12
車の助手席に寝かせられた彼女の首には、手で絞められたような跡がくっきりと残っていたらしい。
事件のことはマスコミにも大きく取り上げられた。劇団の紹介記事を書いたことで、わたしのところにまで取材の申し込みがあったくらいだ。わたしは警察の事情聴取まで受けた。
でも、わたしはそのときのことをあまり記憶していない。事件があったあとの一年ばかりのあいだの記憶が、とても曖昧なのだ。
露は、あなたは酷い有様だった、と言って、多くを語ってくれなかったから、それがどれほど酷かったのかさえ、わたしにはわからない。
最初は涙も出なかった。そのあとはずっと、泣いて過ごしていたらしい。何も手につかず、食事も喉を通らなかったのはぼんやりと覚えている。アパートを出ることもせずに、無為に一日を過ごしていたことも。わたしの胸の中にはどろりとした黒い液体が詰まっていて、息をすることすら困難だった。
わたしが殺した。
夕紀さんを死なせたのは、わたしのせいだ。
その事実に耐え切れず、わたしの精神は焼き切れてしまった。
何度か彼女のあとを追おうとして、その度に露に止められた。でも、止められなくても、わたしに完遂できただろうか。ちゃんと死ぬことができただろうか。きっと無様に生き残るのは一緒だっただろう。だから、そのうち積極的に死のうとすることさえやめてしまった。そのときのわたしは虚無の塊のような存在だった。命を持て余しているだけのひとでなしだった。
「あなたが死んだら、わたしはどうしたらいいの」
あるいは露が、ある夜に泣きながらわたしの頬を強く、何度も叩いてくれなかったなら。もしかしたらわたしの目が、薄皮を剥くように生きることに向かって開かれることは、なかったのかもしれない。
「……お願い。生きて。わたしと一緒に生きて」
露は泣きながら肩を震わせていた。妹がこれほどまでに泣いているのを見るなんて、いつ以来だろう。中学生の頃? それとも……小学生の頃だろうか。
露はおもむろにわたしの服を脱がせながら、わたしがあなたとずっと一緒に居る、霞のことが好きよ、大好きよ、許してくれなくてもいい、こんなことしかできなくて、本当にごめんね。そう言って、そして彼女のやり方で、わたしを慰めてくれた。
それはただただ気持ちよくて、その優しい指を、情熱的な唇を、甘美な毒を、わたしは拒むことができなかった。女同士で、しかも姉妹で、こんなことをしているわたしは地獄に落ちる。絶対にそうなる。でも、わたしたちにはそれしか縋るものがなかったのだ。
……彼女も、あるいは兄の征爾もそうだったのだろうか。彼らも近親相姦の甘くて苦い味を、知っていたのだろうか。でも、でも本当にそうなら、そうだったなら。
もうすぐ死ぬ。二十歳になるまでに死んでしまいたい。
全部……わたしと過ごした時間は全て、彼女のSOSっだったのではないか。もっと、ずっと早く、気付いてあげられていたら。そうしたら。
——夕紀さんが征爾とどんな関係だったのか。
憶測はいくらでもできた。現に週刊誌やテレビでは、まるでわたしの妄想を裏付けるかのように、面白おかしく騒ぎ立ててもいた。でも、事実なのかそうでないのかわからないあやふやな情報なんて、見たくもないし聞きたくもなかった。知りたくなかった。本当の、真実を知ってしまったら。わたしは再び壊れてしまう。だから情報は全てシャットアウトした。それでもどこからか漏れ聞こえてくる。見たくもないのに目にしてしまう。世界がわたしに吹聴しているのがはっきりとわかった。わたしはずっと家に引きこもっていた。露の勧めもあって翻訳の仕事を再開し始めてから、実はまだ半年と経っていない。
もう、芝居と関わることはなかった。
どんな舞台を観ても彼女を思い出してしまうから。それにわたしは演劇という小さなコミュニティーの中で、忌避されてしかるべき人間となっていた。オファーがないのでレビューだって書きようがない。それで誰かが困るということもない。わたしの代わりなんてこの世にはいくらでもいるのだから。忘れられていく者に、誰も興味なんて持たない。
そして。
……気づいたときにはわたしの頬の上から、黒い鳥までもが消えていた。
あなたもわたしを置いていなくなってしまったのね。
頬に手を当て、小さな声でそう呟くと、自然と涙が零れた。元夫の暴力によるあんな痣ですら、夕紀さんとの絆のように思えてわたしには愛おしかったのだ。
わたしは痣の消えた頬を静かに撫でた。夕紀さんとの繋がりが何も無くなってしまった。それでも未練がましく、時々、夕紀さん、と。その名を口にしてみた。その度に甘い痛みが胸の傷に沁みた。その度に苦い涙が頬を伝った。
後悔は後で悔やむと書くけれど、わたしはもっと、彼女といろいろなところに行ってみたかった。……出かけてみたい気持ちはあるんですけど、目が不自由なこともあって、出不精なんですよ、そう苦笑していた夕紀さんを、もっと、もっと、いろいろなところへと連れ出してみたかった。
