9
スターバックスでアイスコーヒーを飲みながら、わたしは夕紀さんに手渡されたチケットを見ていた。
「黒蜥蜴?」
「ええ。ご存知ですか?」
夕紀さんは棒ほうじ茶のフラペチーノを飲みながらそう訊ねた。わたしは彼女の飲み物の上に盛られた生クリームを見ただけで、お腹がいっぱいになってしまっていた。そんなのばかり飲んでいるといつか取り返しがつかなくなるからね、とからかうと、わたし太らないから大丈夫です、と夕紀さんは笑った。わたしは自分のお腹に手を当てた。ちょっと羨ましかった。
「あの黒蜥蜴よね。もちろん知っているわ。かの三島由紀夫が絶賛した江戸川乱歩の探偵小説が元だもの。芝居に仕立てたのも三島由紀夫当人だし。初演は確か、そう昭和三十七年。主演は水谷八重子だったかしら。わたし、新派の全美版も観に行ったのよ。河合雪之丞の黒蜥蜴には突き刺さるような凄みがあってとても見応えがあったわ。女形の人ってすごいのね。普通の女性よりもよほど色っぽいんだもの。明智探偵とのキスシーンなんて思わず息を呑んじゃった。本当は男の人同士なのに。ああいうのってやっぱり歌舞伎をされていたときに培われたものなのかしら。三越劇場の雰囲気とも相まって、それはそれは見事だったわ」
わたしが熱っぽく語るのを、夕紀さんが唖然としながら聞いていた。少し喋りすぎたかしら、そう思ってコーヒーをストローで啜ると、苦味が喉の奥に残った。
「……芝居、お好きなんですね。初めて知りました」
「好き。とても好きよ」
「さすがに新派の劇と比べられると困っちゃうんですが……」
そう言って夕紀さんは苦笑を浮かべた。
「それで、夕紀さんの役は? 宝石商のご令嬢? それとも明智の部下の探偵団の……」
夕紀さんはわたしの声を遮るように、
「黒蜥蜴」
と言った。
「え?」
「わたしが黒蜥蜴なんですよ」
夕紀さんは呆気にとられているわたしを尻目に、にっこりと、妖艶に笑ってみせた。
「あなたが? 黒蜥蜴?」
わたしは年甲斐もなくはしゃいでしまった。
「すごい、主役じゃない」
「主役は明智小五郎じゃないですか」
「何を言っているの。もう、今まで黙っていたなんてずるいわ。わたしが驚くのを楽しみにしていたんでしょう?」
わたしが興奮して喋るのを、夕紀さんはけれど、どこか悲しそうな表情で聞いているのだった。ガラス窓の向こう側で、商店街を人が行き来している。強い西日に照らされて、行き交う人は、まるで遠い昔の影法師のようだ。
「……夕紀さん?」
不安になって声をかけると、夕紀さんは小さな声で言った。
「わたし、雨さんのことを何も知らないんですね」
「え? どうして?」
「わたしは雨さんがお芝居をお好きなことも、知らなかった。知っていたら、もっと、色々と……小説以外の話もできたかもしれないのに」
わたしは言葉に詰まりながら、もう一度コーヒーを飲んだ。看護師だと偽っていたわたしは、今も偽っているわたしは、自分の仕事に関することは極力話さなかった。翻訳のことも、芝居に関連したことも、自分からは話さなかった。それが、いけなかったのだろうか。
「最初に自由が丘に行ったときのこと、まだ覚えていますか?」
夕紀さんは明るい窓の方に顔を向けながら、そう訊ねた。
「覚えているわ。忘れるわけがないじゃない」
「そのとき、いつかわたしの家にいらっしゃい、猫を撫でさせてあげる、美味しい冷製パスタを食べさせてあげる、そう言ってくださったのを、覚えていますか」
「……覚えているわ」
わたしは掠れそうな声で答えた。アイスコーヒーのカップを握りしめていた指先が、冷たくなっていた。
「もう、桃の季節なのに。誘ってはくれないんですね」
あの家はもう、わたしの家ではなくなってしまった。
綺色はもう、いなくなってしまった。
それをどう伝えたらいいというのだろう。
「あの」
「ねえ、どうしてもう小説を書いてくれないんですか。わたしは、雨さんの小説を、ずっと楽しみにしているのに」
