二回目のデートは浅草になった。夕紀さんが抹茶のリベンジをしたい、と言ったからだ。三社祭が始まる、一週間前のことだった。

 それは五月なのにあまりにも暑い日で、わたしは着物ではなく、薄手のワンピースにヒールのついた、ラタンのサンダルを合わせた。出掛けに玄関の靴箱に設置された姿見を見てみた。全体的に眺めてみると、なんとも淡い色合いの取り合わせだった。藤の練香の匂いだけが、最初に会ったあの日のまま、わたしの首筋から甘く香っていた。

 夕紀さんはどんな格好で来るのだろう。ゴスと呼ぶのだったか、あの……喪服のような服装で、今日も来るのだろうか。

 二十歳になるまでに死んでしまいたい、ううん、死んでしまうと思うんです。事ある毎にそう口にする夕紀さんに、漆黒の、闇色の服装はよく似合う。でも、できることなら。そんなことを思って欲しくはなかった。少なくともわたしといるあいだは楽しいと感じてもらいたかった。わたしはもう、彼女の憂いで青い氷の百合が咲くのを、見たくはなかった。

 綺色に見送られるように日傘を片手に家を出た。

 彼女の家は東急東横線の沿線にあった。父が幾つかレストランを経営していると言っていた。少なくともお金に困っているようには見えなかった。ただ、彼女が日々何をして過ごしているのかということになると、途端にわからなくなる。夕紀さんは自分の生活に関した話をやんわりと避けた。だから、あえてこちらも深くは訊かなかった。

 電車が駅に着く。

 夕紀さんはホーム直通のエレベーターの前で待っていてほしい、とメッセージを入れてくれていた。まだ彼女が来ていないことを確かめたわたしは、改札をぼんやりと見ていた。

 もう一度夕紀さんに会おうと思う。露にそう告げると、彼女はきっぱりとした口調で、

「友達以上の関係になるのはやめなさいよ。お互いに不幸になるだけだわ」

 と言った。

「結婚しているって言ってあるの? ……その様子じゃ言っていないのね。なら、少なくとも家庭があることはちゃんと伝えなさいよ。それができないなら、会うべきじゃないわ」

 わたしはこっくりとうなずいて、わかった、と言った。

 カリカリと小さな音がした。わたしは思考を追いやった。視線を上げると夕紀さんが白杖の先を床の点字ブロックに当てて立ち止まり、自動改札に手探りでパスを押し当てているところだった。わたしは声もなく、その姿を見つめていた。

 彼女は世界にたった一人だった。周囲から浮くように、ただそこに存在していた。

 襟飾りのついた不思議な形の黒いサマードレスを着て、小型の黒いツーウエイ・トランクを持って。静かに、水辺に咲く黒百合のように。わたしのすぐそばに佇んでいた。

 黒い、薔薇のレースで彩られた麦わらのカンカン帽が、彼女のピンクブラウンの髪にとてもよく似合っている。

「夕紀さん」

 声をかけると彼女は視線を上げた。

「雨さん?」

「はい。今日もよろしくお願いしますね」

 夕紀さんが目を閉じた。わたしは不思議に思って、そんな彼女を見つめていた。

「……今日も雨さんから藤の花の匂いがする。いい匂い」

「ありがとう」

 わたしは夕紀さんの左手をそっと、自分の右腕に誘導した。どうかこの胸の激しい高鳴りが、彼女に伝わりませんように。ううん、正しく伝わりますように。そう思いながら。わたしたちはホームに向かって歩き始めた。


 並木の藪で蕎麦をたぐる夕紀さんの姿を、わたしは見ていた。

 ざるの上を箸で探る様子は流石に手慣れている。ただ、猪口との距離感がつかめないのか、蕎麦がつゆにどっぷりと浸かってしまう。江戸前の蕎麦つゆは味が濃いから。あれではしょっぱいのではないかとわたしは気が気ではなかった。けれど夕紀さんは、ここのお蕎麦は美味しいですね、とやわらかく笑ってくれていた。お店の従業員のおばさんが目の見えない夕紀さんのことを、時折心配そうに見つめていた。外国から来たと思しき観光客の男性は、わたしたちには目もくれず、一人で優雅に日本酒を飲んでいた。

「しょっぱくなかった?」

 お店を出たあと小声でそう訊ねると、まあ、あれくらいなら大丈夫です。そう言って夕紀さんは苦笑した。……その様子を見て、やはり少し、塩辛かったのかもしれない、と思った。

「じゃあ、今度は甘いものでもどう?」

「いいですね。お蕎麦も一枚だけだったから、まだまだ入ります」

 並んで歩き始める。夕紀さんの白杖が、カリカリと音を立てる。

「なら。そうね、あんみつはお好き?」

「甘いものならなんでも好きですよ」

 五月の青空の下で、はにかむように笑顔を浮かべた夕紀さんは、綺麗だった。若々しい青桃のように、頬の産毛が光っていた。

 彼女の十九歳という年齢を思って、わたしは少し、切なくなった。もしもわたしたちが同年代だったなら。ううん。少なくとも……わたしが人のものでなかったなら。どうしてもそう考えてしまう。わたしと彼女を隔てるものは、あまりにも多く、大きい。

 そっと息をつく。わたしは今、どんな顔をしているのだろう。暗い、情けない顔をしてはいないだろうか。ちらりと隣を見る。夕紀さんは少し目を伏せるようにしながら、静かに歩いている。わたしの肘を、しっかりと握り締めながら。

 浅草寺の境内を抜けて、観音裏の甘味どころ、梅村まで足を延ばした。来週に控えた三社祭の準備で街がざわついているのがわかる。祭りが始まるのだ、という雰囲気が、空気中に光の粒になって浮かんでいるようだ。

