居酒屋で

 

「いらっしゃい……あ、おじ……”お兄さん”」

「おい、今のやつ絶対態と言ったよな?」


 夕食を終えた僕は、居酒屋に足を運んでいた。

 居酒屋に行くといつものように、何も変わらないという雰囲気で鈴奈が仕事をしていた。

 その彼女は両手を振りながら笑っている。


「いやいやー、何いってるんですかー。私は態と行っていませんよー?」

「その口ぶりものすごい腹が立つんだけど」

「あははー」


 彼女は誤魔化す様に、笑った。

 メモに書かれていることは間違っていなかった。

 ご飯を食べている途中に感じた胸騒ぎは間違っていたと思った瞬間、胸騒ぎは『はて? なんのことやら』と言わんばかりにスッキリしていた。


「今日も、飲みに来たんですか?」

「まぁ、そんなところだよ」

「もー、あんまり飲みすぎても体に悪いですよ? 成人男性が飲んでいいお酒の量って三百五十ミリリットルって聞いたことありますか?」

「アルコールがってことか? ならもっと飲んでいいよな」

「違いますって、一日に飲んでいいアルコールの量は二十グラムですよ」


 頬を膨らませる彼女は演技に違いない。

 演技というより、通過儀礼の様に感じるその会話を僕は早々に打ち切ることにした。


「わかった、わかったから」

「節制してくださいね」


 居酒屋で働いている人がなにを言っているのだろうか。


「それより、おじさん会員持ってますか?」

「もちろん」

「じゃあ、いいですね。お客様一名様ー! カウンター席にお通ししまーす!」


 鈴奈が店内に向かって大声で言うと、店内にいたスタッフは彼女の声に負けないくらいに大きな声で返事をした。

 鈴奈は僕を席に座るまで見届けた後、厨房の方へと入っていく。


「いよー!」

「いらっしゃいませー!」


 スタッフは鈴奈の合図に合わせて声をあげた。

 この居酒屋の特色で歓迎は全員で行うというサービス精神がある。

 うるさくはいつも感じているが、全力でお出迎えされたと思うと気持ちがいい。


「お兄さん、注文は?」


 鈴奈がメニュー表と、おしぼりを僕のところに置くと初めの注文を聞いてくる。


「じゃあ、ハイボールと枝豆を」

「いつも唐揚げからスタートするのに……珍しいですね」


 ニコニコと笑う鈴奈に、僕はどの口が言うのやらと、思った。


「どこかの誰かに晩御飯作ってもらってね。それでお腹がいっぱいなんだ」

「ほー。なにを作ってもらったんですか?」

「えっとー、確かほうれん草の浸しと、鶏肉のソテーに、味噌汁とご飯だったかな。全部上手くて他の人に自慢したくなったよ」

「くすくす。愛されてますね」

「さぁ、どうだろうな」


 僕は彼女の口角がにやにやと上がっているのを確認した。


「ハイボールと枝豆一つずつー」

「あいよ」


 鈴奈はメモ帳に商品名を書いた後、厨房に声をかけその場を離れた。

 そして一分もせずにハイボールと枝豆が僕の机に置かれる。


「ハイボールと枝豆です」

「どうも」

「いえいえ」


 僕のところに枝豆を置いた人は鈴奈ではなく僕より若いであろう男性だった。

 金髪の頭にツーブロック。ヘアワックスでオールバックに固めたであろう髪型と、たくさん付いているピアスに僕の肝がきゅっと萎縮した。

 ちらりとネームタグを見ると、こいけとひらがなで書かれていた。

 おそらく苗字なんだろうな。初めて見るバイトの人だと思う。もし、前からいると言われたらそれは僕が他人に興味がないからだ。何故ならば、僕は彼女のネームタグを見たことがないから。

