10
男は電話で
会ってみると舞台映えのするなかなかの美男子だった。本業は演出らしく、苦労が顔に出るタイプで頭部には白髪も多かったが、年齢を訊ねるとまだ二十六だという。ふちの厚いウェリントンの眼鏡をかけた、痩せた男だった。それに。
眼鏡の奥の目元に、彼女と同じ血筋を漂わせていた。
「
互いに名刺を交換し、握手を交わす。そしてわたしの手の甲にそっと唇を押し当てる真似をする。その仕草もなかなか堂にいったもので、なるほど、舞台俳優なのだと思わされた。端正なそのマスクと笑顔は、どこまでも爽やかだ。
「あなたの指先から甘い藤の香りがする。確か藤の花言葉は、恋に酔う、でしたか」
そこでやめておけばよかったのに。
「失礼ですが、左手の薬指に指輪の跡がありますね。それもここ最近は常に外しておられたみたいだ。僕に会ってくださるためにわざわざ外したわけではなさそうなのが、少々残念ですね」
「さすがは名探偵明智小五郎。舞台の下でもその洞察力はいささかも衰えず、といったところかしら」
わたしは小さく笑って見せたが、内心ではムッとしていた。これがリップサービスだと思っているのなら、とんだお門違いだ。ただ、わたしの痣については一切触れない。不躾な視線をその上に這わせることもない。彼がわたしの容姿をどう思っているのかわからないが、そのことに関してだけは、評価してもいいかもしれない、と思った。
わたしの黒い鳥は怒りの翼を休めたまま、今はまだ静かに、頬の上で眠っている。
男とは西麻布のバーで落ち合った。わたしが仕事で使っている青砥という名前は、わたしの旧姓だ。名刺の上では下の名もひらがなに変えていた。だから、たとえ彼女にその名が少しくらい伝わったとしても、わたしとは結びつかないだろう、と思っていた。夕紀さんにとってのわたしは、あくまでも雨なのだから、と。
「それほど大きな記事にはならないし、どれだけの影響力があるかなんてわかりませんが、今度のお芝居のための一助となれたら嬉しいです」
わたしがそう言うと、男は苦笑を浮かべた。
「謙遜なさらないでください。それに取材を受けるなんて初めてのことだから。こちらも何から話していいものか、よくわかっていないんです」
緊張もしていますしね。そう言って、征爾は笑った。
店を変えたとき、ICレコーダーはすでに準備していた。わたしにしたところでレビューを書くことは今までにも幾度となく経験していたけれど、インタビューには慣れていない。勝手がわからないというのなら、こちらだってそうなのだ。
「では、まずは劇団の特徴などがあれば教えてくださいませんか」
「そうですね。うちは歌とダンスがメインで……というと明るくて楽しいミュージカルをイメージされるかもしれませんが、実際は全然そんなことないです」
「というと?」
「今回は『黒蜥蜴』をかけますが、あれだってあまり明るい芝居とは言えないでしょう?」
「そこは演出次第ではないかしら。ミュージカル風の『黒蜥蜴』と言いますと、お芝居よりも、カルトな映画がありましたね。主演は確か」
「京マチ子。へえ、あの映画をご存知とは、いや、恐れ入りました。今回の舞台は、あの映画版の『黒蜥蜴』に触発されたんです」
そう言って、征爾はにっこりと笑った。わたしがその映画を知っていたことがよほど気に入ったらしい。その後も舞台装置のことや演出のことなど、事細かに語ってくれた。退廃と憂愁、それが我々の劇団、『月の庭』が目指す舞台なんです。
最後に、とわたしは区切り、一番聞きたいことを訊ねた。
「劇団の主演女優についてお訊きしたいのです。今回はどのような方が黒蜥蜴を演じるのでしょう」
「
……妹。わたしのペンが、一瞬止まった。
「十九歳なので黒蜥蜴役としてはまだ若いのですがね。乱歩の原作でも三十路と書かれていますし。けれど小説の中では振袖を着たり早苗に化けたり、僕と言って男装をしてみたりするでしょう。だからまるで年齢を掴めない印象の女性を演じられるよう、演出したつもりです。もっとも妹は」
そこで征爾は一度口ごもり、目を泳がせた。
「目が見えない?」
わたしは言った。
