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わたし、これでも子供の頃までは、目が見えていたんですよ。夕紀さんは静かな声で喋り続けた。中学に上がるの頃までは、それでもなんとか見えていたんです。
夜の碑文谷の公園は、誰もいない。池からは時折蛙の鳴き声が聞こえてくる。低く野太い声なので、きっと牛蛙か何かだろう、と思った。
「遺伝性の病気で、少しずつ視力を失っていって、今ではもう、ほとんど見えません。視角はトイレットペーパーの芯から覗いたくらいで、物の輪郭もなんとなくわかる程度です。光はまだ感じられるのですけど、いずれはそれも、消えて無くなってしまうのでしょうね」
確かこの公園では、以前殺人事件があったはずだ。わたしはそのニュース映像を覚えていた。
「お医者さんの話では、失明する人は少数だってことなんですけど。わたしの知り合い……患者仲間ですが、同じ病気で結構失明しています。だからわたしも、きっとそうなると思うんです」
ここはもっと、緑深い公園だったはずだ。事件以降、治安のために随分と木が切られたと、何かで聞いたことがあった。あれは、誰から聞いたのだったか。夫だろうか、それとも露からだろうか。あるいは新聞で読んだのだろうか。
わたしはぼんやりと空を見上げた。
曇った空には星ひとつ輝いていない。
「わたし、昔は子役としてテレビにも出ていて、いずれは女優さんになりたいな、って、思っていました。今は、……小さな劇団で、ミュージカルの演者をしています。七月に公演があるのでぜひ見に来てください。こう見えてわたし、歌もダンスも得意なんですよ」
夕紀さんがいたずらをした猫のように、笑っている。わたしはそれを横目で見ながら、夜の風を頬に感じていた。
「わたしみたいな障害者でも受け入れてくれる劇団がすぐ近くにあって、本当に良かったと思っています。だから幸せか不幸せかで言えば、多分、幸せなんだと思います。目が見えないわたしに、みんな親切にしてくれますから。……でも時々思うんです。もしわたしの目が見えていたら、もっと違った世界が広がっていたかもしれない、自分一人で生きていけたかもしれない、って。……映像俳優と舞台俳優は、やはり別のものですから」
昔、古い映画館で『ダンサー・イン・ザ・ダーク』という映画を見たのを思い出した。あの主人公も市民劇団でミュージカルに参加していた。病のために失明していく物語だった。劇中での彼女の演じる役はなんだったろう。『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアだったか。
「歌は……さきほど披露させてもらいましたけど、ダンスはまだでしたね。ここ、池の前が少し広くなっていますでしょう。わたしが座っているベンチから、ちょうど十歩で池の柵です。右手の奥が遊具ですよね。子供の頃からずっとここには来ているから、見えなくてもわかるんです」
夕紀さんは立ち上がり、顔を街灯に向けた。白杖はベンチに立てかけたままだった。
「公園の街灯までが二十二歩」
なにをするの。わたしが声をかけると、夕紀さんはわたしの方を振り返り、優雅なお辞儀を……バレエのレヴェランスのような仕草をした。
そして、静かに踊りだした。
それは今までに見たどんなダンスレビューよりも、どんな舞踏よりも、踊りそのものだった。彼女の細い指が空気をかき鳴らすとその度に夜が震えた。公園は今や彼女の楽器で、彼女は舞い踊る一本の花だった。夜の喜びに震える青白い百合の花だった。
オフ会での彼女の歌も見事だったけれど、ダンスはそれ以上に素晴らしかった。本当に彼女の目が見えていないのか、わからなくなるくらいに。足を高く上げると彼女の黒いドレスが闇の帳のように翻った。体を回転させる。ピンクブラウンの髪が夜に溶けていく。わたしは息を飲んで、夕紀さんの踊る姿を見つめ続けていた。
かかとを地面に打ち鳴らす、カツンという音が響いた。
彼女のダンスが終わった。それはそのまま世界が終わってしまうような、そんな錯覚をわたしに与えた。
彼女の言っていたオフ会は、秋葉原で行われた。万世橋近くのカラオケ店に集まって、互いに小説の話を熱く語り合っていた。集まったのはわたしを入れて七人。皆ネットで小説を書く方らしいが、女性は夕紀さんとわたしだけだった。
わたしは彼らの話す言葉の内容が——多分アニメのキャラクターのカップリングの話をしているのだろうけれど——わからず、曖昧な笑みを浮かべたまま、ただ、そこに座っていた。夕紀さんはそこでは「ルカ」と呼ばれていた。それが彼女の本名なのか、それともハンドルネームや別のペンネームであるのか、それすらわたしにはわからない。仮に洗礼名だと言われても、わたしは頷いていただろう。
