野良猫

 

「ただいま」

「お帰り」


 鈴奈に返事をすると、先に家に入っていた彼女はくるりと振り返るなり満遍の笑みを作り僕を見つめてきた。

 何かの言葉を期待しているようだった。

 彼女の求めている言葉はだいたい予測はできるが、あまり言いたくなかった。

 その言葉をいうのは久しくなかったし、それに恥ずかしかったからだ。

 彼女はそこから一歩も動かない。つまり言わなければ入れさせてもらえないということだ。

 僕の家なんだけどなぁ。

 僕は恥ずかしそうに頬を引っ掻いたあと、ぽそりと呟いた。


「……ただいま」


 聞こえるか聞こえないかくらいに小さい言葉に彼女は嬉しそうな顔をした。


「おかえりなさい。お兄さん。ご飯にしますか? お風呂にしますか? それと……」

「ご飯にしようかな。お腹すいたし……」


 僕は鈴奈の新妻テンプレートを遮るように返事を繰り出しながら彼女の横を通り過ぎ、キッチンに向かった。

 その行動に彼女はむー……、と頬を膨らませていた。

 買ってきた荷物は、スーパーの袋三つでそれらは全て袋いっぱいに入っている。


「はー、重たいな……」


 久しぶりにこんな大量の買い物をした気がする。

 あの時の荷物はたしか布団一式だから大量というよりただかさばるだけの荷物だから大量ではない。


「お疲れ様でした。お兄さん。お願い事ですが冷蔵庫に入れていくので牛乳からもらってもいいですか?」

「はいはい」

「はい、は一回って言われませんでしたか?」

「……はーい」


 僕はスーパー袋から牛乳を取り出し彼女に渡すと順番にしまっていく。

 僕はしゃがみ冷蔵庫に入れていく彼女の後ろ姿を見つめた。カーゴパンツとシャツの後ろ姿、腰のあたりの白い肌と彼女のピンク色の下着がちらりと見える。

 顔を横に振った。


「お兄さん?」

「ん……なんだ?」

「荷物くださいよ」

「あ、あぁ、そうだな。悪い」

「どうかしたんですか? 歯切れが悪いですよ」

「卵でいいよな?」

「あ、はい。お願いします」


 スーパーで買ったものは……卵、ほうれん草、小松菜、半分にカットされたキャベツ、トマトに、きゅうり、生姜、あとは調味料と、鶏モモ、豚の細切れと、明らかに一日で処理できるような量ではなかった。それらを彼女が収納した後、冷蔵庫の扉を閉めると今度は流し台の下の扉を開けて調味料をしまっていく。


「お米は……あと半月は持つかな。無くなったらまた今度買いましょう。お兄さんは力があるので」


 鈴奈は今後の買い物について呟いている。

 彼女の生活力に脱帽していると、急に違和感を感じた。


「……そういやさ君、いつまでここにいるつもりだい?」

「え? ずっとここにいるつもりですけど?」

「……」

「……?」


 お互い固まった。空気も固まる。

 僕らの周りだけ、氷のように、時計の針が止まったように、停止した。

 おかしい。どこか意思の疎通ができていないところがある。


「や、まった。今更だけど確認していい?」

「はい。どうかされましたか?」


 僕は目頭を押さえ、質問し始めた。


「君は、僕の家に泊まりにきたんだろ?」

「はい」


 鈴奈は一言で返事をする。


「長くいるつもりはないんだろ?」

「いえ? ずっといるつもりですけど」

「どうゆう意味だ?」


 泊まりに来たけど、ずっといるつもり……。

 つまり。それは……簡単に言うと……。


「私はあれですよ。お兄さんの同棲相手みたいな……?」

「ど、……!?」


 彼女ができたことがない僕に、知らない間に同棲相手ができていた。


「え、お兄さんはそのつもりじゃなかったんですか?」

「どこからどのようにして一緒に暮らすつもりになったんだよ」


 それを匂わせる内容なんて一言も言ってないぞ!

 彼女は両手を胸の前で握り拳をつくった。


「え、だって、言ったじゃないですか。『お兄さんの家に住まわせてくれませんか?』って」

「……いつ?」

「会った時ですよ。お兄さんは渋々ながら承諾してくれました」


 え、僕そんなこと了承した……いや、確かにそんなこと言われた気がする。


「にしし、お兄さん契約書とか読まないタイプですよね?」

「この……!」

「お兄さん。もし手をあげたらどうなるか……わかりますよね?」

「……」

「未成年女性誘拐、暴行、そして淫交事件ですよ?」


 まさか、僕は彼女のいいように操られていたのだろうか?

 クスクスと、鈴奈は笑った。


「まぁまぁ、お兄さん、安心してください。悪いようにはしませんので」

「君が言うと嘘くさいんだけど」

「あれ、信用無くなった感じですか?」


 勿論だ。大人を騙して自分の住みやすいようにするなんて野良猫でもなんでもない。


「じゃあ、お兄さん。とりあえずあっちで座っててもらえませんか? ここにいるとご飯の邪魔なんで」

「まて、話がまだ……!」


 途端に鳴り響く空腹音。

 それは彼女の音ではなく、僕の腹部の音だった。


「お兄さん。お腹空いているから苛立っているんですよ。とりあえずご飯食べてから話しませんか?」

「……あぁ、もうわかったよ!」


 僕は投げやりに答えたあと、キッチンから出た。


「あ、牛乳飲みます? 苛立っているときはカルシウムとるといいんですよ?」

「いらない!」


 僕はベッドに体を預けた。

 二度と呼吸をする。

 彼女の鼻歌が聞こえると、冷蔵庫の開閉する音と、まともに使っていない包丁の音が聞こえた。


「……はぁ」


 なんでだろうか……。

 心の隅っこで安心している僕がいた。

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