たとえ目が見えなくても、果物狩りならできただろうか。旬を迎えたさくらんぼやいちごを、彼女は喜んで食べてくれただろうか。ふたりで海へ行ったなら、潮風を感じることはできただろうか。彼女は魚介類が全く食べられなかったから、もしかしたら不機嫌になっていたかもしれないな、なんて。
馬鹿なことばかりを考えてしまう。
それでも、傷は少しずつ癒えていってしまう。わたしが望むと望まないとに関わらず。時間はわたしの体を、心を、魂を、元に戻していく。ゆっくりと、けれど確実に彼女との記憶は薄れていく。思い出に蓋をして、なかったことにしてしまう。それがたまらなく嫌で、でも、どうしようもなかった。
いつしかわたしは日常の中で、彼女を思い出さなくなっていた。彼女の名前を口にしても涙を流さなくなった。それなのに。
不意に夕紀さんは、わたしの夢の中に現れる。彼女との思い出を、引き金にするようにして。今日もそうだった。夢はとてもとても、リアルだった。
「あの子ね」
こんな話をしたらお互いに嫌な気分になるのはわかっているのに。わたしはどうしても、喋ってしまう。心の内を吐露してしまう。露の裸の胸から香る、桃の匂いに誘われるように。だからもう、このボディークリームは捨てなければならない。
「自分は二十歳までに死んでしまうと、いつも口癖のようにそう言っていたの。本当に、死んじゃったのね。もうどこにもいないのね」
露がわたしの髪を撫でた。ベッドの中で、汗をかいた体をそっとわたしに這わせたまま。わたしは露の手で愛撫されながら、
「ごめんね。こんなことを言っても、どうしようもないってことくらい、わかってる。あなたにもひどいことをしているって、わかってる。それでも、それでも、……あの子が本当に好きだったのよ」
ぽろぽろと泣き続けるわたしを、深い憂いを帯びた目で、露が静かに見つめていた。その眼差しはけれどわたしを恨んではいなかった。哀れんでいるだけだった。
露が冷たく湿った指先を伸ばし、わたしの手を握った。夜が明けたばかりで外はまだ暗かった。夜半からは細かな雨も降っていた。しとしとと、そぼ降るように、六月の雨が街を濡らしていた。近くの通りを走る車はしゅうっと音を立てて、どこかへと遠ざかっていく。
どのくらいそうしていただろう。
わたしに左手でそっとテッシュの箱を差し出しながら、露があくびをした。
「お腹が空いたわ。マック行こうよ」
朝の誰もいない神社でエッグマックマフィンを食べ、二人で傘をさしながらアパートに戻ると、玄関先で一匹の猫が小さく丸まっていた。見覚えのある柄に思わず息を飲み、わたしは、
「綺色なの?」
と震える声で問いかけた。
猫はわたしを見て、足に擦り寄り、うなーと鳴いた。わたしの隣で露が、そんな、嘘でしょ、と目を丸くさせていた。わたしは彼を抱き上げた。そして、腕に抱き、頭の匂いを嗅いだ。日を浴びた小麦のような、懐かしい匂いがした。思わず涙が零れた。
でも、その猫は綺色じゃなかった。
その猫は雄ではなく、雌だったのだ。
それでも、その猫はわたしの猫だった。
決して手放してはいけない、何かだった。
「毛並みがいいし、迷い猫かもしれないよ」
露にそう言われても、今抱いている猫を手放すなんて、わたしには考えられなかった。けれどそんなわたしのわがままに、あなたの猫がいなくなったとき、どれだけ心配していたか自分でもよく覚えているでしょう。それと同じ思いをしている人がいるかもしれないのに、駄目よ。可哀想だわ。露がわたしを窘める。そう言われてしまえば、納得せざるを得なかった。
わたしたちは迷い猫の張り紙を作り、近くの動物病院に貼らせてもらった。区に届出をして、猫を探している人がいないか確認をしたりもした。けれど、一ヶ月経っても二ヶ月経っても、そんな人は現れなかった。区や動物病院からも音沙汰はなかった。そのような経緯を辿り、彼女は正式に我が家の猫となったのである。もともとペット可のアパートだったのは、今にして思えば本当に幸いだった。
「ちゃんと名前をつけなきゃね」
露が彼女の喉を撫でながら、楽しそうにそう言った。露は二ヶ月も一緒にいるのに、猫、猫と呼んでいた。わたしにしたところで情が移るといけないと思い、今までは、にゃあちゃん、にゃあちゃん、と呼んでいた。けれど、今日からは違う。わたしたちの猫になったのだから。
「もう決めてあるの」
わたしは言った。
「雨と書いて、ユィ。それがこの子の名前」
そう、それが猫の名前。だって。
夕紀。そう呼ぶには、彼女との思い出が深すぎたから。
澪。と名付けるには、彼女の舞台での姿が激しすぎたから。
ルカ。と口にするほどには、彼女のことを知らなかったから。
だから。わたしはわたしの猫に、「
ネットに小説を書いていた、夕紀さんと笑い合っていた雨というわたしは、もう、どこにもいない。
わたしはやっと、夕紀さんとともに、もう一人のわたしである雨のお葬式をすることができたのかもしれない。
甘い痛みを引き受けた雨は、綺色とそっくりの蒼い目でわたしを見上げながら、うなーと鳴いた。
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