 枝豆を一つ、つまんだ僕は鞘を強く押しこむ。すると弾け飛ぶ様に僕の口腔へと飛び込んできた。

 ここの枝豆は冷凍物ではなく、ちゃんと一から茹でている為、鞘もしっかりしている。

 確か店長が畑を持っていて、その野菜を持ってきているとかなんとか。

 店長の枝豆はどれも、しっかりとした大粒の豆で、茹で時間も的確。そのため豆のホクホクとした食感が絶妙だった。

 ただ、今現在僕はとても居心地が悪い。何故ならば、僕の食べている横で こいけ君がじっと僕を見ているからだ。


「……」

「……」


 じーっとこちらの様子を伺う様に見つめているその瞳は、例えて言うなら野獣の瞳だ。

 睨みを効かせるだけで今まで酔っ払っていた人を酔から覚ますことができる様なその視線に僕は戦々恐々としていた。

 じっと見つめられている僕は、いつしか枝豆に手を伸ばすことをやめていて、ただ視線を合わせちゃいけないと言う気持ちでまっすぐ厨房の方を眺めていた。

 しかし運が悪いのか、今この時間は忙しいらしく、厨房には誰もいなかった。

 つまり、救いの手は一切ない状況。まるで蛇に睨まれたカエルの様だった。

 そんなことはどうでもいい! 誰か助けてくれ!


「……おっさんって」

「ひゃい!?」


 素っ頓狂な声をあげた僕は彼をものすごい勢いで見た。


「……ははは、おっさんビビりすぎ」


 多分、僕のこの行動がツボに入ったのか彼は腹を抱えて笑っていた。

 というか、おっさん……まぁ、アラサーだからさ? 仕方ないけど、おっさん……。

 やっぱり彼からしたら僕はおっさんに見えてしまうのだろう。


「あぁ、すんません。俺、こいけっていいます。小さい池で、小池っす」

「アァ、ドーモ。コイケ=サン」

「なんでカタコトなんすか? 気持ち悪いっすよ」


 まぁ、しばらくの間焼き切れるかと思うくらいに見つめられていたら誰でもこんな反応するよ。

 僕は喉を潤すためにハイボールを半分ほど飲んだ。


「……で、その小池君? でいいのかな? 僕に何の用ですか?」

「いえ、なんというか……彼女とすごい仲いいなって思って……」

「……彼女?」


 はて、誰のことやらと、僕は思っていると直ぐに理解をした。

 鈴奈の事だろう。


「あぁ、彼女か。彼女は一年くらいの知り合いだよ。彼女の卵焼きが大好きで足を運んでいるんだよ」

「そうなんすね。たしかに彼女の卵焼きは上手だと思うっすよ」

「お、奇遇だね」

「前に賄い料理で食べたことあるんすよね。あんなに綺麗な卵焼きが出た時、俺感動したんすよ。ここまで完璧な卵焼きができるんだって」

「わかるよ」


 ここで、彼女の卵焼きファンができて少しだけ嬉しかった僕は、枝豆を口に運んだ。


「じゃあ、おっさんと彼女は恋人とかじゃないっすよね?」


 前言撤回。あまりにストレートな発言に喉に枝豆が入ってしまい、咳き込んでしまった。


「なに……を……」

「彼女、さっきまで黙々と仕事していたっすよ。だけどおっさんが顔を出すなりぱぁっと明るくなったんすよ」

「……」


 あの彼女がさっきまで元気がなかった? それは一体どうしてなのだろう?

 小池君は黙っている僕をじっと見つめていた。


「おっさんは見るからしてアラサーですよね。三十にはいかないけど、二十八とかそこらへんに感じるっす。対して、彼女は明らかに二十歳ではないっす」


 だいたい正解だった。


「そのことを考慮すると、おっさんと彼女は十違うことになるっすよ。それは事案ではないっすか?」


 事案。未成年と大人がホテルやらなんやらに入ることは違法だとかなんとかのことだろうか?


「……さぁ、どうだろうね? いまのご時世、同意の元ならそういうのはないんじゃないのかな?」

「その言い方だと、おっさんは彼女と付き合ってることになりますけど」

「そういう風に言わせるような強制力が君の発言にあるよ?」


 確かにそうっすね。と小池君は認めた。


「だけど、同意であれなんであれ……それは他者の理解がなければだめだと思うっす」


 確かに……そうだけど……。


「おっさんは、彼女のなんなんですか?」

「……ただの客と、店員さ」


 僕は、彼の質問の答えを持っている。

 だけど、その答えを言うにはまだ僕は早く、言うことができなかった。

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