わたしはなにも言えなかった。ただ、青白い夕紀さんの顔を、真っ直ぐわたしに向けられているその瞳の奥を、じっと見ていただけだった。
「……ごめんなさい。色々と嫌なことを言って。未練たらしいですよね、わたし」
夕紀さんがテーブルに立てかけていた白杖を手に取った。彼女のフラペチーノはいつの間にか空になっていた。
「帰りますね。今日はわざわざ遠くまでありがとうございました。雨さんも気をつけて帰ってください」
しばらくは舞台にかかりきりなってしまうので、会えなくなると思います。ごめんなさい。そう言って夕紀さんが席を立った。
「ねえ、雨さん」
夕紀さんが一度足を止め、わたしを振り返る。
「わたしがサイトに連載していたあの小説、おととい完結したんです」
寂しそうな表情を浮かべて、わたしを、見ている。
「いつものように感想をいただけていなかったから、今日はそのお話が聞けたらいいなって、思っていたんですけど……。まだ読んでくれてはいないんですよね。そういうこと、ですよね」
わたしは、
待って。
というその一言が、どうしても言えなかった。そのあとに続く言葉が何も思い浮かばなかった。
夕紀さんが白杖をつきながら店を出て行くのを、わたしは焦燥にかられながら、でも、身動きひとつできずに、黙って見ていた。わたしの顔には未だ南国の黒い鳥が居座っていて、わたしの言葉を、わたしの気持ちを、喰い散らかしていた。
鳥はわたしを食べながら、嘘つき、嘘つき、と鳴いていた。
ひどく、しゃがれた声で。
妹には夕食を食べて帰る、と言ってしまった。
その予定がなくなってしまったのだから、さっさと帰ればいいのに。わたしはなぜか露のアパートにそのまま戻る気にはなれず、日比谷線の上野駅で途中下車をした。別に、何があるというわけでもないのに。
蒸し暑い空気をかき分けるようにして、ぼんやりとした足取りのまま、わたしは歩いた。あてもなく。だからそこにたどり着いたのは、偶然だったのだと思う。……ううん、違うのかもしれない。もしかしたらそれは、必然だったのかもしれない。
ふらりと立ち寄った上野の森美術館で、ひとりエッシャーの絵の展覧会を見ていたら、不意に涙が零れた。
今、隣に夕紀さんがいたとしても、わたしたちはこの絵を、このだまし絵の不思議さを、共有することはできないのだと思ったら、涙が溢れて止まらなくなってしまった。他の絵画であってもそうだろうが、特にエッシャーの絵は、言葉では説明がつかない。有名な『滝』や『階段の家』を、わたしは自分の言葉で説明することができない。『でんぐりでんぐり』に描かれた動物の奇妙さを、愛らしさを、どうやって伝えたらいいのかわからない。ソーシャル・ビューという目の見えない人と芸術を鑑賞する方法があるのは知っていた。けれどそういうことではなかった。
それは、わたしたちを隔てる壁だった。
それが、わたしと夕紀さんの世界を隔絶する全てだった。
言葉では、今目の前にしているものを、正確に相手に伝えることができない。自分の思っていることすら正しく伝えることができない。嘘や偽りを全て排除することなんてできない。真実を語ることができないのならば、わたしたちは沈黙するしかないのだ。
どうして私生活が……夫とのことが色々とあって、小説を読んだりする意欲がなかったのだと、サイトを開く気力すらなかったのだと、素直に言えなかったのだろう。伝えることができなかったのだろう。ごめんなさい、夫との離婚調停で疲れていて、それで。そう一言言えば、済んだ話だったかもしれない。
けれどもわたしは、そんな自分の言い訳がましい言葉なんて、最初から信じていなかった。そんなものはわたしの伝えたいことのほんの一部に過ぎなかった。ううん、それも嘘だ。彼女に自分のことを伝えたくなかったから、わたしは沈黙したのだ。
