気がつくと病院のベッドの上だった。薄く目を開けたわたしを見て、露は泣きそうな顔で、馬鹿、と言った。

「綺色がいなくなっちゃったの。ねえ、あの子は死んでしまったのかな」

「生きているわよ。絶対。だって、あなたの猫だもの。あなたのところにちゃんと帰ってくるわよ」

 わたしを抱き締める露の肩が小さく震えていた。泣いているの、と訊ねると、もう一度馬鹿、と言われた。

 朝、綺色を探してふらふらと歩いていると、不意に大声で、

「霞っ」

 と呼ばれた。振り返るとそこに、双子の妹が立っていた。蒼白な顔で、立っていたのだ。

「どうしたの、その顔、ねえ、どうしたの?」

「なんで露がいるの?」

「昨日、どうしても胸が苦しくて眠れなかったの。不安で不安で仕方がなかったの。霞に何かあったんだって、すぐにわかった。だから、助けに来たのよ」

「……助けに?」

 誰を? わたしを?

「ありがとう」

 切れた唇で呟いた瞬間、わたしは意識を失った。救急車で近くの病院に運ばれ、検査の結果、眼窩底骨折だと言われた。最悪、失明するところだったと。医師に言われた。

 あいつのことは絶対に許さない。必ず仇をとってやる。露が悔しそうに、憎々しげに、吐き捨てた。けれど、そんなことはどうでもよかった。わたしの心配は綺色のことだけだった。露はあきれたように、でも、優しい声で、大丈夫、必ず帰ってくるから。そう言ってわたしを励ましてくれた。

 処置や精密検査を受けて退院したわたしは、もう小説を書く理由もツイートをする理由もなくして、それらを全部消去した。

 村上春樹が『ノルウェイの森』の中で、


〝手紙なんてただの紙です〟

〝燃やしちゃっても心に残るものは残るし、とっておいても残らないものは残らないんです〟


 と書いていたのをふと思い出したのも、きっかけの一つだったかもしれない。でも。

 心にさえ残らなくていい。わたしのことなんて忘れ去って仕舞えばいい。そう思ったのだ。

 梅雨の終わりの雨のように。六月最後の雨のように。

 膨大なツイートの陰に隠れて、わたしの呟きだって、いつかは消えてしまうのでしょう? そう思うと、もう、どうでもよかった。考えるのも面倒で、投げやりになってしまった。夕紀さんとはもう、会うことはないのだろうと思うと、それだけが胸に棘のように残って、わたしの心を苛んだ。

 逃げるように転がり込んだ露のアパートから、ぼんやりと朝まだきの通りを眺めているとき、不意に電話がかかってきた。表示を見て驚いた。夕紀さんからの着信だったからだ。部屋を見回して、そういえば露は夜勤でいないのだ、と思い出した。

 メールアドレスや電話番号は互いに知らせてあったが、ツイッターのダイレクトメッセージでのやり取りが便利すぎたので、メールはもちろんのこと、電話がかかってくるのも、初めてだった。

「もしもし」

 恐る恐るスマートフォンを耳にあてがうと、

「ごめんなさい。……ごめんなさいっ。お願い、わたしを許して。お願いだからいなくならないで。わたしの前から消えちゃいや。お願い……。お願いだから。ねえ、どうして? どうしてツイッターも小説のサイトも消しちゃったの?」

 そう言って泣き崩れる、夕紀さんの声が聞こえた。

「わたしが、わたしが悪いんですよね。わたしが最後とか言ったからですよね。わたしのせいで、雨さんの、雨さんの小説が全部、消えちゃって、それでわたしはどうしたらいいの? わたし、雨さんに何をしたらいいの? わたし、わたし、雨さんがいなくなっちゃったら、もう、どうしていいのかわからない」