夕紀さんはわたしを従姉妹のお姉さんだと説明した。目の見えないわたしを心配してついてきてくれたの。と、そう話すのだった。わたしはしどろもどろになりながら、なんとかその場をやり過ごそうとした。夕紀さんはわたしの隣から片時も離れなかった。わたしも甲斐甲斐しく夕紀さんのために給仕をした。そしてアニメか何かの主題歌を熱唱する彼女を、潤んだ目で、熱っぽく見つめていた。
周囲の人たちからは、お二人の姿を見ているとなんとも百合っぽくていいですね、と言われた。何をもってそう判断したのか、わたしは聞く気にもなれなかった。皆若く、大学生そこそこに見えた。
秋葉原では強い雨が降っていた。色とりどりのネオンが篠突くような掠雨の中で煙っていた。一本の傘に身を寄せ合うと、全てが雨の音に包まれた。けれど夕紀さんの最寄駅に着いた頃には、すでに雨は上がっていた。あれは今はやりのゲリラ豪雨の一種だったのだろうか。すぐに別れず、少し歩きましょう、とわたしを誘ったのは、夕紀さんの方だった。
駅前は西口も東口も同じような商店が並んでいる。だからどちらに歩き出したのか、咄嗟にはわからない。わたしの肘を掴んでいるのに、まるでわたしが誘導されているみたいだった。
小さな飲み屋街の外れに、そのお店はあった。古い雑居ビルの二階。看板には『Seals』と書かれていた。あざらしたち……の意味だろうか。
狭く少し急な階段を上る。ショットバーのようなので、わたしは戸惑い、夕紀さん、本当にここでいいの、と訊ねた。夕紀さんは大丈夫です、ここであってます、と笑った。十九歳の少女がバーの前で佇んでいることの不自然さを、彼女もちゃんと理解していた。
「ここ、わたしの父の友人がやっているお店なので、わたしが入っても咎められたりしません。大丈夫です。お酒は飲みませんから」
わたしたちは店に入り、スツールに座った。店主は三十路くらいの痩せた背の高い女性で、切れ長の目と肩口で切りそろえられた黒髪が、美しかった。妹のタイプの女性だな、と思った。何度か、幾人かの恋人の写真を見せてもらったことがあるけれど、妹はなぜか、そういう人ばかりを好きになる。
「いらっしゃい、久しぶりね」
わたしと夕紀さんに向けて、彼女は笑った。笑うと目が糸のようになった。
「わたしはいつもの。雨さんは?」
「モヒートを」
「モヒート? なんですか、それ。不思議な名前の飲み物ですね」
「ホワイトラムとミント、ライムのカクテルよ」
女主人が彼女に答える。ふうん、初めて知りました。夕紀さんはそう言って小さく笑った。雨さんはやっぱり大人なんですね。
「ねえ、もしかして怒っているの?」
わたしが訊ねると、夕紀さんは小さく首を傾げてみせた。
「わたしが、ですか? どうしてそう思うんです?」
「なんとなく」
「なんとなく、ですか」
夕紀さんがくすくすと笑う。わたしはそれを横目で見ながら、思っていた。だってそうでもなければ、どうしてわたしを今日みんなの前に連れ出したの? その言葉が喉に引っかかっていた。気持ちが悪い。言葉が出てこない。
わたしは毛玉を上手に吐けない猫のように、ただ、喘ぐだけだった。夕紀さんは目の前に置かれたアイスティーを手探りして、両手でグラスを持った。アールグレイ特有のベルガモットの匂いと仄かな蜂蜜の香りがした。
「わたし、雨さんは日本酒のイメージでした。今日もお着物ですものね」
「日本酒も飲むけれど。でも、暑い日には、こういうのが好きなの」
わたしは自分の前に置かれたグラスを、少し持ち上げてみせた。もちろん、夕紀さんにそれが見えるわけは、ないのだけれど。
グラスの中の液体を口に含むと、鮮烈なミントの香りが、喉を滑り降りていった。今まで知っていたそれとはまるで違っていた。モヒートをここまで上品に作れる人に、わたしはかつてお目にかかったことがない。
「おいしい。すごい」
そう呟いたわたしに、女店主はにっこりと笑った。
「そのミント、わたしがプランターで栽培しているんです。だからかもしれないわね」
「いいな。わたしも飲んでみたい」
「あなたはダメよ、未成年」
静かに笑いあう二人に、わたしは嫉妬した。
そう、今日はずっと、嫉妬していたのだ。わたしの知らない夕紀さんに。わたしの知らない夕紀さんを知っている誰かに。赤の他人に。そんな資格があるわけないのに。わたしはずっと、ずっと嫉妬していた。
夕紀さんがわたしを今日、連れ出した理由が、なんとなくわかった気がした。わたしに自分の世界を、自分自身を形作っているものを、見せようとしている。直感的にそう思った。それがどんな意図なのかは、言われなくてもわかっているつもりだった。
秘密のバーで小一時間ほども話して、わたしたちはまた夜の街を歩き始めた。たどり着いたのが、碑文谷の公園だった。
「ほら、わたし、ダンスだって踊れるんです」
軽く肩で息をつきながら、踊り終えた夕紀さんはそう言った。額には汗が浮かんでいて、前髪がいく筋か、張り付いていた。
「……今度は雨さんのこと、教えてくれませんか」
家に帰ると猫がいなくなっていた。いつもなら玄関を開ける音に反応して、まっすぐに駆け寄ってくる綺色が、どこにもいない。
時計の針はすでに深夜一時をまわっていた。