 梅村のあんみつも、夕紀さんは美味しい美味しいと言いながら、嬉しそうに食べてくれた。ただ、なんでも好意的に受け止めて美味しく食べてくれているように見えるけれど、本当は、夕紀さんの食べらなれない食品のリストは膨大で、いつもは食事を選ぶのに困るほどなのだという。

 魚介類は全て食べられず、きのこも茄子も駄目。辛すぎるものも酸っぱすぎるものも駄目なのだと。それから目が不自由だから、基本的には箸で食べられるものでなければ駄目らしい。わたしがそれじゃ大変じゃないの、と呆気にとられていると、ずっとそうだったので、それ以外の生活を知らないんです。そう言って夕紀さんは屈託無く笑った。

 そのあとも、わたしたちはあてもなく歩いた。浅草の観音裏は静かだった。並んで日傘の中で話をしていると、まるで世界が閉じられて、二人きりでいるような気がした。わたしはこの時間がずっと続けばいいのにと思った。けれど。

「ねえ、雨さん。この辺りにどこか休めるような、公園みたいなところってありますか。少し……歩き疲れてしまって」

 そう言われて、わたしは慌てて足を止めた。夕紀さんもわたしにつられて歩みを止める。夕紀さんの表情を伺いながら、日傘を閉じてスマートフォンの地図アプリを開き、辺りを検索した。公園を示す緑色をした小さな土地が、すぐ近くに表示されている。小学校のそばが児童公園になっているらしい。

 わたしがそのことを告げると、ではそちらの公園で少し休ませてください、と夕紀さんが言った、その次の瞬間だった。夕紀さんの体がぐらりとゆれた。慌てて彼女を支えると、やわらかな黒いサテンの生地が、しっとりと汗で濡れていた。

「大丈夫? 霍乱しちゃった?」

「……かくらん、ってなんですか?」

「熱中症のことよ。ねえ、大丈夫?」

「なんだか、急に力が抜けてしまって。ごめんなさい」

 夕紀さんは血の気が引いたように、青い顔をしていた。わたしは彼女の腰に手を回し、その小さな体を支えるようにしながら、地図アプリを頼りに公園へと急いだ。大きな木の下の木陰になっているベンチに彼女を座らせ、近くの自動販売機でスポーツドリンクを買ってきて、これを飲んで、と手渡した。

 彼女がゆっくりとスポーツドリンクを口にしているあいだに、わたしは小ぶりのミネラルウォーターをもう二本購入し、彼女の脇の下にそっとそれを挟ませた。以前妹が、熱中症のときには太い血管が通っている脇の下を冷やすのがいいと言っていたのを、ふと思い出したのだ。

「こうしていれば体にこもった熱が下がるから。ごめんね、無理させちゃって」

「ううん。謝らないでください。わたしの方こそ、ごめんなさい」

「もう。そんな真っ黒な格好をしているからだわ」

 わたしがそう言うと、夕紀さんはくすくすと笑った。これはわたしの、……乙女の矜持ですから、それにもうすぐ……二十歳になるまでには死んでしまうと思うので。好きな格好をしていたいんです。そう言って、苦笑するのだった。

「でもさすがに看護師さんですね。雨さんに医療の知識があって助かりました。ありがとうございます」

「……そんなこと」

 嘘つきなわたしは言い淀むことしかできなかった。厭世的な物言いを諭すことができなかった。夕紀さんはそれを、どう解釈したのだろう。

「謙遜しないでください。あの」

 わたしの手をそっと握り、

「お願いです。手を握っていてもらえませんか。今だけでいいので」

 小さな声で、囁くようにそう言った。

 わたしは両手で彼女の手を握った。

 夕紀さんの手は、白く、やわらかく、氷のように冷たかった。

 風が吹いた。

 生暖かな風が、わたしと夕紀さんのあいだを、緩やかに吹き抜けていった。


「指輪」


 消え入りそうな声で、夕紀さんが言った。

「左手の薬指に、指輪をしているのですね」

 わたしは咄嗟に手を離した。その瞬間、周囲から、すっと音が消えたような気がした。わたしの、血の気とともに。

「前にツイッターのメッセージで、うちの人が帰ってきたって、そう書いてあったから。きっとパートナーがいらっしゃるんだと、思っていました。でも、そうですか。結婚、してらっしゃったんですね」

 焦点の合わない目で、夕紀さんはじっとわたしを見つめていた。瞳の中にわたしの顔が映りこんでいた。どうしようもないくらい情けない顔が、そこには映っていた。

「あの、こんなことをお願いしては申し訳ないんですが」

「なに? わたしにできることなら、なんでも言って」

「今度、わたしが所属しているネットの文芸サークルの、オフ会があるんです。そこに、一緒に参加してもらえませんか」

 一瞬耳を疑った。何かを聞き間違えたのだろうか。わたしは訳がわからずに黙っていた。夕紀さんの言っている意味がよくわからなかった。何か、わたしを試しているのだろうか。

「以前、……別の会に参加したときに、わたしの目が不自由なのをいいことに飲み物に薬を混ぜられてしまって、それで……ひどい目にあってしまったので。怖いんです」

 ひどい目、ひどい目って、なんだろう。舌が口の中で乾き、喉に張り付いていた。わたしは掠れる声で、なぜ、と問うた。

「そんな思いをしたのに、どうしてまたそんな場所に行くの? どうしてわたしなの?」

 夕紀さんは小さく笑い、

「わたしがそのオフ会を主催したから。わたしは雨さんを信用しているから。だからです」

 そう、言ったのだった。

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