてんの?」

「わからん!」



 結局、飯倉君は体操着を持ってきていなかったので体育準備室の予備を借りる事になった。

 先生に「貸してくれる友達はいなかったのか?」と聞かれていたが、飯倉君は誰にも聞こえないような小さな声で「ここに知り合いなんていないし」と呟いて、ため息をついた。

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