短編「さいわい」

朶稲 晴

【創作小話/さいわい】

獄卒どもの夢のあと。くべる薪は煤だらけ。鈴の鳴々夜道をゆけば、銀漢輝く空に出でたり。そこのけそこのけぽっぽが通る。線路は黒く影なれば、獄卒どもが夢のあと。


スヴァルタはひとり、鉄道に乗っておりました。がたごとん、がたごとん、と揺れる車内にはスヴァルタの他に誰も乗客は、乗客は誰も乗っていないのです。不気味なくらい静です。窓の外をふと見ると、そこにははてしなく寒々しい星々が光ってるのみでした。スヴァルタはらっこの上着をさっとつかみ席をたちました。きっと嫌な夢に違いない。知らない駅でも歩けば家につくはずだ。もう降りてしまおうと、そう考えたのです。がたごとん、がたごとん。絶え間なく波が寄せるようでうまく歩けずたたらを踏んだとき、前方に紺の制服が見えました。

「おや、走行中は危ないですよ。静になされるよう。」

「ごめんなさい車掌さん。それでもおれは降りなければ。」

「終点まで乗っていなさい。どれ、切符を拝見。」

「待てないよ。それにおれ、切符を持っていないんだ。それならはやく降りなければ。」

「らっこの上着はかりそめかな。」

スヴァルタはすっかり困ってしまいました。車掌がいうほどスヴァルタは幼くないのです。しかし大人でもない。だから彼の言う言葉は難しすぎたし、切符を持っていないのはほんとうでした。おれは降りたいんだ。それに切符を持っていない。だからよけいに降りなければ。そう思っているのにスヴァルタは、車掌に逆らえず、座席に着きました。

「よろしい。どれ、切符を拝見。」

「ほんとうに持っていないんだ。おれ、警察は嫌だよ。」

「このくらいで警察を呼んじゃあ、そりゃあ傑作だ。もっと悪い大人はたくさんいる。……失敬。」

車掌はとなりに腰を下ろし、制帽を脱ぎました。ぱらりと目におちた一房の髪をかき上げながら彼は不思議な色の目でスヴァルタをじぃっとながめます。それはどこかでみたことのある色でしたがスヴァルタがそれを思い出すことはありません。

「やっぱり降りようか。」

「いや、そのままでいたまえ。不思議ですな少年よ。わたしもかつては君のようにこの鉄道の乗客だった。だがそれがどれくらい前のことなのか忘れてしまったようなのだよ。」

「車掌さんも、切符を持っていなかったの。」

「わたしは持って……、いや。どうだったかな、それさえも。」

笑う彼の顔に影が射しました。トンネルに入ったのです。その影が、あまりにも、寂しくて。

「スヴァルタ。」

無言でうなずきます。彼の目を、しっかりとみて。

「ほんとうのさいわいは、なんだと思う。」

「ほんとうの、さいわい。」

「そうさ。」

酷薄に笑む彼のかおはやはり痛々しく、スヴァルタは見てられず目をそらしました。しかし彼はそれをとがめることもせず、やわらかなこつこつとした声で続けました。

「ほんとうのさいわいとはなんだろう。お金を得ることか、愛する人を得ることか、空腹を知らないことか。美しくあることか。なんだと思う。」

スヴァルタは首を振ります。その動作はごく小さいものでした。ともすればただエンジンの鼓動に揺れただけかと思うほどに。彼はそれを認めて小さくうなずき返しました。その動作も、ごく小さいものでした。だけどスヴァルタもまた、その動作を、しかとその動作を自分のものと確かめました。ふたりの他にはわからない合図です。

「ねぇ。わたしはね。ほんとうのさいわいを君に見つけて欲しいんだ少年よ。」

「かりそめじゃいけないの。」

「うん。かりそめでもいいんだけどね、是非君には。ほんとうのさいわいを。スヴァルタ。」

車掌は制帽をくるくると指の上でもてあそんでからはたとその動きをやめ、何か考え込むようなかおでぽそりとつぶやきました。

「わたしには、さいわいをつかむことができなかったから。」

くしゃり、手に持った制帽が歪みました。そんなやくざなつくりをしていたのかとか、握り潰すおとなの握力だとか、そんことは純粋なこどもは感じませんでした。ただ、どこまでも、どこまでも自嘲的なそのかおをそれと思わず哀れに、そう。哀れに。こころのどこかで。

「さて。窓の外をごらん。」

ぱっと、彼は立ち上がりスヴァルタの前に移動し、窓を開けました。かしゃん。案外軽い音を立てて開いた立席窓はその光景を黒々と、酷々とぽかりと口をひらきました。

「このさきが少年の帰るべきところだ。」

「なにもないよ。」

「あるだろう。」

「ないよ。」

「あるだろう。それ。」

彼が指差します。けれどそこには四月の夜空が広がってるのみでした。

「乙女座。」

「よく知ってるね。」

「知ってはいるけど、乙女座はおれの帰る場所じゃないよ。おれのうまれは北海道の……。」

言いかけてスヴァルタは奇妙な念にとらわれます。北海道の……北海道の、どこに、じぶんの家はあっただろう。おかしいのです。何かが。ついさっきまで覚えていて、口に出そうとさえ思ってもいたのに、すっかり、思い出すことができないのです。

車掌は顔をしかめます。それははじめてスヴァルタにみせた嫌悪の表情でした。言うことを理解しなくても、目をそらしても、話を聞き返しても、笑顔を浮かべていた彼の顔が。それをみたあわれなこどもはどきりとして、震えました。このときはじめて、はじめに感じていた焦燥の他に、怖いと、むくむくと闇がこころを支配しました。

しかし彼はそんな顔をしたのは一瞬でした。スヴァルタがまばたきをする間に彼のかおは先程の穏やかで痛々しい笑顔に戻っていて、スヴァルタが感じた恐怖の念など吹き飛ぶように、声だけは明るく言いました。

「さあ。私の話に付き合ってくれてありがとう。少年よ。君は帰りたまえ。この乙女座は座標だ。北海道の、北の乙女の胸。君の故郷だろう。」

スヴァルタはハッとします。

「そう……そうだ。北海道の、北の乙女の胸。河口の塞がる川のまち。」

「そうさ。さあ。飛び降りたまえ。」

いつのまにか立席窓は本来開くはずもないほど大きな穴になっており、その底できらきらと二重輝星がふたりで踊っておりました。四月を模したその暗やみに吸い込まれるようにスヴァルタは窓縁に立ち、後ろを振り返りました。

「ところで車掌さん。」

「なんだね、はやく行きたまえ。」

「車掌さんのおもうほんとうのさいわいってなに。」

彼は制帽を左手で脱ぎそれを胸に抱え、右手はゆっくりと額に上げ当て敬礼をしました。そしてぴかぴかの革靴の底をかつと鳴らし揃え、気を付けの姿勢をとり、スヴァルタに向かって叫びました。

「ズ・シュテュアラベン!さよならだ!少年!」


スヴァルタがまぶたをゆっくりと押し上げ目を開くと、そこに見慣れた玄関がありました。おかしいな。おれは今まで何をしていたっけ。なにか、大事なことを、忘れている気がする。スヴァルタは首を捻ってから、まあいいかと吹っ切れて、戸を開けました。

「ただいま。」


獄卒どもの夢のあと。飛び込む夜は星だらけ。汽笛の鳴々土手さんゆけば、父母妹の待つぼろ家に出でたり。そこのけそこのけ吾が通る。いろりは赤く沈なれば、獄卒どもが夢のあと。

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短編「さいわい」 朶稲 晴 @Kahamame

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