【番外】少し未来のお話(ネタバレ注意)
夢うつつの間に、ひんやりとした感触を感じて瞼を開ける。
「起こしてしまいましたわね」
「えりか?」
寝台の傍でこちらを見下ろしているのは愛しい妻だった。離れていこうとする冷たい感触が惜しくて、手首を掴む。素直に捕まえられた手のひらを親指で軽く撫でて、口元まで持ってきてから、丸められた指先に口付ける。
かすかな震えには気付かないふり。
「何時?」
「そろそろ十六時になりますわ。朝食も昼食も抜かれたとルカが申しておりました。陛下のお好きなウズラのスープを用意いたしましたので召し上がってくださいませ」
「いらない。けほ。今日はシラーとの会談が入っていたはずだろう、早いね」
長い眠りの間に水分を失った喉がささくれたような痛みを生み出す。エリカがすっと私の頭を抱えると、用意していたらしい小さな盃で私の口に水を含ませた。手慣れているな、と思う。
「私が手ずから作りましたのに。召し上がって下さいませんの?」
己の可愛さを知り尽くした上で可憐に微笑む彼女は私が彼女の言葉に従うことを疑っていない。彼女の手作りを口にしないという選択肢などないことを知っていて逃げ道を塞ぎにかかったのだ。それもこれも私のためだと分かるから、甘い痺れが脳をとろかせる。
「シラーとの話し合いは終わりましたわ。ご心配なさらずとも現状維持で一致いたしました」
「この短時間でまとめたのか。さすがに私の皇后は優秀だね」
「ええ。陛下にとっては私が一番の薬ですもの。早くお側に戻ってこれるように努力するのは当然ですわ」
愛されていることを欠片も疑わず、それを伝えるのに些かの躊躇もない。私がそれを喜ぶと分かっているからこそ何のてらいもなくエリカは言う。
踊らされている。
私の方は全て見透かされているなと思うのに、彼女の心の本当のところがどこにあるか、出会ってもう四年にもなるのに分からない。全部を知りたいと思うけど、分からないことも好きだから、惚れた方が負けというのはきっとこういうことだ。人の気もしらず平然と魅力を振りまくエリカがなんとなく憎たらしくなって、虐めたくなる。
「移してしまうかも知れないよ」
「それで陛下が回復なされるなら望むところですわ」
手を伸ばしてこちらを覗き込むエリカの滑らかな頰に添える。頬ずりするように重さを私の手に預けて、瞼を閉じた姿は懐かない高貴な猫の気まぐれを思わせる。
言質はとったので素早く上体を起こして口付けた。
不意をつかれた形のエリカは閉じていた目を見開くとさっと顔を逸らす。耳が染まっていて可愛らしい。
彼女の動揺に気分が良くなって、腰に腕を回して寝台の上に引き上げながら頰にキスする。
やはり婚姻を早めたのは英断だった。誰憚ることなく愛でることができるというのはいいものだ。
好きな時に抱きしめて、好きな時に愛を伝えることができる、それだけで満たされる。
「まだ日も高いのに……お戯れが過ぎるわ、殿下」
「ジュストだよ。名で呼んでエリカ。今は私の名はもう君だけのものだ」
皇帝になってから私の名を呼ぶ者はもういない。唯一の例外はフィーだけれど、あれも私を名で呼んだりはしない。エリカのためなら迷わず命も国も捨てられるが、差し当たっては彼女のためにも皇帝の地位は保たないといけないから、この名は暫くは彼女だけのものだ。
揺れる露草の瞳に微笑みかけて金糸のような髪に口付けを落とすと、腕の中で身を固くしていたエリカが私の首に手をまわす。そのまま自身の細い体を引き上げて距離を詰めると、耳元でそっと声が発される。
「ジュストさま、私はずっとお側におります」
それだけ囁くとすぐさま離れて、けれど私が抱きしめたままなのでこれ以上の距離を取ることもできず、羞恥に頰を染めて自棄になったように私に抱きつくと胸に額を押し当てた。
現実か?それとも私の都合のいい妄想か?
暴力だ。この愛らしさはもはや暴力だ。
手に入れたくてしかたなかった女にそんなことされてみろ。
戦わずして理性の全軍覆滅まったなしだろ。
強引に顔を上向けさせて、現れた潤んだ瞳に壊滅状態の理性がさらに追い打ちをかけられたところで、
「陛下、お休みのところ失礼いたします」
そう、厄介事というのはこういうときにやってくるのである。
「なんだ!危急の用以外は後にしろ!」
常よりも荒い声になったのは仕方ない。
「マルタ国が我が国に宣戦いたしました。軍が陛下のご下命を待っています。広間までお越しください」
「……くそ」
大方あのバカ王子が何かやらかしたのだろう。勝手に内乱でもめてくれそうだったので泳がせていたが、こんなに早くこちらに矛先が向くとは予想外だった。
エリカはすでに私の腕の中から抜けて、衣装を運んできている。
「すぐ向かう!大臣も集めておけ!」
「はい!」
エリカに無言で着替えを手伝われながら募るのは苛立ちだけだ。
こうなったらマルタ国には覚悟をしてもらおう。毟り取るだけ毟り取り少なくとも私の治世の間はこの国に頭を上げられないようにしてやる。そうでもしなければ釣り合わない。
「ジュスト様、剣を」
「ああ」
ささげ持たれた長剣を佩き、私の襟元を整えているエリカの姿を眺めていると、
「ジュスト様」
返事をするよりも早く、首を引かれた。
柔らかい感触が唇に押し当てられ、離される。
ほんのわずかな背伸び。吐息の感じられる至近距離でエリカが囁く。
「ジュスト様がいるのも
悪戯っぽい笑みはまさにかつての魔性を過たず発揮していて、脳髄が痺れる錯覚に陥る。
ああああもう。何度惚れさせれば気がすむんだ。
「スープが冷める前に帰る」
勢いのまま抱きしめて、思い切りよく離す。これ以上はだめだ。待ってろマルタ。叩き潰してやる。
その後、宣戦を受けた即日に親征に赴いたシャトゥレの若き皇帝によりマルタ国首都が抑えられ、マルタはかつてない速さで平げられた。
戦において大きな功績を挙げたのはかつてマルタ国が友好の証として贈った飛行船であり、これ以降、先の見えない愚かな行いを指して『敵に飛行船を贈る』という言葉が使われることとなる。
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