疲れていたのだわたしは。作り物の世界に身を置くには疲れすぎていたのだ。まがい物の恋愛なんて、もう見るのも書くのも嫌だった。だから、口にできなかった。
それに、そんなことを喋ってしまったら。わたしが嘘で塗り固めた人間なのだと、知られてしまう。
嘘も、本当のことも、全部。言葉とはいったい何なのだろう。わたしはそれに携わり、その怖さを理解したはずなのに、……なのに。これほどまでに言葉が用をなさないものだったなんて、信じられないものだったなんて、救いのないものだったなんて。わたしは知らなかった。口に出しても無力だし、口に出さなければ、ことさら無力だなんて。それが本当の言葉の怖さだというのなら。もう、……どうしようもないじゃないか。
悔しかったのだろう。とても、とても悔しかったのだろう。
展示された絵を見ながらぽろぽろと泣き続けるわたしを、他の客は奇異な目で見ていた。学芸員らしき男性が寄ってきて、気分が悪いのですか、とわたしに訊ねた。
わたしは、大丈夫、少し辛くなっただけだから、と答えて、足早に美術館を出た。外に出ると真っ赤な夕日が落ちかかっていた。
あの夕日の赤さを、どうやって表現したらいいんだろう。
この世界の美しさを、残酷さを、愛おしさを、何万字費やしたら言葉に置き換えることができるのだろう。
わたしはそんなことを思いながら、街が夕闇に包まれる中、いつまでもその場所に立ち尽くしていた。
辺りがすっかり暗くなってからアパートに帰ると、パソコンにメールが届いていた。
妹は出かけてしまったとやはりラインで知らせてきた。久しぶりに二丁目で飲んでくるらしい。なら、帰宅は深夜だろう。
ルームウエアに着替えてからメールを開くと、知り合いの情報誌の編集者からだった。来月号に乗せる劇団の紹介記事を依頼したい旨が簡潔に書かれていた。演劇関連の小さなコラム記事を担当していた方が急病になって、その枠に穴が空いてしまい、代わりのライターを探しているらしい。稿料も取り立てて高くはなかったが、しかしわたしは一も二もなく引き受けることにした。
なぜなら、取材先はこちらで決めてもいい、と書かれていたからだ。
それも大掛かりな舞台のものよりも、小劇場のようなところのものの方が好ましいと言ってくれていた。
わたしは逸る気持ちを抑えつつ、仕事の詳しい内容についてメールで訊ねた。
ふと窓を見ると、鏡になったその表面に、わたしの顔が映っていた。右目の痣は相変わらず赤黒いまま、そこに留まっている。少しも小さくならないし、色が消える気配もない。
わたしは久しぶりにネット小説のサイトを開き、ブックマーク登録をしてあった夕紀さんの小説にアクセスした。まだ読んでいなかった最終話を読み始めた。途端に指先が冷たくなった。
主人公が、ルームメイトのハーフの先輩に、自分の罪を告白していた。兄との子を孕り、堕胎したことを。わたしはわたしに起きたことを思い出して、胸が痛くなった。夕紀さんにはわたし自身の身の上なんて話していない。だから、彼女がどんなことを思ってこの結末を書いたのか、わからない。今日、あのとき、あの喫茶店で、訊けばよかったのだろうか。
小説の感想を書きあぐねているうちに、編集者からの返信が届いた。わたしはそれをすぐに確認した。
そのときのわたしは、わたしの罪に酔っていたのだと思う。自分の無力さに酔って、甘えていたのだと思う。
知りたい。彼女のことが知りたい。舞台が開けるまではもう、彼女に会えない。それはあまりにも辛いことで、わたしの心は死地に向かって進むレミングスのようだった。このまま、情けない気持ちのまま、彼女に会えないのは辛すぎた。だから。
知りたいと思ったのだ。もっと、彼女のことを。
わたしはその甘露のごとき秘密の蜜を、飲み干さずにはいられなかった。
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