「……ここにいるよ」

 わたしは静かな声で言った。

「ずっと、ここにいる。どこにも行ったりしないわ」

 嘘だった。

 綺色だって、どこかに行ってしまったじゃないか。

 わたしに帰る場所なんて、なくなってしまったじゃないか。

 わたしはまた、性懲りも無く、嘘をついている。どうしようもない嘘つきなのだ、わたしは。

「ねえ、夕紀さん。お願いが一つだけあるんだけど、聞いてくれるかな」

 わたしはぽろぽろと、気づかれないように涙を零しながら。出来うる限りの優しい声で言った。喋ると殴られたときに切れた口の中の傷の名残が、まだ、痺れるように痛かった。

「わたしができることだったら、なんでもします。なんでもしますから」

「七月の公演、観に行ってもいい? すごく楽しみなの」

 夕紀さんはしばらく喉を詰まらせていた。嗚咽が聞こえた。わたしはじっとスマートフォンを耳に当て、彼女の言葉を待った。

「当たり前じゃないですかっ。雨さんの馬鹿っ」

 わたしは彼女が泣き止むまで、ずっと、あなたが好きよ、大好きよ、と。呟き続けていた。


 ツイッターはすぐに復活させられたけど、一度退会した小説のサイトはもう、元には戻らなかった。わたしは金輪際誰かを基にして小説を書く気はなかったから、別にそれでもいい、と思った。しかし夕紀さんはひどく残念がってくれた。もう一度小説を書いてください。わたしにあなたの小説を読ませてください。そう言ってくれるのはこの世界で、夕紀さんただ一人だけだった。

 夫との離婚協議は最初難航していた。妹が腕のいい弁護士を見つけてきてくれて、緩やかにではあるが、どうにか事が運んでいた。それでも身を切られるような、辛い時間が続いた。あるときどこでそういう人と知り合うの、と露に訊ねると、もちろん二丁目の飲み屋に決まっているじゃない、と笑うのだった。

 わたしの顔には、未だにどす黒い痣が残っている。顔の怪我だもの、しばらくは仕方がないわね。でも、必ず消えるから。露はそう言うけれど、これはわたしが引き受けるべき、罪の象徴のようにも思っていた。夫のことは、好きだった、と思う。そうでなければ、大学院を辞めてまで結婚なんてしなかった。でも、この世にはどうしようもないことだってある。取り返しのつかないことだってある。わたしはそのことを、嫌という程思い知った。

 夕紀さんとはそれからも何度か二人で会った。いつか夕紀さんがダンスを踊った碑文谷の公園で、ガルシア=マルケスの短編小説を読んであげた。木漏れ日がきらきらと光り、彼女の髪をまだらに染めた。夕紀さんは『この世で一番美しい水死人』を気に入り、わたしの声に耳を傾けていた。素敵な話ですね、と彼女が言った。けれどなぜだろう。わたしには昔ほどの精彩が、そこにはないような気がした。あれほどわたしを魅了したマルケスの小説なのに。理由がわからなかった。

 わたしは夕紀さんに、自分の身の上に起こったことは一切話さなかった。命の次に大事な猫が消えてしまったことも、魂を削るような離婚調停中であることも。すでに結婚指輪は外していたが、改めて言うべきことだとも思わなかったから。目の見えない夕紀さんがそれを知ることは、この先もないだろう。それに。

 わたしの痣も、見られなくて済む。

 わたしの顔に残った痣は、まるで南国の黒い鳥のように、わたしの右目から頬にかけてをその羽根で覆っていた。道行く人が振り返るくらいに、それはひどい痣だった。

 だから。

 これを見られないでいられることだけが、わたしの唯一の救いだった。

 そして、わたしは今回のことで、改めて言葉の本質というものを知った気がした。

 翻訳の仕事をして、舞台のレビューを書いてきたわたしは、この一件で初めて人の口から出た言葉が持っている力を、その恐ろしさを、知ったように思う。

 言葉は人を傷つける。

 自分の意思に関わりなく。

 つきたくてついた嘘じゃなくても。たとえ真実であっても。

 言葉が生まれるときも、消えていくときも。

 それは眩しい光のように、何かを放ちながら、どこかへと流れていく。

 ボリビアで活躍している作家の、掌編小説の翻訳を依頼され、その第一稿を提出したとき。原稿を読んだ編集者の人から、文章の雰囲気が変わりましたね、と言われた。わたしにその自覚はなかったが、結局のところ、翻訳というのはその人自身なのだろう。ある国の言葉を日本語に訳すだけだったら、今はパソコンのソフトが自動的に行ってくれるかもしれない。けれど小説の翻訳というのはそれとはまったく違う。その世界を自分自身の体の中に取り込んで、そしてもう一度自分の言葉で物語を再構築する。ううん、再表現すること。それが、本来の翻訳家の仕事なのだ。だからだろうか、この小説の仕事は心を少しずつ殺がれるようで、胸が痛かった。

 担当編集の彼女は言った。

「特に主人公の心理描写が、情感豊かで日本語としてもとても素晴らしかったです」

 何か、あったのですか。

 電話口でそう訊かれて、わたしは、失恋したんですよ、と答えた。わたしが既婚者だと知っている彼女は、ただ、そうですか、と言っただけだった。その後何本か小説の翻訳の仕事が回ってきたが、結局わたしはその全てを断ってしまった。