夫がリビングルームで一人、お酒を飲んでいた。下戸の彼にしては珍しく、顔が真っ赤に染まっている。
「こんな時間まで、どこに行っていたんだ」
「そんなことより、綺色は? 綺色はどうしたの?」
「知らない」
「知らないって、そんな、ねえ、綺色は」
「綺色綺色ってうるさいなっ」
夫がグラスをテーブルに叩きつけた。わたしはその音にビクッとして、体を竦ませた。彼がこんなに激昂する姿を見せたのは、初めてのことだった。
「どこに行っていたのかって、訊いているんだ」
「友達と出かけるって、言ってあったじゃない」
「……こんな時間までか」
そう言われてしまうと、返す言葉がない。黙ってしまったわたしに、夫は、本当は外に男ができたんだろう、と言った。
「なに、それ。やめてよ」
口が乾いて、喉が張り付きそうだった。
「来い、確かめてやる」
夫がわたしの手をつかんだ。振りほどこうとして、でも、出来なかった。夫の力はあまりにも強くて、抵抗することができなかった。
この人も男なのだ。わたしを無理やり、力づくでどうにでもすることができるのだ。そう思ったら、全てが急に怖くなってしまった。
「や、やめて、離して」
「うるさいっ」
次の瞬間、目の前で火花が散った。殴られたのだとわかるまでに時間がかかった。痛いと思うよりも先に、びっくりしてしまった。夫に、ううん、男の人に手をあげられるなんて、初めてだった。
夫はわたしに馬乗りになって、何度も何度もわたしの顔を殴った。顔を手で覆うと、髪を掴まれて引きずられた。わたしは、ごめんなさい、と繰り返すだけだった。それしか言える言葉がなかった。
裾を割って夫の手がわたしの下着に触れた。そのまま濡れてもいないのに指を入れられて、わたしは悲鳴をあげて抵抗した。けれどもう一度右目を真上から、思い切り殴られただけだった。
着物の帯を無理やり剥ぎ取られ、ベッドに突き飛ばされ、夫に道具のようにされながら、ああ、ばちが当たったのだ、と思った。
嘘つきなわたしに、神様の罰がくだったのだ。
わたしは腫れあがったまぶたを懸命に開いて、綺色の姿を探した。でも、わたしの猫はどこにも見えなかった。わたしにいつも寄り添っていてくれたあの賢い綺色が、どこにも、いない。もう、どこを探しても、わたしを助けてくれる存在は、いない。いないのだ。
夫がわたしの上で動いているあいだずっと、夕紀さんと交わした最後の言葉を、思い出していた。
「わたしに、語るべき身の上なんて、何もないわ」
わたしがそう言うと、夕紀さんは泣きそうな顔をした。ううん、実際に、彼女の頬には涙が伝っていた。
「わたし、あなたが好き。好きでした」
夕紀さんが震える声で言う。
「けれどあなたは帰る場所のある人でしょう? あなたを好きになっても、その先なんてないのでしょう?」
わたしはその涙で胸がいっぱいになってしまった。溺れて、息をすることすら叶わない。思わず駆け寄り、夕紀さんの手を握った。
「わたし、全部捨ててもいい。わたしも夕紀さんが好きよ」
「……駄目ですよ、そんなことを言っちゃ」
夕紀さんは泣きながら笑った。
「軽はずみにそんなことを言っては駄目、駄目ですよ。あなたが簡単に家庭を捨ててしまうような人なら、わたしのこともそうするでしょう? いつかきっと、わたしをあなたは捨てるでしょう? それに……わたしたちは女同士なんです。雨さんは本当に、わたしを受け入れてくれるんですか?」
夫の腰が、激しく動いている。わたしは殴られて開かない眼で、何かを見ようとしていた。それが夫の顔なのか、それとも別れ際の夕紀さんの顔だったのか、わたしにはもう、わからない。
「雨さんは優しい人です。いつもわたしに優しく接してくれてとても感謝しているし、すごく嬉しいです。でも、それはいつまで続くの? ねえ、わたしはコンビニでおにぎりを選ぶことすらできないんです。大きさも手触りもほとんど一緒で、誰かに教えてもらわなければ食べるまで味もわからないんです。雨さんはその都度わたしに教えてくれますか? ううん、そんなわたしに、あなたはきっと嫌気がさす日がくる。いつか目の見えないわたしを面倒くさいと思う日が、きっとくる。そんなの……耐えられない」
夕紀さんの涙は、綺麗だった。まるで、今は雲に隠されている夜空の星を全部集めたみたいに。きらきらと光っていた。
しばらくして、ごめんなさい、感情的になってしまって、と夕紀さんは言った。
「……最後に、一度だけ、抱きしめてくださいませんか。それで、この気持ちは全部、なかったことにします。なかったことにしますから」
わたしは彼女を抱きしめた。わたしの方こそごめんね。そう、耳元で囁きながら。夕紀さんの体からはミントに少し似た、悲しい汗の匂いがした。
名残惜しさに、そっと髪に唇を寄せると、そこにはまだ、夕立の気配が残っていた。
雨の匂いが残っていた。
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