名前を呼んで

 

「……え、これ全部作ったの? レトルト食品とか持ってきてないよね?」

「なにをいってるんですか。私が買ってきたような素振りありましたか?」


 鈴奈にご飯だと起こされた時刻は十一時半になろうとしていた。

 昼ごはんには丁度いい時間で、少し眠っていた僕の空腹は最高潮になろうとしていた。


「いや確かに……もしかしてさ、食品サンプルではないよな」

「むー、そんなことまだいうんですか? ならお兄さんにあげるものはありません」


 目の前にある料理がそう見えるくらいに綺麗だった。

 目の前にあるのは、味噌汁と、白米、それに煮物と、ほうれん草の浸し、そして僕が所望した卵焼きだった。


「残りは全部冷蔵庫に保管してあるので、夕飯はこのままですけど、まぁ、煮物とかほうれん草はそのために買ってきましたし」

「作り置きってやつか?」

「え? まぁ、そうですね。お兄さん作り置きとかダメなひとでしたか?」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」


 それを見越して買い物をしてきたと思うと、彼女の家事スキルは相当なものだなと思ったのだ。


「卵焼きは、卵焼き用のフライパンがなかったので楕円形になっちゃいましたが……ちゃんと巻いてありますよ?」

「え、円形でもできるのか!?」

「まぁ、私くらいになればそれくらい……」

「すげぇ。本当すごいな」


 思わずべた褒めしてしまう。それくらいに彼女の技術がすごいと僕は思った。


「やめて、……ください。恥ずかしいです」

「いや、本当すごいって。すごいよ」


 彼女は視線を泳がせ、なんとも言えない顔をしている。


「もう、褒めたってなにも出ないんですから」


 彼女はぷいっと背を向け、顔が真っ赤なのを隠そうとしているが、耳が真っ赤になっているぞ。鈴奈よ。


「早く食べますよ!」

「お、おう」


 話を切るように彼女は自分の席に着くと、パチンと手を鳴らした。

 僕は箸を手にすると、まずは卵焼きの端を摘み口にした。


「……! 美味い」

「そ、そうですか」

「うん。居酒屋のあの卵焼きだ。すげぇ美味しい」


 前歯でかみ切ると、薄く焼いていった卵の膜を一枚ずつ切れていくような食感がある。

 そして、居酒屋特有の塩っ気があるけど砂糖による甘さを引き立てる味に舌鼓を打った。

 感動する。


「褒めてないで早く食べてください」

「褒めないで食べることなんてできないって。本当美味しいもん」


 そもそも、あの居酒屋に行くようになったのはあの居酒屋の卵焼きが美味かったからというのが理由だったりしてるわけで。


「君ってさ、あそこでずっと働いていたのか?」

「いえ? 一年ちょっとですけど……」


 僕があそこに行き始めたのもその時期だ。

 ちょっとした運命だな。


「お兄さんはいつからあの店に行き始めたんですか?」

「僕も、君と同じくらいの時にあそこに行ったんだ」

「へぇ、そうなんですね。あれですか? 外食ばかりで、行き先がなかったからフラフラとあの店に入ったんですか?」

「まぁ、そうなんだけど、なにその浮浪者みたいな言い方」


 彼女はクスクスと笑った。


「だって、始めてお兄さん見たときの姿といえば……上下ジャージ姿の、ボサボサの髪に、無精髭ですもの。最初店長にマークつけられていたの知ってましたから」

「え、まじか」

「ハイボールばっかり頼んでグデングデンで、最初揚げ物ばっかり食べてたんですから」


 全く、へんなお客だなーって思ってました。と彼女はそのときの感想を述べる。

 僕、そのときの記憶あんまりない……なんで、そんなに僕のことを知っているんだろう?


「途中から、お兄さん気が狂ったかのように卵焼き頼み始めて私の休憩時間なくなったんですからね」

「……」


 思い出しながらぷりぷりと怒る彼女に僕は俯き、視線を外した。


「あれ、お兄さんどうかしました?」

「いや、なんか……」


 この気持ちはなんなんだろう。胸のあたりが痛い。


「お兄さんを別に馬鹿にしていませんよ? 大丈夫ですから! お兄さんの思い出話をしてるだけなんですから!」

「……」


 畜生、恥ずかしい。

 彼女は慌てた表情で僕の様子を見ていた。僕はぷっと息を吐き漏らした。


「大丈夫だよ。なんか、面白くって」

「まじでしまですか?」


 いやだから、なにその返事は。

 バカにされた感じがしてあまり好きじゃないな。それ。

 僕はもう一度卵焼きを食べる。

 彼女の卵焼きはやはり美味い。何度も噛みしめるように食べた。

 一人の時より、もっと美味しか感じるのは多分。目の前にいる彼女がいるからだろうか?