 消えた綺色がどうなったのか、わたしにはわからなかった。夫が家の外に出したのだとばかり思っていたが、彼は違うと言っているらしい。

 夫が綺色を殺して庭に埋める夢を何度も見た。その度にわたしは泣きながら目を覚まし、露がいるときには、抱きしめてもらっていた。

 震えながら、

「ごめんね」

 と小さな声で言うと、露はいつも苦笑するだけだった。

 ……露に女の子の影がないことに気づいたのは、いつだっただろう。露の付き合っていた女の子たちは、いったいどこに行ってしまったのだろう。わたしのせいで遊べないでいる露を見るのは、不憫だった。そう告げると、霞は馬鹿ね、と笑うだけなのだが。

 露は時々、わたしが住んでいた辺りを見に行ってくれている。猫を、綺色を探して。

 けれどもそれらしい痕跡は、見つからないままだった。


 公演のチケットができたので、お渡ししたいのですが。そう、ツイッターのダイレクトメッセージが届いたのは、梅雨なのによく晴れた、風の強い、六月の土曜日のことだった。

 夜も更けており、千住の街も静かだった。窓の外を見ると目隠し代わりに植えられた紫陽花が、闇の中で仄青い花を咲かせていた。けれど雨が少ないせいなのか、その花たちはどこか暗く沈んで見えた。


《郵送もできますけど、どうしますか。》


 妹のアパートに厄介になっている手前、ここに送ってもらうわけにはいかなかったから、わたしは直接会って手渡してください、とメッセージを送った。すぐに既読になり、返信が送られてきた。


《いつがよろしいですか?》


《ええと、直近だと今度の月曜日が一日空いています。その日でもいい?》


《わかりました。では六月二十五日の、十四時でしたらわたしも都合がつけられます。申し訳ないのですが、こちらに来ていただいてもいいですか?》


《大丈夫ですよ。》


《それではいつもの改札口でお待ちください。お伺いします。》


 ノースリーブの麻地のシャツに、寝間着代わりの短いフレアパンツというラフな格好で、わたしがパソコンを使って夕紀さんとやり取りしていたのを横にいて見ていた露は、なんとも言えない、複雑な表情を浮かべていた。

「……なに?」

 わたしが首をかしげると、露は小さくため息をついた。

「結局、霞はその子をどうするつもりなの?」

「どうもしない。彼女とわたしは、友達だもの」

「でも、好きなんでしょう?」

 露はどうしてだろう、泣きそうな顔で、そう言うのだった。

「好きよ」

 わたしは言った。

「好き、だけど、恋人にはなれない」

「どうして? 離婚したら晴れて自由でしょう?」

 自由。わたしはそっと目を閉じた。わたしの黒い鳥が、羽を広げたのがわかった。


〝……あなたが簡単に家庭を捨ててしまうような人なら、わたしのこともそうするでしょう? いつかきっと、わたしをあなたは捨てるでしょう?〟


 あのときの夕紀さんの言葉が、わたしの頭の中で破れ鐘のように響き渡る。何度も何度もリフレインする。あの、夕紀さんの泣き顔と一緒に。

 そう。確かにその通りだった。わたしはあっさりと家庭を壊してしまった。今も壊している最中だった。それを思うと、彼女に気持ちを伝えることなんて、できやしなかった。

 ごめんなさい。ごめんね、夕紀さん。

 嘘つきなわたしは、きっと、いつかあなたを傷つける。取り返しがつかないくらいに。それが、怖かった。怖くてたまらなかった。

「わたしたちは友達でいることを選んだんだもの。それがきっと、一番いいのよ」

 わたしは目を閉じたまま、そう言った。涙が溢れて、頬を伝っていった。

「嘘つき」

「そうよ。わたしは嘘つきよ」

 露の指がわたしの頬に触れた。優しく、壊れ物を扱うように。わたしの黒い鳥の羽に触れた。そして。

 次の瞬間、

 彼女の舌がわたしの涙を拭い去っていった。

 驚いて目を開けると、露は悲しそうな表情を浮かべて、笑っていた。静かな、切なげなその瞳で、じっとわたしを見ていた。

「何をするのよ、馬鹿」

「馬鹿は姉さんでしょ。……泣き虫」

 露はわたしの額に軽く頭突きをして、寝室に去っていった。おやすみなさい、そう、言い残して。

 わたしは露の背中を、茫然としたまま、不思議な気持ちで見つめていた。そっと頬に手を当てると、痣がひどく熱を持っていた。

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