征爾は知ってらしたんですね、人が悪い、と笑った。
「いえいえ、そんな。割と有名な話だそうですね。インタビュー前に少しだけ調べさせていただきました。なんでもあなたは、彼女の……妹さんのためにこの劇団を作ったのだとか。それは本当のことなのですか」
本当ですよ、と征爾は言った。わたしは目の前の男に気づかれないように、小さく唇を噛んだ。
以前、夕紀さんが夜の碑文谷の公園で、
〝わたしみたいな障害者でも受け入れてくれる劇団がすぐ近くにあって、本当に良かったと思っています〟
と言っていたのを思い出した。
けれど、どうやら違っていたらしい。ただわたしには彼女がなぜそんな言い方をしたのかが、わからなかった。あの日の夕紀さんはわたしに全てを見せようとしてくれていた。わたしにはそれが痛いほど伝わってきた。ならばなぜ、所属する劇団についてだけ、本当のことを言ってくれなかったのだろう。
そこに、何かがあるのだろうか。わたしの知らない何かが。知らせたくなかった何かが。それとも征爾の語るそれらの話は、劇団を売り出すためのただの方便なのだろうか。そうでなければたかが小劇団の噂が、ネットに流布していることに対して説明がつかない。
「網膜の遺伝性の病気です。そこまでご存知ですか」
「いえ」
「澪の病気は現在のところ、治療法もありません。今はまだ、光を感じられる。照明やスポットライトに顔を向けることができる。けれどいずれ、それさえ叶わなくなるかもしれない。あんなに才能がある子なのにね。僕にはそれが許せなくて。それで」
「妹さんのための劇団を?」
「……それだけじゃないですけどね。僕自身、芝居をすることも劇の演出することも好きでしたから。それに打算がなかったわけでもないです」
「打算、ですか」
「ええ。あの子なら僕らに見えない、その先の世界を見せてくれると思ったんです。それに、……目の見えない女優が演じる舞台。客寄せになるとは思いませんか?」
一瞬、目の前が真っ赤に染まった気がした。わたしは自分が怒りに震えていることにさえ気づかなかった。夕紀さんをそんな風に見る人がいることが、許せなかった。しかも、それが、実の兄だなんて。
「……冗談です。そんなに怖い顔をしないでください。あくまでも劇団の宣伝のために、そう吹聴しているだけですから」
「芝居を続けていくことは大変です。特に小さな劇団であれば、なおのことそうでしょう。綺麗事だけでは食べていけないことだってわかります。わたしも、……どちらかといえばこちら側の人間ですもの」
今日はありがとうございました。原稿は一度ファックスでお送りしますので、訂正箇所の確認をお願いします。わたしがそう告げると、征爾は黙って立ち上がり、静かにわたしの手を握った。病気のことまで語ってみせたのは、あるいはわたしにまで憐憫を誘うためなのか。
この男に、夕紀さんとの血のつながりがあるだなんて。
そう思うとわたしは彼が触れたこの手の熱にすら、嫌悪と嫉妬の情を抱いた。秘密という名の蜜は、このとき毒に変わった。
わたしの取るに足らない記事が功を奏したというわけではないのだろうが、舞台は初日から盛況だった。狭い劇場にぎっしりと詰め掛けた観客で、身動きも取れない有様だ。消防署に知れたら、さぞ怒られることだろう。
夕紀さんの黒蜥蜴は見事……というよりも異様だった。
大抵は黒蜥蜴の部下である雨宮役の俳優に手を取られていて、目の不自由さをカバーしてもらっている。時にはそれが明智小五郎になり、またときには誘拐される早苗役の女優になる。一人で舞台に立つ時には黒い杖をついていた。黒いドレスを脱ぎ捨てて半裸になり、エロチックなダンスを踊り始めたときには目のやり場に困った。舞台の上で歌い、泣き叫び、絶叫する姿は今まで見たどんな黒蜥蜴とも違っていた。誰が演じた黒蜥蜴よりもリビドーという名の熱を、その放射を感じた。けれどそれはどこか廃頽的で、デカダンスの香り漂う、終わりに向かって落ちていくだけの、ただそれだけの芝居だった。笑いの要素は一切なかった。観客もそんなものは求めていなかった。皆がただ恍惚として彼女の姿を見つめていた。そこには宗教的な匂いすら感じられた。
