ねえ、ちょいと先生ぇ。

 ん? なんだい?

 あたしねぇ、一度は上方見物に行きたいと思っていたんですよぅ。ねぇ、連れてってくださらない?

 上方かぁ、俺もいっぺん行きてぇと思っていたんだが。……よし、それじゃあ面倒臭ぇから所帯は畳んで行こう。

 などと家を売っぱらって金に変えまして、お妾さんと共に上方へと出かけてまいります。そりゃ金があるから贅沢のし放題で……と申しましても、金は使えば無くなっちまう。さて無一文になってみると、元々が惚れてくれた女じゃないから、金の切れ目が縁の切れ目ということで、さっさといなくなってしまいます。男はやれやれと思って帰ってきますが、また医者の看板を掲げれば門前市を為すだろうと思っていますと、どうにも患者が訪れない。医者というのは患者のところに御用伺いに行く訳にもいきませんから、向こうから来てくれるのを待たなくちゃなりません。たまさか声がかかっても、死神がでんと枕元に腰を据えている……。


 何がどうなってこうなったのだろう、と黄蝶は首をかしげた。いつもわたしたちが揃って昼食を食べるその場所に、五人目の彼女が、申し訳なさそうに座っている。聞けば枢李が二人連れのところを、一緒にご飯を食べましょう……と声をかけたのだという。どういうつもりなのか、そしてどんな意図があるのかは知らないが、雲母も黒雪も、そして何より彼女……白い王子様が困惑の表情を浮かべている。

 わたしたち高校生グループに囲まれて、ひどく所在無さげにしているのが、なんとも憐れみを誘うようだった。

 彼女はその外見だけでも人目を惹くのに。中等部の子が、高等部の校舎で昼食を摂っている姿は、逆に可哀想にさえ思えるのだった。

 黄蝶はちらりと枢李に目を向ける。見るとその隣に座った雲母も、枢李に訝しげな視線を投げかけている。

「緊張しないで……という訳にはいかないよね。でもね、わたしたち、ずっとあなたとお話がしたいなって、思っていたの」

 わたしたち、ではなくて枢李が、だろうと黄蝶は思うが、特に口は挟まない。白い王子様が一度黒雪に目を向けた。黒雪はその視線を知ってか知らずか、黙々と定食を食べている。

「ええと、……ん、わたし、中等部三年の結望琴羽と申します。でも、わたしお喋りなんて……」

 そして再び黒雪を見つめるが、黒雪は特に何も言わない。時折黒髪がさらさらとゆれ動くだけだった。

 黒雪も何か言ってあげればいいのに。そう思いながら、黄蝶も助け船を出すつもりはなく、自分のうどんを啜っている。雲母も静観に徹しているようで、声をかけたりはしない。なので枢李だけが一方的に白い王子様に話しかけるという、なんともいびつな空間が出来上がってしまっていた。

 先に食べ終えた黒雪が立ち去ろうとしたときだった。不意に白い王子様を見下ろすと、

「ゆい、口の端が汚れてはるわ」

 そう呟いて、スカートのポケットから取り出したハンカチで、そっと、口元を拭ってあげるのだった。

 わたしたちはその光景を、なんだかとても眩しいものを見るように、ただ、じっと見つめていた。


 すると麹町三丁目で伊勢屋伝右衛門という、当時指折りの金持ちの手代が参りまして、主人がご病気で、ぜひ先生に、と言う。男が喜んで行ってみると、相も変わらず死神が枕元に座り込んでいる。

 あぁ、いけねえ。こりゃだめだ。ええ、折角ですがね、この病人は助からないね。もう寿命がないんだから。

 そこをなんとか先生にお骨折りを。

 お骨折りったってお前ぇ、寿命がないものをどうこうすることはできないんだよ、だめだよ。

 先生、……いかがでございましょう。斯様なことを申し上げては失礼ではございますが、なんとか寿命を延ばしていただけますならば、千両、お礼をいたしたいのでございますが。

 千両……。そりぁねえ、金は欲しいけれども、……寿命のない病人なのだから諦めるしかないよ。

 それではいかがでございましょうか。たとえ半年でも生かしてくださいますならば、五千両……。

 お前さんねえ、金を競り上げたって寿命だって言っているじゃないか。……諦めとくれよ。

 左様でございますか。

 手代はがっくりと項垂れますが、そこにご新造さんが現れまして、今大事な商いを抱えております、二月でも三月でもよろしいのでございますが、主人の寿命を延ばしていただけるのなら、一万両までのお礼を……。

 男はさすがにびっくりしまして、一万両、と叫びます。一万両と申しましてもその価値がよくお分かりになりませんかと思いますが、これは今のお金で換算いたしますと……。


 そろそろ慰問会の演目を決めなければならない時期に差し掛かっていた。秋の文化祭で初めて高座に上がった枢李はレパートリーも少ないので、『子ほめ』にしようと思うのだけど、どうだろう、……と相談を持ちかける。雲母は雲母でお年寄り相手なら人情ものがよかろうと、『子別れ』の下、『子はかすがい』にしようと決めているらしかった。

「二人とも消極的だねぇ」

 と鼻で笑ったのは黄蝶で、それならあなたは何を掛けるつもりなの、と雲母がいささかムッとして訊ねるが、『野ざらし』だというのでわたしたちは全員、あきれて物も言えなかった。あんな難しい話を、よくやる気になるものだ。

「黄蝶らしい言うたら、黄蝶らしいかもしれんけどねぇ」

 黒雪がそう言って、くすくすと笑う。

「そういう黒雪は?」

 背の高い黒雪を見上げるように、枢李が訊ねる。

「うちは……ひみつ。みんなと被らんようにはしておくから。当日のお楽しみ、いうことで」

「そういうわけにはいかないでしょう? 確かプログラムにも載せるみたいよ?」

 黒雪はへえ、そやったんか。と呟くように言い添えて、けれど結局そのときは明言を避けたのだった。それに。

 更に雲母が訊ねようとした、そのときだった。不意に廊下の角を急いで曲がってきた生徒にぶつかって、黒雪が倒れこんでしまったのだ。少女——四組の栗橋さんだった——はごめんね、急いでて、と一声発すると、そのまま走り去って、どこかに行ってしまった。

 栗橋さんがせわしないのはいつものことだけれど、一体何だったのだろう、と顔を見合わせて、黒雪を助け起こそうとしたとき。

 黒雪が倒れているすぐ近くに、何かが落ちているのに黄蝶が気づいた。

 黒い……カラーコンタクトレンズ?

 訝しげに思いながらそれを拾い上げる。そして顔を上げた黒雪を見て、わたしたちは思わず絶句してしまった。


 黒雪の片方の瞳は、薄い、緑色をしていた。

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