「……ずっと、居たらいいな」

「え? なんか言いましたか?」


 ぼそりと呟いた僕の言葉を反応した鈴奈は僕に再度言うように促してきた。


「いや、ご飯作ってくれてありがとうってさ」

「……いえ、これくらい当たり前ですよ」


 彼女はニコリと笑った。

 麗奈を中心にふんわりとした空気が漂ってくる。

 これがいわゆる幸せオーラというものなのだろうか。


「そうだ、お兄さん。ちょっと物申したいことあるんですけど!」

「びっくりさせないでくれよ。びっくりしたじゃないか」


 鈴奈は思い出したかのように声を荒らげて、左手に持っているご飯が入った茶碗を机に置いた。


「お兄さん、今日一回も私のこと呼んでないです」

「呼んで……いや、呼んでるじゃないか」

「全部、じゃないですか。私はキミという名前じゃないですよ!」


 確かに考えてみると、僕は彼女の名前を一度も読んでいない気がする。


「でも、別に名前言う必要あるか?」

「ありますとも! なに言ってるんですか? お兄さん。この名前……鈴奈はお兄さんがつけてくれたですよ? その絆を言わないなんておかしいです」

「そうかなぁ」

「そうですよ。だから早く言ってください」


 胸を張って僕の口から言われる彼女の偽名を待ち構える。


「……」

「どうしましたか? 私の名前を忘れましたか? まさかお兄さんは若年性アルツハイマーだったりしますか?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……」


 尻込みながら呟く。


「もー! いうだけじゃないですか!」


 鈴奈は詰め寄ってくるなり僕の上に馬乗りになった。


「ほら! 言ってください! 言わなければ……犯しますよ?」

「わかった! わかったから!」

「何でそこで全力で逃げるんですか? お兄さん、年下の女の子に襲われたら本望じゃないんですか?」

「本望じゃないし、今後のことを考えたら……」

「なに、紳士ぶってるんですか。男性はみんなケダモノでいなきゃ子どもできませんよ。これだから少子化問題とか言われるんですよ」

「多分違うよ。それ」


 男性の性欲が下がったんじゃなくて、給料が全然ないからだと思う。

 鈴奈の手が僕の胸ぐらを掴んだ。両手でがっちりホールドするなり、前後に振り回した。

 首の関節がぐちゃっと生々しい音が聞こえた。


「そんなことを話しているわけじゃないんです! 私の! 名前を! 早く! 呼ぶのです!」

「あぐっ!? 首! 痛いから! やめで!」


 首を揺すられるのをやめてくれた彼女の目が充血している。

 やばいこれは完璧に怒ってる。

 僕は、喉に引っかかる咳を一つする。

 冷や汗が頬を伝うのがわかった。

 心臓が大きく揺れている。それはきっと、僕の目の前に彼女がいるから。僕の体を馬乗りになって彼女がいるから。

 僕の部分的にデリケートな部分に彼女のお尻があるからだ。

 彼女を直視できなかった僕は小さく、彼女の名前を呼んだ。


「……れ、鈴奈」

「……」


 黙ったままだった。

 聞こえなかったのだろうか。僕は恐る恐る彼女を見た。


「……〜〜〜っ!」


 顔を真っ赤にして、今にも溢れそうな幸せを抑えようとしている。


「……君」

「鈴奈です!」

「鈴奈、ちょっとどいて欲しいんだけど」

「ダメです。お兄さんは私の座布団がわりになって、私のお尻や足の柔らかさを堪能してください」

「そんな御無体な……色々とやばいんでやめてくれませんか!」

「ダメです! むぎゅぅー!」


 子供っぽくなった彼女は僕の首に巻き着くように抱きついてくる。


「ちょ! まって! 色々ほんとやばいから! 理性とか!」

「いっそのこと、私を抱いてもいいんですよ!?」

「いやダメだろ! 倫理的に!」


 個人的には頭の中の理性をいまにも手放しそうだった。


「じゃあもっと名前呼んでください!」

「呼んだらどいてくれるの?」

「ダメです!」

「どうしたらいいんだよ!」


 結局、鈴奈が落ち着くまで僕は抱きしめられたままだった。

 理性を最後まで手放すことをしなかった僕を本当褒めて欲しいものだ。

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