征爾には舞台前に一度挨拶したが、夕紀さんには会わなかった。芝居後の楽屋にも足を運ばなかった。ツイッターのダイレクトメッセージで少しだけ感想のやり取りをしただけだった。直接会ったら、わたしは彼女を抱きしめずにはいられなかっただろう。わたしの胸に残った熱が、夕紀さんを強く求めただろう。それがわかったから、あえて会わなかった。
舞台というのは公演のあいだ日々育つものだが、千秋楽にもう一度舞台を観に行くと、観客は二倍に膨れ上がっていた。夕紀さんの演技はさらに磨きがかかり、本当に目が見えていないのが不思議なくらいだった。劇中の警察相手の立ち回りにしても、紙一重でかわすその様子にわたしは息を呑んだ。汗が飛び散り、それがときに真っ赤な鮮血に見えた。彼女は舞台の上で自身の血にまみれながら、この世の全てを呪詛し、叫び続けていた。
生きている。わたしはここでまだ生きている。それだけを訴え、表現するように。彼女は全身にスポットライトを浴びて、満月のように輝いていた。
最後の舞台がはけ、ロビーに挨拶に出ている兄妹を見たとき、わたしは嫉妬で気が狂いそうだった。明智小五郎と黒蜥蜴がまるで夫婦のように寄り添っているのを見たからだ。舞台のラストの、その続きを見せられているようだった。
ふと、征爾がわたしを見つけて声をかけようとした、そのとき。
「藤の花の匂いがする」
夕紀さんが、ぽつりとそう言った。
「雨さん? 雨さん、いるの?」
目の見えない彼女が、すぐ近くのわたしを探している。嗚呼、その声の、なんて甘美なこと。彼女は舞台の俳優の澪から一瞬にしてわたしの見知った夕紀さんに戻っていた。だから。
わたしは思わず、
「夕紀さん」
と声をかけてしまった。
彼女の手を取ると、夕紀さんはわたしの手を何度も何度も確かめて、本当に? 本当に雨さんなんですね、そう言って、強く、しっかりとわたしの手を握った。
わたしも彼女の手を強く握り返した。わたしの薬指に指輪がないことに、夕紀さんは果たして気づいてくれただろうか?
「嬉しい。千秋楽も観に来てくれたんですね。でもどうして初日のときには直接、挨拶をしてくれなかったんですか?」
人目もはばからず、観客でごった返すロビーの中央でぽろぽろと涙を零す妹を、征爾は目を丸くして見つめていた。初めて見る誰かのように。見てはいけない何かのように。そしてわたしに向かっては、射殺すような、射抜くような視線を寄越してきた。わたしははっとした。……いけない。征爾が見ているこの場で、こんなことをしては、後々禍根を残す。そう思っても、わたしは自分自身を抑えられなかった。
ううん、違う。本当は見せつけたかったのだ。わたしと、夕紀さんの姿を。征爾に。あの兄に。
「……ごめんなさい。舞台の期間中だもの、夕紀さんの邪魔をしてはいけないと思って」
「邪魔だなんて。そんなこと、わたしが雨さんに対して思うわけがないじゃないですか。こんなに、こんなにもあなたに会いたかったというのに」
会いたかった。あなたに会いたかった。夕紀さんからその言葉が聞けただけで、わたしは十分幸せだった。彼女の口癖ではないけれど、今、この場で死んでしまっても構わない、と思った。
泣いている彼女を覆い隠すように胸に抱くと、着物にドーランがついてしまいますからと言って、慌てて顔を俯かせる。わたしはそんなこと気にしないで、だからもう少しだけこのままでいさせて、そう耳元で囁き、さらに強く彼女を抱いた。……わたしはあなたが好きよ。大好きよ。わたしの言葉が、夕紀さんの耳を薔薇色に染めた。
「説明していただけますか」
征爾がこちらに近寄り、押し殺した声で、そう言った。わたしの肩を掴んだ手の、その指先には、強い力が込もっていた。
わたしは静かに首を横に振った。そのときのわたしはどんな顔をしていたのだろう。
時間が砂のように過ぎていく。渦を巻くようにゆっくりと過ぎていく。
わたしは自分がとても重い罪を犯したことに、彼の最期の
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