第3話 皇太子の帰還
六年の予定だったマルタ国への遊学を、ジュストが早々に切り上げられたのは、彼にとって出来すぎたことに、先日の毒殺未遂事件が功を奏したためだ。
皇太子ではあるが、ジュストは
父である皇帝は、子には無関心で鉄道の研究ばかりを行なっており、政務においては
ジュストが皇太子の位についたのは、ひとえに当時の皇子を持つ側妃の中でも、彼の母がきわだって孤立無援であったからだ。
皇帝が即位してから五年を数えようとしていた当時、政権の掌握を確かなものにしようとする皇后に欠けていたのは己の子だけだった。
婚姻を結んでから十年がすぎても、皇后に子は
ジュストの兄であった辺境伯家出身の側妃が産んだ
そこで、皇后が目をつけたのは、末の元第三皇子だった。自分にないものなら奪い取ればいい。
それが現皇太子ジュスト・オルトネイル。
それから二年と経たぬうちに実子が誕生したことで、彼は養母にとって、反対勢力のあぶり出しのため駒、そして実子アダルベルトが成人するまでの弾除けとなった。
皇后にとしては、ジュストは『皇太子』という他国への撒き餌。ジュストが外交でヘマすればそれでよいし、あわよくば他国への
けれど、女狐にとって
「母上、ただいま戻りましてございます」
今後五年にわたる運河の通航税の免税と、関税の引き下げ。
皇后の笑みも深くなろうというものである。
たとえ、この密約のために、証拠であるジュストを自国に戻し、かつ、この先五年は生かさねばならないことが決定しようとも、それだけの価値がある。
「殿下のご無事のお帰りを、嬉しく思います。さあ、他人行儀はここまでに致しましょう。ジュスト、もそっと近くにおいでなさい。この母に顔を見せて」
左右に控えていた大臣たちが息を飲んだ。皇太子には御前での帯剣が許されている。
側近くに呼ぶということは、皇太子を信頼しているという無言の主張にもみえるし、あるいは、側近くまで寄せたところで、この皇太子には何もできないという、上下関係を明確に知らしめる行為にもとれた。
皇后派の貴族は気色ばみ、皇太子派は密かに歯を噛みしめる。
むせかえるような赤薔薇の香りが鼻を覆う。いつものように吐き気を意志の力で呑み下したジュストは、差し出された手の前に佇む。大昔に躾けられた通り、従順に待ての姿勢をとった。
「変わらず、精悍なお顔立ちだこと。エマ様によく似ているわ。毒に倒れたとの報告が上がっておりましたが、問題ないようね」
頰にイザベルの手が触れる。柔らかな
額面通りになんて取れるはずがない。イザベルは、人を殺す時ですらこの笑顔を崩さない。
「運良く解毒薬を、薬師が用意しておりました。ほんの少しでも遅れていれば私の命はなかったでしょう。歩くことはできるようになりましたが、未だ、手の先に痺れが残っております。完治するにはまだ時がかかると伝えられました」
「まあそうなの。褒美をやらなくてはいけないわね。いったいどれ
イザベルが人と認識しているのは、彼女自身と、彼女の兄だけ。それ以外は、
不都合なことは上手に隠すこの皇后が、隠す必要があると思い至らないほど、それは彼女にとっての当たり前だった。
「マルタ国の者です。母上のお手を煩わせることはありません」
「残念なこと。アダルベルトが調子を崩しているの。それで本日もジュストに会いたがっていたけれど、来れなかったのよ。優れた薬師であれば助けになるやもしれぬと思うたのに。ああ、どこぞに魔法のような妙薬はないのでしょうか」
「アダルベルトが。それはいけない。巡りの良いことに、マルタから
ジュストの命を救った、自分の意を図れない家臣は誰かと、当のジュストに問い、それをかわされると今度はお前の身辺は全て把握していると暗に示す。
毒に倒れ、未だ療養を続けている皇太子から、彼のために贈られたレキ国秘蔵の薬を捧げさせることで、実子である第二皇子アダルベルトとジュストの序列をつける。
流れるような行いは、全て玉座のため。懐かしさに、ジュストは胸中で
「あら。素晴らしいわ。ジュストはまこと、弟思いの良き兄ね。マルバス、そう思わないこと」
少女のような無邪気な声で、宰相を呼び、いかに皇太子が弟思いで、弟が優秀であるかを語り続けるイザベルの顔を見ながら、ジュストはやはり邪魔だなと、結論付けた。
記憶が覚醒する前のジュストは、表向きはイザベルが作り上げた従順な犬の像を保ち、心のうちでは何物にも感情を持てない青年だった。目の前の玉座の行方どころか、自分の命にすら興味がない、ただの生ける屍。
ジュストの欲しかったものは全て過去か手の届かないところにあって、新しく望んだものは、望んだ端からイザベルに奪われる。長い長いその躾の過程で、ジュストの心は壊死していった。
いずれ皇后が不要と断じるその日まで、便利に使い潰され、最期はアダルベルトの礎となって死ぬ。
実現が約束されたその未来を待つために時をやり過ごす。それに何らの感想も持たないくらい、彼は何の欲求も希望もなく、自らの体を自分のために動かす動機に欠けていた。
けれど今は違う。日本という国で、二十五年。ジュストと似た地獄の中に生きてなお、彼女は感情を捨てなかった。ただ愚直に、人の善を信じ、自分を信じ、芯を曲げずに、他の何が犠牲になろうと、誰にも一番純粋で大事なそこを明け渡しはしなかった。
彼女が守り通した心を、ジュストは得た。——————受け継いだ心が思いを紡ぐ。
会いもしないうちから身を焦がすこの感情の名を、ジュストは知らない。
けれど、未来を望むなら、彼女以外の他の誰でもあり得ないことだけは確信していた。
そして、エンリケッタとの未来を望むなら、皇帝の座は譲れない。彼女が抱える問題を、ゲームの記憶を得た今のジュストが知っているのだから。
再会して、それだけは、よく理解できた。
御前を辞去をして、自室に向かう。猶予は五年しかない。無駄にできる時間はかけらもない。
ジュストが考えることは一つだった。
会いに行こう、ヒロインに。我が愛しの悪役令嬢をこの手にするために。
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